第六章
「索敵3番機、帰艦します」
「着艦準備急げ」
索敵に出ていたダグラスSBD(艦上偵察爆撃機)ドーントレスが雲の切れ目からゆっくりと姿を顕した。第二次大戦中、偵察専用の艦上機として開発されたのは帝國海軍の彩雲が唯一で合衆国では艦上爆撃機がその用途に代用されていた。
見張り員の報告を受けマクファーレンは着艦準備の指示を発した。
「あの様子じゃまだ十二月晦日提督の艦隊は発見できていないみたいね」
「こちらの動きを読んでいるとしたら、そろそろ網にかかってもよさそうなものなんですけどねぇ……」
ドーントレスは特に着艦を急ぐような素振りも見せてはいなかった。それを見たバスカヴィルはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「もしかして、セレベス海経由で東南アジアへ向かっちゃったんじゃ……?」
「十二月晦日提督に限ってこちらの意図に気づかないなんてことがあるわけがないわ!」
こちらの思惑に嵌らず常識的な選択をしたのかもとサザーランドは首を傾げた。
しかし、いつもいつもこちらの作戦の裏をかいてきた十二月晦日が深読みもせずそんな単純な選択をするとはバスカヴィルには考えられなかった。
「艦長、無理をいってすまないけど日没までにはまだ時間があるわ。もう一回索敵機をだせないかしら?」
「索敵はベテランの搭乗員にしか任せられないのですが……」
レーダーが使えないこの時代、目印になるものがほとんどない海上での夜間飛行は非常に困難である。また、索敵は敵を発見するだけでなくその位置を正確に測定できなければ意味がなくなってしまう。つまり必然的に索敵は陽のあるうちにベテランの搭乗員によって行う必要がある。
「どうせベテランの搭乗員を温存しておいたって、こちらに出番が回ってくる可能性は薄いのよ?」
「わかりました……。まずは敵艦隊の発見に力を注ぎましょう」
索敵にベテランの搭乗員を使いすぎてしまうと、いざ攻撃というときになってあまり経験を積んでいない搭乗員しか残っていない危険性があるとマクファーレンは渋った。
しかし、この第38任務部隊第4群の任務は敵艦隊を誘いこむことにある。ベテラン搭乗員をだし惜しみしてそれに失敗してしまえば元も子もなくなってしまうとバスカヴィルは喰い下がった。
「飛行長、もう一回索敵を出すから搭乗員の選定を」
「はい、艦長(Aye aye sir)」
マクファーレンは飛行長に索敵機の準備を命じた。
「3番機の後方、機影らしきもの確認!」
「―――な、なんですって!?」
そのとき、別の見張り員が上ずったような声を上げた。
その声を耳にしてバスカヴィルたちは弾かれたように立ち上がると艦橋の窓際に駆け寄って双眼鏡を手にした。
「どうやら、こちらの索敵機の跡をつけられたみたいですね?」
「ドーントレスの上を取れるということはPeteか……。やられたわね……」
双眼鏡で見ても敵機らしき機影はぽつりとした光点にしか見えなかった。だが、最大上昇限度が約七、八00メートルのドーントレスの上空を飛べる水上偵察機は最大上昇限度約九、四00メートルを誇る零式水上観測機しか考えられなかった。Peteとは零式水上観測機の連合国側のコードネームである。
最新鋭の艦上偵察機彩雲なら最大上昇限度は一0、000メートルを超えるが、敵機らしき機影が飛んできた方角に敵の空母がいる可能性は極めて薄い。
その敵機らしき機影はかなりの高高度からこちらの艦影を識別しようと高度を下げつつあるところだった。
「どうします? 艦載機を上げて後をつけさせますか?」
「いえ、今から準備しても追いつけないでしょう?」
敵の偵察機の跡を逆につけさせるかどうか指示を仰いできたマクファーレンにバスカヴィルは首を横に振った。敵機はあまりこちらを深追いせずすぐに機首をもと来たほうへ返してゆくところだった。
「それより、艦長。さっきの偵察機の最大航続距離はどのくらいかしら?」
「Peteだとすれば約1、000キロといったところです」
「とすると、最大でも500キロ以内に敵の艦隊がいるわけね?」
バスカヴィルは顎に手を当てて少しの間考えこんだ。
「艦隊、速力20ノットへ減速。予定の海域へ進路変更。念のため直掩機を上げて周辺海域を哨戒、敵艦隊の接近を警戒せよ。第38任務部隊旗艦レキシントンへ敵偵察機との遭遇の第一報を連絡機にて連絡」
そして矢継ぎ早に命令を発し始めた。その命令を受け、艦長のマクファーレンや航海長、通信参謀たちも慌ただしく動き始めた。
(ちなみに、以前十二月晦日が沈めたといっていたレキシントンはレキシントン級空母のレキシントンで第38任務部隊旗艦レキシントンはその名を引き継いだエセックス級の同名艦である)
「はい、敵は下ばかり気にして頭の上はお留守になっているようでしたのですぐに雲の中に突っこんで機体を隠しました。もし零式水上偵察機だったら無理でしたが、こちらは零観です。ドーントレスの上を取ってやつらの母艦までまんまと道案内させてやりました」
「うむ、そうか。若いのにいい腕じゃな」
目をきらきらと輝かせながら報告を続ける零式水上観測機の搭乗員を十二月晦日は目を細めて褒め上げた。
「―――あ、ありがとうございます!」
下士官である水上機の搭乗員からは雲の上の存在である十二月晦日にじきじきに報告ができただけでなく、お褒めの言葉まで賜ったのだ。搭乗員は顔を上気させがばっと腰を折った。
「して、敵の編成は確認できたのかのぅ?」
「はい。空母は二隻、うち一隻はヨークタウン級でしたがもう一隻の大型空母は初めて見る型でした。残りはニューオリンズ級とウィチタ級の重巡が一隻ずつ、戦艦らしき艦影は確認できませんでした」
「そうか。腕だけでなく目も鋭いようじゃのぅ。これで今後の作戦が立てやすくなった。礼を申すぞ」
「―――そ、そんな、長官……。もったいないお言葉です!」
十二月晦日に面と向かって礼をいわれた搭乗員は顔をくしゃくしゃにして泣きそうになった。
「工内、士官食堂へ連絡してこやつらになにか美味いものでも食わせてやれ」
「はい、長官」
十二月晦日に命じられた工内は艦橋詰めの伝令を呼び寄せるとすぐに厨房へ走らせた。
「―――そ、そんな、長官……。下士官が士官食堂で食事など……」
「気にするな。長官であるこのわしが許可しておるのじゃ。ごちゃごちゃ抜かすやつがおったら文句ならわしに申せと伝えておくのじゃ」
陸軍に比べて一般的に海軍は食事がよかったが士官と下士官以下の食事は厳密に分けられていた。士官には専用の烹炊所と呼ばれる厨房が備えられており、それとはさらに別に長官や艦長専用の烹炊所も設けられていた。そこでは有名ホテルや豪華客船で腕を振るったコックが調理に当たっていたという。
「長官がそうおっしゃってくださってるんだから、遠慮しないで食べていくといいわ」
まだ遠慮を続ける零観の搭乗員たちの気を楽にさせようと比栖間は肩をぽんと叩いた。
「―――は、はい。参謀長!」
自分たちが産まれる前から艦隊の指揮を執っているもはや生きている伝説といっても過言ではない十二月晦日とは違って比栖間ならそれほど歳は離れていない。なのに『アリューシャンの虎』という二つ名まで奉られるほどの輝かしい戦果を上げているのだ。若い兵士や下士官にとって比栖間は、学校だったら憧れの頼れる先輩のような感じで慕われていた。
もっとも、特に用がなければ艦橋になどおいそれとは出入りできない兵士や下士官はいつも十二月晦日に怒鳴られては半べそをかきそうになっている比栖間の姿など見たこともないのだ。自分たちが勝手に抱いたイメージに合わせて比栖間のことを見ていたとしても無理からぬことなのかもしれなかった。
「それでは、失礼いたします!」
「うむ。ご苦労じゃった」
敬礼を送って艦橋を退出してゆく水上機の搭乗員たちへ十二月晦日と比栖間は答礼を返した。
「伯峰、そなたの申す通り零観を積んでおいて正解じゃったな?」
「零観は航続距離以外のあらゆる性能規格で零式水偵を上回ってますから……。連絡用ならともかく、索敵には航続距離三、三00以上あっても無用の長物ですし……」
「―――う、うわっ!? ―――せ、先任参謀、いらっしゃったんですか……?」
独り言のように十二月晦日が呟くとぬぼっと長官席の背後に姿を顕した伯峰がぼそりと答えた。それを見て、伯峰がいたことにまったく気配を感じていなかった明石が驚いたような声を上げた。
「まぁ、そのために第三課の課員がまた一人照陽の毒牙にかかってしもうたがのぅ……」
軍令部第二部第三課は軍備を管轄する部署である。軍の中枢からは嫌われている十二月晦日がまともに掛け合ってもいい装備など回してもらえるはずがない。なので照陽がたらしこんでこっそり零式水上観測機を配備してもらったのだろう。さすがに気がとがめたのか十二月晦日は気の毒そうな表情を浮かべた。
「あの娘、ぜったい畳の上では死ねないわよね……」
「ふん。あやつなら畳の上よりそなたか大山の腹の上で死にたいと抜かすじゃろうな」
「―――じ、冗談でもやめてください、長官……。なんか背筋が寒くなってきました……」
照陽のそういうふしだらなところがどうしても許せなかった比栖間は露骨に嫌悪の表情を浮かべた。そんな比栖間を十二月晦日が大真面目な顔でからかった。しかし比栖間はそれを真に受けてしまったようで腕やふとももに鳥肌を立ててしまっていた。
「まぁ、冗談はさておき」
表情を引き締めると十二月晦日は零観による索敵結果の検討を始めた。
「報告にあったヨークタウン級はエンタープライズで間違えなかろぅ」
「といたしますと、もう一隻の艦型不明の大型空母は……?」
「そちらがエセックス級じゃろうのぅ」
工内はいいにくそうに口ごもった。
だが、十二月晦日はそれがエセックス級の新型空母だとはっきりいい切った。
「あの零観の搭乗員はわたしが見こんで引き抜いてきた……。既存の艦型なら見分けられないはずがない……。その娘たちでも識別できなかったのなら新型艦であることは間違えない……」
十二月晦日の考えを補強するように伯峰もぼそりと口を開いた。
「エセックス級、ほんとうに完成していたんですね……」
認めたくなかった真実を容赦なく突きつけられたように比栖間はぽつりと呟いた。
「しかし、長官。なんで敵機動部隊はこちらの索敵機を逆につけてこなかったんでしょう?」
「一つは敵空母が艦載機の発艦準備を整えておらなかったからじゃな」
水上機としては高性能だが相対的に見れば零式艦上観測機の速度は決して速いものではなかった。逆に追いかければこちらの艦隊の位置を見つけられたのではないかと明石は不思議に思った。
その疑問に十二月晦日は自分の考えをまとめながら答えた。
「もう一つは、零観が発見したのは本隊から外れて一番南寄りを哨戒しておった艦隊だったからじゃろう。今ごろは本隊と合流して攻撃準備を始めておるじゃろうな」
「なんで索敵機が発見したのが一番南寄りの哨戒部隊だとお考えなのでしょう? 発見した艦隊より南に本隊がいる可能性だって捨てきれないと思うのですが……」
「そなたがそう思うのももっともじゃが」
明石はもともと技術者で海戦には素人だった。なので十二月晦日も比栖間に対するときとは違って怒鳴りつけたりはせず淡々と説明を続けた。
「太平洋艦隊の主力機動部隊は第三八任務部隊じゃが、これは四つの群で編成されておる。我が帝國海軍では同種の艦で戦隊を組み戦隊をいくつか合わせて艦隊を編成するのじゃが、あやつらの場合は一つの群が色々な種類の艦で編成されておって、まぁそれ一つで小さな艦隊のようなものじゃな」
「へぇ、そうなんですか」
「一つの群には大型空母二隻が配備されることが多い。軍令部が入手した情報によればエセックス級と思しき空母が七隻、そして今回の索敵で発見できたエンタープライズが一隻。都合八隻じゃ。一つの群に二隻ずつ配備してぴったりの数じゃ」
「確かにそういう計算になりますね」
「その四つある群のうち一つだけ新型艦だけでなく旧型艦交じりで編成されたものがあれば、一番損な役回りはこの群に押しつけられるとは思わぬか?」
「確かにそうですね」
装備が劣る艦隊を任されるとすれば階級が同じなら一番新任か、さもなくば上からの受けがよくない司令官ということになるだろう。どの道、一番損な役回りが押しつけられるのはこの司令官にだろう。
「だから長官はヨークタウン級のエンタープライズが配備されたこの艦隊が哨戒任務だとお考えになったのですね?」
「そうじゃ。そしてこれがわしらに対する哨戒じゃとすれば本隊は帝國本土から南下してくるはずの機動部隊に備えて北寄りにおる可能性が高いのじゃ」
説明を聞いただけで明石は思わずため息を漏らしていた。いつもながら十二月晦日にかかればどんな戦局でもまるで将棋の盤面を上から眺めているように敵の手の内がまる見えになってしまうような気がする。
「聞いての通りじゃ。大山に零観からの索敵結果を知らせて航路の再計算を急がせるのじゃ」
「はい、長官」
十二月晦日から敵艦隊との会敵位置を記したメモを受け取ると軽須は信号員の方へ向かった。
「して、この後はどうする? 続けて索敵機を出したいところじゃが敵もばかでなければ直掩機を上げて警戒しておるじゃろう。いくら零観の格闘性能が高くともF6F相手では分が悪かろう?」
「多少危険は伴いますが零式水偵で夜間偵察をやりましょう……。真っ昼間に敵の艦戦と遣り合うよりはましです……。いざとなれば九八式水偵もありますし……」
観測機ながら零観の格闘性能が非常に優れていたのは敵の偵察機や観測機を撃墜してこちらの偵察や弾着観測を有利にするためである。
弾着観測とは敵艦隊の上空へ観測機を飛ばし味方の砲撃が目標に対してどれだけずれているかを知らせ、照準の修正のアシストを行うことである。レーダーの開発に伴うレーダー照準射撃が実用化され、空母が搭載する高速の艦上戦闘機が制空権を握るようになると弾着観測は事実上無意味で不可能になったが、この時代は電波障害によりレーダーが使用不能になっていたため再び脚光を浴びるようになっていた。
ちなみに零観の格闘性能がどれくらい高かったかというと第二次大戦末期、複葉の水上機ながら米海軍の主力艦上戦闘機F6Fを撃墜したという記録が非公式ながら残っているほどである。ただしこれは零観の操縦士が超がつくほどのベテランだった場合で、普通なら勝負にならない。
その戦闘機も単座のため夜間には飛ぶことができないが三座である零式水上偵察機ならそれも可能となる。
「昼間飛ばして敵戦闘機との戦闘に巻きこまれるよりは、まだ夜間偵察の方が危険性は少ないか……。搭乗員には無理をして事故など起こさぬようそなたからよくいい含めてくれ」
「はい……。長官、それについて一つお願いが……」
「なんじゃ? 水上機の運用はすべてそなたに任せておるのじゃ。なにか策があるのなら遠慮せず申してみるがよい」
「効率は落ちますが二機一組で偵察に出したいのですが……」
「なるほどのぅ……」
伯峰の提案を耳にすると十二月晦日は顎に手を当てて考え始めた。
「二機一組なら遭難の危険性は低くなるのぅ。わかったのじゃ。どの艦からどの機体を飛ばすかは任せるゆえ、その手でゆくとするのじゃ」
「ありがとうございます、長官……」
伯峰は十二月晦日に軽く頭を下げると、軽須の方へ向き直り淡々と命令を発し始めた。
「一九00(ヒトキュウマルマル)、第一次夜間偵察を敢行……。使用機は榛名の零式水偵一号機と愛宕の零式水偵三号機……。搭乗員はそれまで仮眠を取り十分休養のこと……。軽ちゃん、以上のこと愛宕へ連絡お願い……」
「はい、伯峰さん」
伯峰に頼まれるとどことなく嬉しそうに軽須は通信文の作成に取りかかった。
「なんだか先任参謀、いつもと違いますね?」
いつもはいるのかいないのかわからないくらい存在感が薄い伯峰が淡々ながらも的確に指示を発しているのを目の当たりにして明石は目を円くしていた。
「さて、比栖間よ」
「―――は、はい……。長官……」
伯峰が夜間偵察の準備を進めるのをこちらははっきりとにこにこしながら眺めていた比栖間は突然十二月晦日に声をかけられびくっとなった。
「航路の再計算は大山に頼んだ。夜間偵察の準備もした。この後やっておかねばならぬのはなんじゃ?」
「―――えっ……!? この後まだやらなきゃならないことなんてあるんですか……?」
いつもなら自分がない知恵を絞って考えなくてはならないことを伯峰がてきぱきとやってくれていたのでのほほんとしていた比栖間は虚を衝かれてうろたえた。助けを求めるように視線を巡らせる。だが夜間偵察の準備命令を終えた伯峰はいつものようにぼーっとした様子に戻ってしまっていた。目が合った工内は可哀相な娘でも見たような顔をしてそっと目を逸らせた。
「おいおい、比栖間よ……。わしらが今追いかけているのはどういう艦隊じゃ?」
「どうっていわれましても……。―――き、機動部隊ですよね……?」
考えもなくうっかり答えるとまた怒鳴られてしまうかもしれない。比栖間は恐る恐る自分の考えを口にした。
「そうじゃ、機動部隊じゃ。そして我がほうと敵との距離は約二00キロ。陽が落ちるまでにはまだ三時間近くはあるのじゃ。これだけ手掛かりをやってもまだわからぬのか?」
「―――え~っと、艦載機って三00キロくらい出るんだっけ……? 二00キロ離れているってことは往復で四00キロだから……」
十二月晦日の声がだんだんと冷たく険しいものになっていくのを感じて比栖間は冷や汗をだらだら滴らせながら必至になって頭を働かせた。
「これなら陽が落ちる前に往復が可能だから艦載機による攻撃も可能ってことよね……?
―――も、もしかして対空戦の準備でしょうか……?」
「わかっておるなら、さっさと命令せぬか!」
「―――は、はい、長官!」
答えが合っているかどうか緊張のあまり裏返ってしまった声で比栖間は復唱した。
「……だ、第三戦隊、第四戦隊、対空戦の準備を」
「はい、参謀長」
「戦艦榛名、対空戦用意! 主砲、三式弾装填」
比栖間の命令を受け、軽須は命令文を書き始めた。工内も艦内に対空戦の準備を命令した。三式弾とは散弾の一種で時限信管により上空で砲弾内部に充填された弾子を放出して敵機を攻撃する。
「長官は敵が仕掛けてくるとお考えですか?」
「いや、おそらくはこぬじゃろうな」
ここで敵艦載機が襲ってくれば明石にとっては初めての実戦となる。やや緊張した面持ちで訊ねた明石に十二月晦日は頭を横に振った。
「エンタープライズの最大搭載機数は九十六機、一回の攻撃に飛ばせるのは直掩機や予備機を残すのを考えれば六十機ほどじゃろう。エセックス級は第二次世界大戦中の原型と同じじゃったら通常の搭載機数は九十機、飛行甲板の上にまで露駐させれば最大百二機じゃからこちらも飛ばせて六~七十機といったことろじゃ。合せて百二~三十機ということになる」
「さすが長官、原型の性能規格をよく覚えておいでですね」
「まぁな。なんにせよ、この機数では戦艦二隻、重巡四隻の相手はちときつい。かというて陽が落ちる前に第二次攻撃を仕掛けたり、本隊と連絡を取って攻撃隊を編成する時間的余裕もないのじゃ。やるとすれば本隊と連絡を取って夜明けと共に一気に勝負に出る可能性が高いのじゃ」
「なるほど」
すぐには戦闘は始まらないだろうという予想を聞いて明石はほっとしてため息を漏らした。そんな明石を横目で見ながら十二月晦日は工内へ顔を向けた。
「そうはいうても陽が落ちるまでは気が抜けぬのじゃ。工内、今のうちに交替で乗員には飯を食わせておいてやるのじゃ」
「はい、長官」
工内は艦橋詰めの伝令を呼び寄せ烹炊所へ炊き出しを命じた。軽須も信号員に各艦へ炊き出しの命令の信号を送らせた。
「そなたらも交替で飯を食っておけ。今夜は寝られぬかもしれぬから仮眠もな」
「長官は召し上がられないのですか?」
幕僚たちには食事を勧めておいて自分は艦橋を離れようとはしない十二月晦日に明石は声をかけた。
「長官は戦闘が近づくと食事を摂られなくなるのよ。はっきりかたがつくまでなん日でも……」
心配そうな顔で比栖間が説明した。
「ふん。腹が一杯になると頭の回転も鈍るのじゃ。わしのことは気にせずそなたらは食っておくとよいのじゃ」
シャーロック・ホームズも推理に熱中すると頭の回転の妨げになると食事を摂らなくなったという。十二月晦日にはいつものことなのだろうが、いくらかまわないといわれても上官が食事を摂らないのに部下がのうのうと食事をするのはどうにも気が引ける。
「心配ありませんますです。このわたしが腕に縒りをかけてお夜食を作って差し上げますです」
「なにばかなことほざいてるのよ、皐月は!? だいじな一戦の前に長官を食中毒死させるつもりなの?」
「わしも畳の上で死ねるなどとは思うておらぬが、墓碑に食中毒死などと刻まれるのはごめんこうむりたいものじゃな」
「―――お、おひいさままでそんなつれないことを……」
夜食をむげに断られた皐月は床にがっくりと両手を突いて項垂れてしまった。
「それでは長官にはわたしが牛乳と砂糖をたっぷり入れた仏風牛乳入珈琲でも淹れて差し上げますよ。糖分は頭の回転の助けになりますし、それならお腹も膨れないからいいですよね?」
「ふん。珈琲牛乳か。そなたはどうしてもわしをお子ちゃま扱いしたいらしいのぅ」
「いえ……。決してそういうわけではないのですが……」
十二月晦日にじと目で睨まれた明石は冷や汗を浮かべた。
「牛乳なら栄養もあるし、なにも口にされないよりはよっぽどましだわ」
文句はいったが飲まないとはいわなかった。そういう素直でないところは比栖間にはよくわかっていたので牛乳を使ったカフェオレだけでも飲んでくれればまだ安心できた。
「比栖間、さきほどからそなたの肚の虫が音を立てて耳障りなのじゃ。さっさと飯を食ってくるのじゃ」
そこでにやりと意地悪く口の端を吊り上げるて十二月晦日は比栖間に横目を向けた。
「それともわしにつき合うて減量でもするつもりか? その体型で胴囲りがさらに細くなったら御池はなんといじゃろぅのう」
「―――そ、それではお言葉に甘えて食事にいってまいります!」
比栖間は十二月晦日に大慌てで敬礼を送ると艦橋から駆けだしていった。自分が食事にいきやすいように十二月晦日が冗談でそういってくれたのはよくわかっていた。だが、ほんとうにこれ以上プロポーションがよくなったりしたら御池になにをされるかわかったものではなかった。胸を揉まれるくらいですめば安いものだったが、逆上した御池ならなにをしでかしても不思議ではない。
「軽須よ」
「はい、長官」
比栖間の後姿が艦橋から消えるのを見送っていた十二月晦日が口を開いた。その苦渋の色が滲んだ声を耳にすると軽須だけでなく艦橋に残っていた工内や明石も顔を強張らせた。
「今のうちに照陽をこっそり榛名へ呼んでくれぬか? くれぐれも比栖間には気づかれぬようにのぅ……」
「わかりました……。ただちに金剛へ発光信号を送ります」
心配そうな目を向けたが軽須はなにも問わずに信号員のほうへ歩いていった。工内や明石も十二月晦日の沈痛な面持ちに声をかけられずにいた。
「伯峰、第一航空艦隊の指揮は誰が執るかのぅ?」
「第一航空艦隊の長官は新見の取り巻きのうちの誰かでしょう……。宵町か仲道か佐良戸かきっとその辺りだと思います……」
どれも新見の腹心で軍令部や海軍省の高官だったが新見と同じようにほとんど実戦経験がなく実質的には事務官僚だった。
「角屋か幡多か山淵が指揮を執ってくれればまだ勝ち目はあるのじゃがのぅ……」
「第一航空艦隊の長官は無理でしょうが、二航戦の司令官ならあるいは……」
「ふむ。さすがに実戦を知らぬものばかりで上層部を固めてくるほど新見もばかではないか……」
実戦経験もないのに新見が軍令部総長の地位を揺るぎないものにしているのは一つには政財界からの後押しを得ているからである。そうはいっても連戦連敗では海軍の作戦を統括する軍令部の長として責任を問われてしまう。それを避けるために新見がよく用いるのが司令長官には自分の息のかかったものを起用し、その下の戦隊司令官に実戦経験豊富なものを配するという手である。老獪な新見はその辺りのさじ加減には勘が働くようで実戦経験に欠ける司令長官でもそこそこの戦果を上げさせることに成功していた。また、戦果がそこそこであることを口実にして、実際に戦果を上げた部下の戦隊司令官の昇進を妨げてもいたのだ。
「機動部隊の指揮は実戦を知らない赤レンガには荷が重すぎます……」
「そなたのいう通りじゃな」
伯峰の考えを聞くと十二月晦日はしばらく黙りこんで考え始めた。
「司令長官直卒の一航戦は無理じゃが、二航戦ならあるいは……」
口の中でぶつぶつ呟きながら十二月晦日は長官席の肘かけを握り締めていた。その手が白くなっているのを見ると、決心がつきあぐねているのか知らず知らずのうちに力をこめてしまっているようだった。
「伯峰よ、ある程度まで座標を絞りこめれば二航戦まで水偵を辿り着かせられるか?」
「零式水上偵察機の航続距離は三、000キロ以上あります……。性能規格的には不可能ではありませんが……」
「やはり難しいかのぅ……。敵機動部隊を越えねば二航戦には辿り着けぬ。途中で敵艦載機と遭遇する危険性も高い」
伯峰の口調から無理だと思った十二月晦日は諦めたのか小さくため息を吐いた。
「はい、並みの搭乗員ならまず不可能でしょう……。しかし、搭乗員が天下一品の腕利きなら不可能ではありません……」
そこまでいうと伯峰はいきなり腰を屈めて十二月晦日の顔を覗きこんだ。
「長官、なんでうちに一言飛べと命じてくれへんのですか!?」
「ばかをいうでないわ! その脚で飛べるわけがなかろぅ?」
今までの抑揚のない喋りかたとはがらりと変わった伯峰の口調に明石は目を円くした。だが、怒鳴り返した十二月晦日も、それを固唾を呑んで見守っている工内たちも驚いた様子を見せていないことからすれば、伯峰がこういった喋りかたをすることもあるのは承知していたのだろう。
「二次戦のときルーデル大佐は義足で飛んでたやないですか!?」
「あほうか、そなたは? いくらそなたが天才でもルーデル大佐と同列に考えるなど片腹痛いわ! ルーデル大佐は人間を越えておるぞ!」
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル大佐。第二次世界大戦中のドイツ空軍の伝説的なパイロットである。
ユンカースJu87急降下爆撃機を駆って五百両以上の戦車と八百両以上の軍用車を一人で撃破した。五百両以上の戦車は一個軍団の戦車に相当する。出撃すること二千五百三十回。三十回撃墜されるもそのうち負傷したのはたったの五回しかない。撃墜され傷だらけで基地へ帰ってきてそのまま再び出撃しようとしたり、撃墜された友軍機のパイロットを助けるために敵地へ強行着陸するなどとても人間業とは信じられない逸話が数多く残っている。
その最後の負傷の際、ソ連軍の40mm高射機関砲が直撃して右脚を切断するという重症を負ったが、傷が癒える前に病院を抜け出し特注の義足をつけて部隊へ戻りさらに三十輌以上の戦車を撃破したと伝えられている。
(まぁ、ルーデル大佐が人間離れしておるというならわしなんぞは妖怪か化け物みたいなものじゃがな)
自分の身体のことを考え十二月晦日は内心で我が身のことを嘲った。
「うちかて、そこまでうぬぼれてまへんわ。長官、うちは飛ぶとはいいましたけど、操縦桿を握るなんて一言もいうてまへんで?」
「なんじゃと……?」
「うちが偵察員として航路誘導させてもらいますわ。そないやったら二航戦まで辿り着ける可能性がぐんと高まるんとちゃいますか?」
「…………」
前髪に隠れて見えないが伯峰が十二月晦日にじっと向けた目を逸らしていないことはよくわかった。その伯峰を十二月晦日も黙ったまま鋭い目で見返した。
「わかった……。そなたに頼むとしよう」
「よっしゃ、そないいきまへんとな!」
先に目を逸らしたのは十二月晦日のほうだった。重苦しい声でぽつりと口を開いた。
逆に伯峰は十二月晦日の顔を覗きこむために屈めていた腰を伸ばすと勢いよくガッツポーズを取った。
「もし二航戦の司令官が角屋か幡多か山淵じゃったらこれからわしがしたためる暗号文を渡してくれ。有り得ぬとは思うが第一航空艦隊の長官が小見沢じゃったら小見沢にも回してくれ」
「もし小見沢さんたちであらしまへんでしたら、どないします?」
「そのときはむだ足じゃな。偵察の途中で方位を見失のうたとでもいい繕っておいてくれぬか? わしの暗号文は焼き捨てるなりして絶対に他のやからにの目には触れさせてはならぬのじゃ」
「よぅわかりました。ほな、うちはこれから出撃準備に入りますわ」
伯峰は手櫛で前髪を掻き分けるとポケットから取りだしたヘアピンで留めた。これまで前髪に隠れて見えなかった意外に大きくてぱっちりした目が顕わになる。十二月晦日に敬礼を送ると伯峰は艦橋の出入り口へ踵を返した。
「先任参謀、足が不自由だったんですね……」
足を引きずった伯峰の後姿がようやくと見えなくなると明石はぽつりと呟いた。伯峰はいつの間にか姿を顕しいつのまにかいなくなってしまうので今まで気づいていなかったようだ。
「あやつはもともとは戦闘機乗りでのぅ。そのずる賢い戦闘指揮から『空飛ぶ詐欺師』という二つ名で敵からも恐れられておったものじゃ」
「空飛ぶ詐欺師って、あの撃墜王のですか……?」
その通り名なら実戦部隊に疎い明石でも耳にしたことはあった。最近あまり噂を聞かないと思ったら前線から離れていたのだと合点がいった。
「じゃが、武運拙く撃墜され一命は取り留めたものの、脚をやってしもうてのぅ。あの脚では方向舵操作踏板を素早く操作するのは無理じゃからもう二度と飛べぬであろうな」
十二月晦日はそれがまるで自分の身に降り注いだことかのように顔を歪めた。
「御池が魚雷ばかならあやつは飛行機ばかじゃ。あやつから飛行機を取り上げたらそれこそ生きる屍のようなものじゃからのぅ」
「それで長官は伯峰参謀に水上機の運用を一任されておられたんですね?」
「わしは航空艦隊の指揮官ではあらぬから航空参謀を持てぬので表向きは先任参謀ということにしてのぅ」
十二月晦日はどこか後ろめたそうに小さくため息を吐いた。
「じゃがわしの我がままであやつには悪いことをしたのやもしれぬ。あやつの才能が惜しくて手放したくなかったのじゃが、どこかの航空艦隊の航空参謀にでも送りだしてやったほがよかったのかもしれぬ……」
「それはどうでしょうか……」
特定の分野に秀でたエキスパートはその道には絶対の自信を持っているものだ。自分も電波屋としてなら他人に引けは取らないという自負があるからよくわかるのだが、こういう人間はその分野に関しては絶対に考えを曲げたりはしない。だから十二月晦日のように部下の意見にも素直に耳を貸す上官の下でならともかく、器の小さい上官の許では意見を衝突させて閑職へ飛ばされるのがおちだ。
「さて、わしは長官室に戻って二航戦宛に手紙を書くとするのじゃ。軽須、後ほど暗号に翻訳してくれ」
「はい、長官」
十二月晦日が向けてきた目に内容の他言は絶対無用という意味がこめられていることに気づいた軽須は姿勢を正して頷いた。
「それと照陽が着いたらすぐにわしの部屋へ通してくれ」
「わかりました、長官」
長官席からぴょんと飛び降りると十二月晦日も艦橋の出入り口に向かって歩き始めた。
実際に小柄なのだがいつもはそのふてぶてしい態度から十二月晦日はあまり小さいという気がしない。だがそのときは妙に十二月晦日の背中が小さく見えて明石は返事をしながら小首を傾げた。
「わしの作戦の中身を知ったら比栖間はどんな顔をするじゃろうのぅ……」
ぽつりと十二月晦日が口の中で呟いた言葉は誰の耳にも届くことはなかった。