第四章
「司令官、これで今日なん杯目ですか?」
「ふん。ほんとならコーヒーなんかじゃなくビールでも呑みたい気分よ?」
参謀のセレスティア・サザーランド中佐からコーヒー・カップを受け取ると合衆国海軍太平洋艦隊第3艦隊第38任務部隊第4群司令官メリッサ・バスカヴィル少将はハーフアップのブロンドの髪を揺らして不機嫌さを隠そうともせず鼻を鳴らした。
「それにしてもこんな作戦、前代未聞ですよね? わたし、聞いたこともありません」
「あら、奇遇ね? わたしも聞いたことないわよ?」
保温ポットで煮詰まって味も香りもしなくなったコーヒーを口に含んで顔をしかめるとバスカヴィルは皮肉げに吐き捨てた。
「まぁ、こんな作戦を仕掛けなきゃならないくらいウォレン大統領は追い詰められているってことね。これが失敗したら、次の大統領選は民主党が大敗して共和党に大統領の椅子はさらわれてしまうでしょうね」
やっと念願の空母部隊の司令官に抜擢されたというのにこの作戦で自分に割り当てられた役割が気に喰わないこともコーヒーが不味いのもサザーランドのせいではなかった。バスカヴィルは八つ当たりしていた自分が恥ずかしくなって口調を改めた。
「でも、新造のエセックス級だけでも7隻。それに、このビッグEことエンタープライズ。空母8隻が相手じゃ、いくらあの十二月晦日提督とはいえ年貢の納めどきでしょう?」
「いや、そうとはいい切れないわよ」
バスカヴィルが皮肉っぽいのはいつものことだ。軽くウェーブのかかったライトブラウンの髪ととろんとした目のせいかおっとりして見えるサザーランドは気を悪くした様子も見せず、まるで出来レースの結果でも確かめにゆくかのように気楽そうだった。
そこに、それまで黙って艦橋から航路を確かめていたエンタープライズ艦長のリリー・マクファーレン大佐が口を挟んできた。
「十二月晦日提督、あれは悪魔に魂を売ったのに違いないわ。そうでなければ、あんなことができるわけがない……」
「そうか。艦長は艦爆乗りだったときに十二月晦日提督と一戦交えたことがあったのよね?」
「はい。アカギ(赤城)の直上を取って艦橋に一発喰らわせてやれると確信していたんですが、目の前というより眼下にいたはずのアカギがするりと視界から消えてしまって……。どうしてあんな操艦ができたのか、空母の艦長になって自分で操艦の指示を出すようになってみるとますます信じられません」
そのときのことを思い出したのかマクファーレンは微かに身体を震わせた。癖のあるショートの赤毛に飛行機乗りらしくやや小柄ながらも体操選手のように引き締まった身体つきというがっしりした見てくれのマクファーレンが身体を震わせるくらいだから、よほど恐ろしい目に遭ったのだろう。
「わたしが十二月晦日提督とぶつかったのはミッドウェーのときです。この目で見たわけではないのですが、きっと真珠湾のときもあのようなことがあったのではないかと」
「艦長のいった操艦の腕もそうなんだけど、十二月晦日提督って素性のよくわからない人物なのよね」
「でも、海軍兵学校の出身だったら海軍情報局(ONI)で簡単に調べられるんじゃありませんか?」
「ところが彼女は兵学校の出身じゃないのよ」
「えっ!? 主力機動部隊旗艦の艦長に抜擢されたくらいだから兵学校を上位の成績で卒業したんじゃななかったんですか!?」
空母が集結しているという偽情報をつかませ帝國の虎の子の機動部隊を真珠湾へ誘き寄せたのが第一次真珠湾攻防戦だ。帝國では第一次真珠湾奇襲攻撃作戦と呼ばれているらしい。この戦いで、隠れていた合衆国の機動部隊にまんまと先手を取られた帝國の機動部隊だったが、囮となってこちらの艦載機を一手に引きつけた敵機動部隊の旗艦の赤城が一発の爆雷撃も喰らわずに無傷で逃げ切るという信じられない離れ業をやって退けたのがきっかけで形勢は逆転。反撃を喰らった合衆国機動部隊は空母レキシントンを撃沈された。そのとき、赤城の舵を握っていたのが十二月晦日だということは合衆国でも有名な話しで、主力機動部隊旗艦の艦長ならサザーランドでなくても兵学校のエリートだと思うのが普通だろう。初めて耳にした話にサザーランドは驚きの声を上げた。
「それどころか、アカギの艦長に就任するまでは駆逐艦の艦長すらやったことがなかったのよね」
「その話し、詳しく聞かせてください」
「わたしも興味がありますね」
「そうね、あなたたちには知っておいてもらったほうがいいかもしれないわね」
興味津々で目を輝かせたサザーランドが身を乗り出してきた。叩き上げで生臭い出世争いからは一歩身を引いてきたマクファーレンも珍しく興味をそそられているようだった。自分たちが相手をしなければならない十二月晦日という人物についてわかっている限りのことを話しておくにはいい機会かもしれなかった。
「その前に厨房にコーヒーを淹れなおすように頼んでくれないかしら? ファーストフードの店だってもうちょっとましなのを飲ませるわよ?」
「わかりました。すぐにお持ちします」
早く話の続きが聞きたかったのだろう。艦橋に詰めている下士官に頼まずサザーランド自ら淹れたてのコーヒーを取りに向かった。
「お待たせしました、司令官。艦長もよろしかったらどうぞ」
「ありがとう」
「では、わたしもお相伴にあずかるとしましょう」
まだ湯気の上がっているカップに一口口をつけるとバスカヴィルは一瞬だけ目を円くし、すぐによくやったといわんばかりに親指を立てて見せた。
マクファーレンもカップに口をつけると困ったものだといいたげに眉を顰めた。どうやらコーヒーにはたっぷりとウィスキーが垂らしてあったようだ。だが自分もバスカヴィルもこのくらいの酒で酔いが回ることはない。バスカヴィルの口が軽くなるようサザーランドなりに気を利かせたのだろうと小言をいうのは控えた。もっとも自分にはこんなお上品なスコッチよりもっと野蛮な味のするバーボンのほうが好みなのだけれども。
「それじゃ司令官、話しの続きをお願いします」
サザーランドも自分のカップから一口コーヒーを啜ってから話しの続きを促した。酒に弱く甘党のサザーランドのカップの中身はミルクと砂糖をたっぷり入れたカフェオレらしい。
「そうね。十二月晦日提督が艦長の経験がなかったってところまで話したのかしら?」
バスカヴィルはまたカップを口に運んで口許を綻ばせた。カップの中身がウィスキー入りのコーヒーではなくウィスキーだけだったらもっと嬉しそうな顔をしただろう。
「十二月晦日提督より前、大戦の初期に名を馳せた帝國の提督のことは知ってる?」
「はい。第一機動部隊司令長官から連合艦隊司令長官に抜擢された五十幡提督のことですよね?」
「そう。その五十幡提督よ」
サザーランドの返答にバスカヴィルは満足そうに頷いた。
「五十幡提督は正真正銘 海軍兵学校の成績上位の卒業生だったわ。まだ少尉候補生だったころから後に連合艦隊司令長官や海軍大臣を歴任した米倉大将に目をかけられるくらい優秀だったそうよ」
「米倉大将って、あの開戦に反対し続けてとうとう干されちゃったあの米倉大将のことですか?」
「ええ。その米倉大将のことよ」
バスカヴィルはカップに口をつけ頷いて見せた。
「米倉大将という後ろ盾もあったし人望も厚かったので出世街道を突き進んでいったみたいだけれど、意外なことに五十幡提督は人に対する好き嫌いが激しかったそうなの」
「まぁ、優秀な人が必ずしも人当たりがいいとは限りませんからねぇ」
「―――う、うるさいわね! わたしのことは今は関係ないのよ!」
なにかいいたそうに横目を向けてきたサザーランドにバスカヴィルは声を張り上げた。
「とにかく、参謀長だった宇梶少将と馬が合わずつんぼ桟敷に追いやっていたというくらいだから選り好みの激しさがわかるでしょ?」
「わたしも司令官から爪弾きにしてもらえれば上層部との間を取り持つ気苦労がなくなって楽できるんですけどねぇ」
「いちいちうるさいわよ、セレスティア!」
茶々を入れられてバスカヴィルがまた怒鳴り声を上げた。しかし、これだけ取っつきにくいバスカヴィルにぽんぽん軽口が叩けるのはサザーランドくらいのものだろう。
「五十幡提督自身がまだ若かったこともあってその幕僚も若手で固められていた。だからそういう好き嫌いに苦言を呈することができるようなものもいなかった。それを心配して米倉大将が送りこんできたのが十二月晦日提督だったそうよ。もっとも、そのときはまだ艦隊主計長だったようだけど」
「あれ? でも帝國では主計科からは艦長や司令官には進めないんじゃなかったでしたっけ?」
「セレスティアのいう通りよ」
思案顔になったバスカヴィルが頷いた。
「ここからが硬直したお役所的な帝國にしてはどうにも不思議なことなんだけど」
一口口を湿らせながらバスカヴィルはどう説明しようかと頭を整理した。
「主計科や軍医科、技術科なんかには軍の教育機関以外の一般の大学卒業生から採用する制度はあるんだけどそれでも最初の任官は少尉候補生からなのよ。だけど十二月晦日はそれまで軍に籍を置いていなかったにもかかわらずいきなり大佐で主計長に任じられたの」
「いくら海軍大臣の後ろ盾があったとしてもそれは確かに普通じゃありえないですね」
「五十幡提督の幕僚たちもどこの馬の骨かわからない十二月晦日に反発して議論を吹っかけたり無理難題を押しつけたりしたそうよ。でも兵学校や海軍大学校を優秀な成績で卒業したエリートたちでさえ議論では十二月晦日に歯がたたず、どんな無理難題でもたちどころに解決してみせる。いつしか五十幡提督の幕僚たちも牙を抜かれて十二月晦日の実力を認めざるを得なくなった。おまけに五十幡提督自身が十二月晦日の前では借りてきた猫みたいにおとなしくてそれまでのような我がままも口にしない。これって、どう思う?」
「う~ん……。それじゃまるで五十幡提督と十二月晦日提督の立場がまるっきり逆のようにしか思えないですね……」
「それはあながち不思議ではないのではないですか? 司令官のお話しでは十二月晦日提督は五十幡提督のお目つけ役として米倉大将が送りこんだということでした。であれば十二月晦日提督は五十幡提督が少なくともある程度までは頭が上がらない人物でなければ務まらないということになります」
「そうか。艦長のおっしゃる通りですよね。参謀長でさえ気に喰わなければないがしろにするような人が主計長のいうことなんか黙って聞くはずがありませんよね」
マクファーレンがいったことにサザーランドはぽんと手を叩いて同意した。
「わたしも艦長と同じ考えだわ」
バスカヴィルもカップを口に運びながら頷いて見せた。
「そして、ここからがもっと不思議なところなんだけど帝國では兵科と機関科にしか指揮権は認められていなかった。そして他の科から兵科や機関科への転籍の制度も存在しなかった。なのに主計科の十二月晦日は艦長や司令官に抜擢されてるってこと」
「それって制度として資格がないにもかかわらずその役職に任じられてるってことなんですか?」
「そうよ。十二月晦日の正式な階級は主計中将。なのに兵科か機関科しか任じられるはずのない艦隊司令長官に任じられているの」
「それっていったい……」
貴族制を布いていてしきたりにうるさくある意味人事制度が硬直している帝國においては考えられないようなイレギュラーなことだ。サザーランドはなんでそんなことが認められたのかわからなくなって首を捻った。
「十二月晦日を主計長から参謀へ転任するよう推薦したのも五十幡提督よ。でもさすがにこれには十二月晦日に対して鳴りを潜めていた幕僚たちも猛反対をしたわ。五十幡提督にしても任命権はないわけでなんとかしてくれるように米倉大将に泣きついたみたい」
「でもいくら人事権を握っている海軍大臣といえども、そんな例外を独断では決められないですよね」
「おまけに米倉大将は穏健でものごとの道理をわきまえた人だった。その一方で十二月晦日を五十幡提督の許に送りこんだ張本人でもある。つまり十二月晦日の力量が一番判っていたのは米倉大将だったということになるわ。思いあぐねた米倉大将が密かに相談を持ちかけたのが鈴沖大将と鷲司公爵だった」
「鈴沖大将は予備役に退いて侍従長になっていたんですよね。そして鷲司公爵家は帝國の大貴族の中では数少ない開戦反対派だったはずです。二人とも天皇の信任が厚い側近中の側近……」
「まさか、そんな例外を認めさせたのは天皇だったと司令官はお考えなのですか……?」
「逆にいえば、こんな例外を認めさせることができるのが他にいると思う?」
「待ってください。仮に司令官のお考えの通り十二月晦日が参謀に任じられることを天皇が認めたとしたら、いったい十二月晦日って……」
「セレスティアのいいたいことはわたしにもわかるわ。いくら優秀な人材だったとしてもたかが大佐で参謀くらいのことで天皇を煩わせるとは考えられない。でも十二月晦日が参謀に転じることができたのは天皇の内意があったと考えるのが一番筋が通っている。ということは」
「十二月晦日は天皇自らが骨を折ってもおかしくないほどのものということになります。おそらくは政府の高官ではないかと」
「わたしもそういう結論に達したわ。そう考えると十二月晦日が五十幡提督に睨みが利くだけの人物だったはずだという艦長の意見にも合致するし。いくら五十幡提督の好き嫌いが激しくても天皇が目をかけるほどの人物をないがしろにはできないわよね」
「う~ん……。確かに司令官や艦長のお考えは筋が通っていると思うんですけど……」
「なに? なにか腑に落ちないことでもあるの?」
どこかすっきりしない顔のサザーランドにバスカヴィルはカップを口に運びながら訊ねた。
「十二月晦日が天皇のお眼鏡にかなうほどの高官だったとしたらむしろそれを隠さないほうが反発が少ないと思うんですよ。なのにわざわざまどろっこしい手間隙をかけて十二月晦日を軍に潜りこませようとしているのがちょっと……」
「じゃあ、セレスティアはわたしや艦長の推測が間違っていると考えているの?」
自信家のバスカヴィルはむっとした顔を隠そうともせず訊き返した。
「いっておくけどわたしが今まで話してきた五十幡や米倉の行動は憶測ではなく事実なのよ。海軍情報局(ONI)や国務省の表向き閲覧禁止の資料をこっそり見せてもらうのに、どれだけ身銭を切ってきたと思ってるの?」
「いえ。司令官の推測の根拠を疑っているわけじゃないですよ」
自分の考えに異を唱えられたと感じたらすかさず噛みついてきた。相変わらずの性格にサザーランドは苦笑いを浮かべた。
「つまり参謀は十二月晦日が正体を隠して軍に潜りこんだのではなく正体を隠さなければならなかったと考えているの?」
「はい。艦長のおっしゃる通りです」
考えていたことをあっさり見抜かれても気を悪くしたようには見えない。サザーランドはぽわんとした笑顔で頷いた。
(叩き上げの軍人なんてがちがちで使えないかと思っていたけどどうしてどうして頭が回るじゃない。マクファーレン、拾いものだったみたいね)
バスカヴィルは内心でにやりとほくそ笑んだ。優秀な人材は一人でも多いことに越したことはない。というより、これまでは信頼も置けるし使える人材はサザーランドしかいなかったのだから。
「司令官、そろそろもったいぶるのはやめませんか? 艦長もそう思われるでしょ?」
「…………」
ぐるになったような顔を向けられたがマクファーレンは表情を変えず黙ったままだった。叩き上げだけあって歳下とはいえ上官に馴れ馴れしくするのには抵抗があるのかもしれない。
「もったいぶるってなんの話しなの? わたしがなにか隠しているとでもいいたいのかしら?」
「う~ん、口が堅いですねぇ。それなら、柔らかくしちゃいましょう」
バスカヴィルは細めた目で睨めつけてきた。しかしサザーランドは臆した様子も見せずがそごそと制服のポケットを弄っていた。
「司令官、お代わりはいかがでしょうか?」
「―――ん?」
サザーランドがなにを差しだしてきたものよくわからなくてバスカヴィルは小首を傾げた。もう一度よく見てやっとそれがなにかに気づき声を荒らげた。
「もったいぶってるのはどっちよ! そんなもの隠しといて」
「そうはいってもほっとくと司令官はみんな呑んじゃうじゃありませんか。怒られるのはわたしなんですよ?」
ぼやきながらもサザーランドはバスヴィルが突き出してきたカップにポケットから取り出したウィスキーを注いだ。
「艦長もいかがですか? お強いんでしょ?」
「まあ、一杯二杯で酔うようなこともないが……」
マクファーレンは一瞬躊躇ったが結局カップを差し出してきた。カップが空だとまたサザーランドが返答に困るようなことを訊いてきたときに呑んでごまかせないと思ったのかもしれない。
「どうです、そろそろほんとのことを喋りたくなってきたんじゃありませんか?」
「だから、わたしがなにを隠してるっていいたいのよ……?」
カップが空になるとすかさずサザーランドはお代わりを注ぎ足した。ウィスキーを水のようにくいくい呑みながらもバスカヴィルは顔を赤くもしなかった。
「天皇や米倉大将が推すような人ならまず間違えなく開戦反対派ですよね。そして五十幡提督に睨みを利かせるだけの重みがあり、それでいて正体を隠さなければならない事情がある。これだけの手がかりがあれば司令官だったら十二月晦日の正体くらい簡単に見抜けちゃうんじゃないですか? 焦らさないで教えてくださいよ」
「―――うっ……」
サザーランドにずばり口にされ珍しくバスカヴィルの目が泳いだ。
「確かにセレスティアのいう通り十二月晦日の正体は表舞台に立てなくなった政府の高官の可能性が高いわ。わたしもそういう高官を逐一調べてみたんだけど……」
バスカヴィルはカップを口に運んで言葉を濁した。
「どうもぴったり当て嵌まるような人物が見当たらないよよ。どれかの条件に見合っても他の条件を満たしていなかったりしてね……」
(さすがセレスティア、鋭いわね……)
サザーランドに痛いところを突かれバスカヴィルは内心でぎくりとしながらもなに気ないふうを装って答えた。サザーランドはいつもにこにこしていて人がいいだけが取り柄のようにしか見えない。しかしこれでも海軍兵学校を一桁の順位で卒業した切れものなのだ。自分の人当たりがどうしようもないことを自覚しているバスカヴィルにはどうしても他人との間を取り持ってくれるような取っつきやすい人間が身近に必要だった。しかし人当たりがいいだけで自分の考えていることを一から十まで説明しなければわかってもらえないようなおつむのできでも我慢がならない。頭が切れる人間は得てして自分より劣った人間を見下しがちだが、頭の回転が速くて人当たりもいいサザーランドのような人間はそうそういるものではない。
(一人だけ条件にぴったりの人物がいるにはいるんだけど……。いくらなんでも有り得ないわ……。だいいち、どう考えても歳が合わない……)
いくら自信家のバスカヴィルとはいえこの仮説を他人に聞かせるのは躊躇われた。「あらゆる可能性を排除してゆくとどんなに有り得そうになくても最後に残ったものが真実である」というのはシャーロック・ホームズの有名な台詞だ。バスカヴィルとてそのことを知らないわけではなかったが、この件に関しては間違っているとしか思えなかった。
(十二月晦日は写真嫌いで有名だけど、それでも海軍情報局にはなん枚か写真が収集されていたわ。もし十二月晦日の正体があの人物がだったとしたら、若い女の生き血でも浴びて若さを保っているとでもいうの……?)
『血の伯爵夫人』の異名を持つ十七世紀ハンガリーの貴族、エリザベート・バートリは一説によると六百五十人もの数の人間を残酷な方法で殺し、自分の美貌を保つためにその血を浴びていたといわれている。
「ともかく、これからも情報を集めて調べゆくわ。わかったらあなたたちにも教えると約束するわよ」
「まあ、そう簡単にわかるくらいだったら海軍情報局がとっくに正体を突き止めてますよねぇ」
(他人の知らないことをひけらかして得意げになるのがなにより好きな先輩がこれだけ突っこんでも口を割らないってことはなにかよんどころない理由がありそうですねぇ。これ以上喰い下がったらおへそを曲げそうだからこの辺にしておきますか)
空気を読むのが得意なサザーランドはあっさり矛を収めた。
「ともかく、その後のことはもう二人ともよく知っての通りよ。参謀からアカギの艦長へ転任。真珠湾で余すところなくその手腕を発揮してからは少なくとも面と向かって十二月晦日をあしざまにいえるような高級将校はいなくなったみたいだし」
「つまり―――――」
マクファーレンはカップの中身を呑み干すとバスカヴィルに目を向けた。
「我々が相手にしなければならないのはそれくらい海千山千の戦上手ということなのですね?」
「ええ、艦長のいう通りよ」
バスカヴィルもマクファーレンを見返して頷いて見せた。
「ストーナー(太平洋艦隊司令長官)もモースタン(第三艦隊司令官)もこれだけの空母を繰り出せばいくらあの十二月晦日でも手も足も出ないと勝ったつもりでいるけど、そう簡単にいくかしらね?」
「…………」
一兵卒から空母の艦長にまでのし上がってきたマクファーレンは見かけによらずしたたかだった。海軍上層部の批判ともとれる発言においそれと頷いて見せるほど迂闊ではない。だが、マクファーレンが肚の中でなにを考えているのかはバスカヴィルには手に取るようにわかっていた。ミッドウェーでは実際に戦力では上回っていたにもかかわらず十二月晦日に苦汁を嘗めさせられたのは合衆国海軍なのだ。そして、そのミッドウェーの最前線で戦っていたのはマクファーレンに他ならない。
「逆にいうと、十二月晦日に一杯喰わされて主力空母部隊が窮地に陥ったときにわたしたちがそれを救ったとしたら今回の作戦の一番の殊勲は誰になるのかしらね?」
「十二月晦日提督相手の殊勲……」
(どうやらマクファーレンは艦長くらいで満足するような玉じゃないわね。まだまだ上に上り詰めようっていう野心が隠し切れていないわ)
十二月晦日相手の殊勲と聞いてマクファーレンの瞳の奥に光がぎらついた。それを確認してバスカヴィルは内心で満足そうに頷いた。
(今回はマクファーレンは思ってもみない拾いものだったわ。でも、わたし自身の野望のためには優秀な人材はいくらでも必要。それに階級も。せめて中将に昇進して艦隊司令官の地位を獲得しなければ)
まだマクファーレンに自分の本心を明かすのは尚早だろう。だが、いずれは自分の野心を告げてマクファーレンにも協力してもらう必要がある。
(窮すれば通ずとはよくいうけど、ウォレン(大統領)も大衆に迎合するだけが能のくずだと思っていたのによくわたしと同じことを考えついたものね? いいえ、そうじゃないわ。大衆に迎合することに長けているからこそ思いついたのが今回の作戦……)
大型空母8隻を投入した大艦隊で東南アジアの石油産出地を攻撃すると見せかけて十二月晦日を誘き出しこれを撃滅するというのが失政続きで支持率ががた落ち、このままでは間近に迫った大統領選での敗北は必至と追いこまれたウォレンが窮余の策として捻り出したのが今回の作戦だ。開戦以来一度も負けを喫したことのない十二月晦日を破ることができれば、乗せられやすい国民はこぞって熱狂的にウォレンを支持するだろう。
それならわたしとウォレンは同じ穴の狢じゃないのとバスカヴィルは内心で自嘲した。
「まさか司令官は味方を売ったりするつもりじゃないですよね……?」
「さすがにそんな危ない橋を渡るつもりはないわ。マスコミにでも嗅ぎつけられたらそれこそ身の破滅だもの」
友軍が敗北するのを待ちわびるようなバスカヴィルの口調に不安を駆られたのかサザーランドは口ごもった。その不安をバスカヴィルは一笑にふした。
「それに、わざわざそんなまねをしなくたって鼻持ちならない上流階級出身のストーナー(太平洋艦隊司令長官)の腰巾着にすぎないあのおめでたいモースタン(第三艦隊司令官)なんかに十二月晦日が敗れるわけがないじゃない。敗れるくらいなら十二月晦日もその程度の人間だったってことだわ」
(ともかく、不敗の名提督十二月晦日を敗れるのはこのわたししかいないわ。それを足がかりにしてわたしは合衆国大統領にのし上がってみせる。この国を好きなように牛耳ってきた上流階級のブタどもに一泡吹かせてやるんだから)
バスカヴィルは行儀悪く指揮官席から脚を投げ出すと小ばかにしたように鼻を鳴らした。