第三章
「あれっ、ここは……?」
ずきずきする頭の痛みとからからになった喉の渇きで目が覚めてしまった。明石は自分がどこにいるのかすぐには思い出せず辺りをきょろきょろ見回した。
「そうか、長官にお酒を呑まされ続けて……」
歓迎会という名目で十二月晦日の酒につき合わされる地獄の責苦は数時間にわたって続いた。ビールだけでもへべれけに酔っておかしくない本数が空けられていたというのに、その後は日本酒や十二月晦日が鹿児島の飛行隊から贈られた芋焼酎、あげくは十二月晦日秘蔵のワインまで持ち出されて呑まされ続けたのだ。
すぐに目に飛びこんできたのは累々と横たわる犠牲者の数々だった。
大山はなにかから必死に逃れるような格好で床に俯せになって力尽きていた。
その大山を庇うように寄り添って横たわっている比栖間。
大山がなにから逃れようとしていたのかは一目瞭然で、比栖間を真ん中に挟んだ反対側には照陽の姿があった。酔って身動きが取れなくなった大山を照陽が襲おうとしたところへ、最後の力を振り絞って割って入ったのだろう。
照陽も酔い潰れて眠ってしまっているが、ゆっくりではあるけれどもまるで手に目がついているかのように慣れた手つきで比栖間の制服を脱がせているのを見ると背筋が寒くなってくる。あの調子では、比栖間が一糸纏わぬ姿にされてしまうまでそう時間はかからないだろう。
助けてあげようかという考えも頭を過ぎったが、二人を引き離すためにはどちらかの身体に触れなければならなかった。おまけに、その途中で目を覚まされでもしたらあらぬ疑いをかけられかねない。
不幸中の幸いに、軽須、財津、樋場の三人は自力で戻ったのか士官食堂に姿は見当たらなかった。だから、自分さえここから立ち去れば、たとえすっぽんぽんの姿を見られたとしても同期の女の娘だけだからまだましだろう。
他にも、御池は床の上に大の字になって海軍の女性用制服であるセーラー服の裾が捲れておへそがまる出しの格好で「―――ちゅ、ちゅいにじゅうらいちょう(重雷装)の北上と大井があたちの戦隊に……」などと欲しかった艦が自分の艦隊に回されてきた夢でも見ているのか幸せそうに寝ごとを呟いていた。
武笠は武笠で口の端から涎を垂らしながら壁に背中をもたれかけさせて気持ちよさそうにいびきをかいている。
身体は隠れて見えないがテーブルの下からにょっきり覗いているのは伯峰の脚だろう。
工内だけが背筋を伸ばしたまま椅子に腰掛けた姿勢でこっくりと船を漕いでいた。
酔い潰れて眠りこんでしまってもそれぞれの性格がよく顕れていて、なんとなくおかしさがこみ上げてくるのを明石は感じた。
「あの長官のことだからだいじょうぶだとは思うけど……」
十二月晦日は他人に呑ませる合間に自分ではそのなん倍も酒を口に運んでいたというのに顔ひとつ赤くしてはいなかった。だからなんともないとは思うのだが一応様子くらいは見ておこうと明石は長官室へ足を運んだ。
そもそも、副官が長官より先に酔い潰れて眠ってしまうなど十二月晦日でなければ懲罰を喰らっても文句はいえない失態なのだ。
「やっぱり、まだ灯りが点いてる」
長官室の防水扉についた丸窓から灯りが漏れていることに明石は気づいた。
「開いておるのじゃ。入れ」
「長官、まだ起きていらしたのですか……?」
明石が長官室の扉をノックしてみるとすぐに返事が返ってきた。扉を開けてみると、まだ制服のセーラー服から着替えてもいない十二月晦日が海図に目を向けている姿が目に入ってきた。
長官室の家具や調度品は十二月晦日のことだから飾り気のない実用的なものかと思っていたら案に相違してとても趣味のよいものだった。磨きこまれた木目の美しい書きもの机や肘かけ椅子は十二月晦日の私物だろう。明石はこんな上等そうな家具は帝大の卒業パーティーで一度だけ足を踏み入れたことのある帝國ホテルでしか目にしたことはなかった。
にもかかわらず、海図台に背が届かない十二月晦日が踏み台代わりに使っているのはなぜかみかんのダンボールの空き箱だった。まぁ、幼稚園児より小柄な十二月晦日なら重くて潰れる心配もないのだろうけれども。
「なにかお気にかかることでもおありになるのですおか?」
「うむ。敵の動きもそうじゃが新見がなにを企んでおるのかがちと気になってのぅ」
「新見総長の企みですか……?」
明石の声に戸惑ったような色が混じったことを感じて十二月晦日は苦笑いを浮かべた。
「技術者のそなたにはこういった生臭い話は興味なかったのかもしれんがのぅ。新見だけでなく海軍中枢の高官がわしのことを忌み嫌っておることは一兵卒でも知っておることじゃぞ?」
「はぁ……」
なんでもかんでも軍事機密という名目で隠し立てされても困るが、十二月晦日のように開けっ広げすぎてもそれはそれで困る。上官が嫌われものなどという話にはいそうですかなどと返事ができるわけがない。
「軍令部からの命令はジョンストン方面へ進出し敵の動きを警戒せよという漠然としたものだけじゃ。にもかかわらず、あの新見がわしに嫌がらせで出し惜しみするどころか目一杯の補給の手配をしてきおった。これはなにか裏があると勘繰らずにはおられまい?」
「つまり、充分な補給を送っても惜しくはないだけの強力な敵艦隊が待ち構えているということですか……?」
「ほほぅ、さすが帝大卒じゃのぅ。電波のことにしか頭が回らぬかと思うておったが、なかなか切れるではないか」
明石の推測は十二月晦日が考えていたことと一致していたようで、十二月晦日はにやりと口の端を吊り上げた。
「十中八九、空母を伴った艦隊が動いたという情報をつかんだのであろうよ」
「―――き、機動部隊ですか……」
「五十幡さんとわしにレキシントンもヨークタウンもホーネットも血祭りに上げられてからおとなしくしておったようじゃが、またぞろ動き出しおったようじゃのぅ」
空母と聞いて驚いた明石は唾を呑んで声を上ずらせた。
だが十二月晦日は、まるで近所の子供がコンビニに買いものに出かけたという話でも聞かされたかのようにつまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。
「でも、なんで長官は機動部隊だと思われたんですか? 強力な艦隊なら戦艦という可能性だってあるじゃないですか」
「いや、それはないのじゃ」
当たり前のことように簡単にいい切った十二月晦日に明石は困惑した。
十二月晦日宛の命令書は副官の辞令といっしょに自分が運んできたものだ。一読した後、十二月晦はそれを自分と比栖間にも手渡して中身を読ませてくれていた。つまり十二月晦日のつかんでいるのと自分が知っているのは同じ情報だけのはずだった。なのに十二月晦日はその同じ情報から敵は機動部隊に違いないと簡単に見抜いている。頭の回転にはそれなりに自身のあった明石は、どうしてそう簡単にいい切ることができるのかが理解できないのがどうにも歯痒くてしかたがなかった。
「長官、珈琲でもいかがですか? 大学生の頃喫茶店で臨時雇い(バイト)していたことがあるので、珈琲には少し自信があるんですよ」
「ふん。そなたが自信があるなどと抜かすのなら期待できそうじゃな? ならば一杯馳走になるとするかのぅ」
自分の頭を整理する時間を稼ぐためにもなにか一杯飲みものが欲しかった。
こんな夜更けにコーヒーもどうかと思ったのだが十二月晦日ならコーヒーくらいで眠れなくなることもないだろう。そう思って勧めてみると十二月晦日もあっさりと首を縦に振った。
「お待たせしました。お口に合えばいいのですが」
「ふん。そなた、わしをお子ちゃま扱いするつもりなのかのぅ……?」
「―――い、いえ……。決してそういうつもりでは……」
濃い目に淹れたコーヒーと温めた牛乳で手早く仕上げたカフェオレのカップを見て十二月晦日は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「まぁ、味も確かめぬうちに文句を抜かしても詮ないことか」
文句をいっていた割りに、一口カップに口をつけた十二月晦日の口許が緩んだ。知らずにほっと小さなため息もその桜の花びらのような儚げな唇から漏れていた。
(よかった。なんだかんだいっても機動部隊を迎え撃たなきゃならないなら気疲れだってひとしおだろうし。やっぱり疲れたときには甘いものが一番だよね?)
「それで、なんで敵が戦艦でないと長官は簡単にいい切れるのか教えていただけないでしょうか?」
「そんなこと考えるまでもないではないか。そなた、まだ酒が残っておって頭がよぅ回っておらんのであろうよ」
カフェオレを啜りながら出来の悪い生徒に1+1はなぜ2になるのか説明するかのように十二月晦日は鼻を鳴らした。
「すぐ近くに第一艦隊の長門と陸奥がおるのじゃ。敵が戦艦だったら第一艦隊をぶつければよいだけの話じゃ」
「もし、敵に四0糎砲搭載艦が三隻以上いたとしたらどうでしょうか? 第一艦隊の長門と陸奥だけでは分が悪いのではありませんか?」
「ならば第一艦隊、第二艦隊で組んで足止めしておけばいいだけのことじゃ。その隙に本土から連合艦隊直属の大和と武蔵を呼び寄せればこちらの勝ちじゃ」
「そうすれば第一艦隊を出し抜いてまた長官が戦果を上げてしまうかもしれません。長官に美味しいところを持っていかれてしまうのを新見総長が嫌われているとすれば……」
明石はその後の言葉をはっきりいわずに口を濁した。軍令部の総長が妬んで妨害しているなどとはたがが大尉にすぎない自分が軽々しく口にしていいことではない。
「なんじゃ、そなたもわしが海軍の鼻つまみものだとよぅわかっておるではないか」
しかし、そんなことは気にかけた様子もなく十二月晦日は口の端を吊り上げて見せた。
「それこそ簡単な話ではないか。だったらわしをどこでもよいから他の艦隊に飛ばしておいて自分の息がかかった長官をここへ赴任させればいいだけの話じゃ。そなたを送ってこれたくらいじゃから、間に合わぬということはあるまい?」
「―――あっ、いわれてみればそうですね……」
第一艦隊と第二艦隊を比べてみれば圧倒的に第一艦隊の戦力が上回っている。第二艦隊が勝っているのは速力くらいのものだ。だから敵艦隊の戦力が第二艦隊でも単独で渡り合えるくらいなら第一艦隊が引けを取るはずがない。十二月晦日を嫌っている新見なら第一艦隊を出撃させて戦果を上げさせようとするはずだ。にもかかわらず第一艦隊を出撃させないのは敵の戦力がそれを上回っているということを意味している。もし長門と陸奥が最大速力でも二五ノットしか出ないのでマーシャルで補給を受けてからでは間に合わないのなら第一艦隊をジョンストンへ先行させ効率は悪いものの帝國海軍 十八番の駆逐艦による高速の鼠輸送で補給を行うという手もある。長らく最前線で戦い続けてきた十二月晦日には補給の重要性は身に染みてよくわかっていたので補給任務を疎かにするようなことはなかった。だが、前線には立たず本土の安全な地下シェルター内の軍令部にこもったままの新見であれば、嫌がらせとして補給任務を十二月晦日麾下の水雷戦隊の駆逐艦にやらせるくらいのことはしただろう。
そう考えてゆくと、ジョンストン方面に進出が予想される敵の艦隊は戦艦主力の艦隊では分が悪い相手ということになる。戦艦では分が悪い相手としては潜水艦も挙げられるが、第一艦隊には最精鋭の水雷戦隊である第二水雷戦隊も配属されていた。水雷戦隊は潜水艦の天敵だ。つまり長門と陸奥だけならともかく第一艦隊としてなら潜水艦はそれほどの脅威とはなりえない。
このように消去法でつきつめてゆくと、敵艦隊の主力は空母という結論に達せざるを得ない。
「どうじゃ、納得がいったかのぅ?」
「はい、勉強になりました。わたしは艦政本部にこもり切りで実戦なんてこれが初めてみたいなもので……」
「たまにはその目でそなたらが設計した兵器や装備がどう使われておるのか見るのも悪くはなかろうよ? なに、そなたが優秀な技術者だということは少し話しただけでようわかるのじゃ。どうせこんな配属は人事局のあほうどものなにかの手違いであろう。本土へ帰ったら、この経験を活かして一人でも多くの兵士がみすみす死ななくても済むような兵器や装備の開発をやってほしいのじゃ」
「ありがとうございます、長官。海軍省のお偉いさんたちが長官のように技術者だって命がけで設計に当たっているということをわかってくれていれば……」
「そう思い詰めるものではないわ」
エリートとはいえ技術者は軍人より一格下に見られる風潮は避けられなかった。明石も知ったかぶりをしてなにもわかっていない海軍省のお偉いさんに煮え湯を飲まされたことがあるのだろう。肩には手が届かなかったようで、俯いて微かに身体を震わせている明石の二の腕辺りを十二月晦日はぽんぽんと叩いた。
「そなたと初めて会うたときにいっておったではないか。太陽嵐が始まってからたった百年足らずじゃと。帝政も復活してからまだ六十年にもなっておらぬ。栄華を極めたかの羅馬帝國でさえ千年で滅んだのじゃぞ? こんな狂ぅた世の中などそういつまでも続くものではないわ」
「―――ちょ、長官……!」
なにか思い切って打ち明けるように勢いこんで明石が口を開こうとした。だが。途中で口ごもると、みるみると項垂れてしまった。
「今日はもう遅い。そなたは休むのじゃ。寝られるときに寝ておかぬと身体が持たぬぞ?」
「そのお言葉、そっくり長官にお返しいたします」
顔を上げた明石にじと目を向けられた十二月晦日は決まりが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「ようわかったから、そう睨むものではないわ。切がよいところでわしも寝ると約束するゆえ安心するのじゃ」
「ほんとうに無理をなさらないでくださいよ……?」
ただでさえ白い十二月晦日の顔にあまり血の気が感じられないのはきっと酒のせいだけではないだろう。空母なしで機動部隊を迎え撃って生き残る作戦など、いくら十二月晦日が歴戦の名提督でもそうそう考えつけるとは思えなかった。
「人の身を案ずる前に自分の心配をした方がよいのじゃ。比栖間のやつは体育会系じゃからのぅ。二日酔いじゃろうがなんじゃろうが定刻通り起きられなんだら独りで甲板磨きとかそんな時代錯誤な罰を喰らわされるやもしれぬぞ?」
「それはちょっと遠慮したいですね……」
根っから理系の明石には聞かされただけで背筋が寒くなるような話しだった。
「おはようございます、長官!」
「すまぬ、待たせたかのぅ?」
皐月を従えた十二月晦日が士官食堂へ足を踏み入れると、先に集まっていた比栖間たちが立ち上がって敬礼を送った。まだ子供だけあって昨晩の呑み会にはつき合わされなかった皐月はぐっすり眠ったのかつやつやと顔色がいい。それにひきかえ比栖間たちはそろって蒼い顔をしていた。
「わたしたちは自分の旗艦に戻らせていただきます」
司令官や艦長がそういつまでも自分の持ち場を離れているわけにもいかない。一番年嵩の財津が代表して十二月晦日に挨拶をした。
「うむ、そうか。遅くまでつき合わせてすまなかったのぅ」
「―――い、いえ……。わたしたちこそ最後までお供できずふがいない限りで……」
見た目も酒に強そうだし実際強い財津でさえ十二月晦日のペースに合わせて呑んだら身が持たなかった。知らずに財津のこめかみがぴくぴくと引きつった。
「照陽、話があるのじゃ。朝飯でも喰ってゆかぬか」
クッションを山のように座面に積み上げた自分専用の肘かけ椅子の上に十二月晦日はぴょんと跳び乗った。士官食堂から出てゆこうとする財津たちを振り返ると、照陽を呼び止めた。
「なんでしょう、長官? わたしとななちゃんの結納の日取りでも決まりましたか?」
「比栖間さえ首を縦に振れば仲人じゃろうが産婆じゃろうがなんでも好きな役を務めてやるのじゃ」
「―――ちょ、ちょっと!? なんで、わたしがあんたと結婚するのが既定事実みたいな流れになってるのよ?」
「わたしとななちゃんの子? 名前は扶理衣か都流桜にしましょうね?」
「女同士で子供なんかできるわけないでしょ!? あんたなら細胞分裂で増殖できるかもしれないけど!」
「まぁ、どちらが夫でどちらが妻になるのかはそなたらがよぅ話合って決めたらよかろう。すまぬが、今日はもそっと生臭い話じゃ」
照陽にいいように玩ばれ比栖間は唾を飛ばして喚き散らした。それをなだめるように十二月晦日は落ち着いた声を出した。その声を聞くと比栖間と照陽はじゃれ合うのを止めて姿勢を正してテーブルに着いた。
「新見のやつがなにを企んでおるのかはだいたい見当がついたのじ。じゃが、敵の具体的な戦力がわからんでは手立てを講じるのにちと骨が折れるのじゃ。軍令部にもそなたの愛人はいく人かはおろう。すまぬが探り入れてはもらえぬか?」
「わかりました、長官。軍令部なら一課にも五課にもわたしなしではいられない身体に染め上げた娘がなん人かいますから訊き出してみます。なぁ~に、『もうあなたとは会わないことにするわ』って脅せば泣いてぺらぺら口を割りますから。根拠地の海底電纜回線の電話、使わせていただいてもいいですよね?」
「うむ。飯を喰ったら長官室に寄るとよい。許可書を書いておいてやるのじゃ」
「あんたって、つくづく人間の屑よね……。いいように身体を弄んでおいて、情報を得るための手駒に利用するなんて……」
「あら、いいのよ。身体だけの関係ってことは納得ずくでつき合ってるんだから。わたしが心から愛してるのはななちゃんとかっちゃんだけよ?」
比栖間は見下げ果てたような目を照陽に向けた。だが照陽はそんな非難がましい視線を涼しい顔で受け流した。
「さて、話もすんだのじゃ。朝飯にするかのぅ」
「どうぞ、長官」
話がすむのを待っていた明石が一流ホテルのボーイのようにそつなくコーヒーのカップを差し出した。
「二日酔いには味噌汁が利くのじゃ。すまぬがこやつらには味噌汁も用意してやってはくれぬか?」
皐月が運んできた朝食のメニューが洋食だったことに気づいた十二月晦日は味噌汁を用意するよう頼んだ。
「おひいさまがそう仰せならご用意いたしますですが……」
十二月晦日以外の世話などしたくないとあからさまに顔に出しながらも皐月が厨房へ戻っていった。
「うむ、美味いのぅ」
明石が差し出したカップに口をつけた十二月晦日は満足そうに頷いた。
「昨日は夜が遅かったからのぅ。かような朝には濃い目の珈琲は格別じゃな」
「遅かった……? 長官、いったいいつまで呑まれておられたのですか……?」
いくら酒に強いからといっても呑みすぎではないのかと比栖間は非難をこめた視線を十二月晦日に送った。そうしながらもトーストにバターをたっぷりと塗りたくる手は休めない。
その様子を横目で窺っていた工内は舌打ちをして「わたしは太らないよう牛酪も控え目にしなくてはならないというのに……」などとおかっぱの前髪の下から恨めしそうな視線を送っていた。
(昨晩あれだけ呑んだというか呑まされたのに、みんなよく朝食なんか喉を通るな……。まぁ、それだけ長官にお酒も鍛えられてるってことか。ぼくなんか水かコーヒーしか喉を通らないっていうのに)
多少顔色は優れないものの平気な顔で朝食を口に運び始めた十二月晦日の幕僚たちを明石は内心で苦笑しながら見回した。
「そなたらがさっさと潰れてしもうたので、わしもつまらなくなってさっさと切り上げたのじゃ」
「―――も、申し訳ありません……」
今度は十二月晦日のほうから恨みがましい視線を送られた比栖間が慌てて目を逸らした。
「まぁ、夜中にこの明石がのこのことわしのところへ忍んできたのじゃが、初心でなにも知らぬゆえ大人のわしが手取り足取り教えてやっておったのよ」
「いやぁ~、面目ありません……。初めてだったもので入りが悪くて」
ベーコン・エッグにナイフを入れながら思わせ振りな嗤いを十二月晦日は口の端に浮かべた。その隣でコーヒーのお代わりをカップに注ぎながら空いた方の手で明石はぽりぽりと頭を掻いた。
「―――て、手取り足取り……? ―――は、入りが悪い……?」
顔を真っ赤にした比栖間の手からぽろりとトーストが落ちた。しばらく拳を握り締めてわなわなと身体を震わせていたが、やにわに立ち上がると明石の襟首を締め上げた。
「―――い、いくら長官が年増だからって、身体だけは幼稚園児と変わりないのよっ!! ひょろひょろだけど背の高い大尉のなにがいくらなんでも長官のあそこに入るわけがないでしょっ!?」
「――――――――――っ!?」
背の高さはほとんど変わりないがひょろりと痩せた明石と比べて、一見柔らかそうに見える肌の下に鍛え上げた筋肉を隠した比栖間の腕っ節は強かった。襟首を締め上げられた明石は目を白黒させるばかりで声も出せなかった。
「誰が年増なのじゃ?」
「ぎゃぁぁぁぁぁ~~~~~っ!?」
ナイフをテーブルに立てかけてあった軍刀に持ち替えた十二月晦日は、スナップを利かせて鞘のまま比栖間の向こう脛にいやというほど打ちつけた。
急所を打たれた比栖間はたまらず明石を放り出すと、脛を押さえて食堂の床をごろごろとのたうち回った。
「―――げ、げほっ……。―――さ、参謀長はいったいなにを怒っていらっしゃるのですか……?」
「なにをって、大尉はしらばくれるつもりなのっ!?」
やっと息が吸えるようになった明石は咳きこみながら比栖間に訊ねた。
一方、まだ脛が痛むのか脚を押さえて床に転がったままの姿の比栖間は非難がましい視線を明石に送った。転げまわったのでスカートが捲れて薄いレースの扇情的なパンツがまる見えになってしまっていたが、まだ気づいていないようだ。
食事の手を休め、照陽の目はその比栖間のパンツに釘づけになっている。口の端からは涎が一筋。
「そなたなにをおかしな勘違いをしておるのじゃ? わしはこやつにジョンストン方面に進出してきた敵艦隊の推測を教えてやっておっただけじゃぞ?」
「そうなんですよ。わたしは前線に出たことがなかったんでそういう知識に疎いもので。長官に教えていただいてもなかなか頭に入ってこなくて……」
いたずらっ子めいた目をちらりと比栖間に向けてから食事を再開した十二月晦日の隣で明石がぽりぽりと頭を掻いた。
「―――は、入るって頭にだったの……? なんなのよ、紛らわしいいいかたして!」
ぽかんとしていた比栖間の顔がだんだんと怒りの表情へと変わっていった。
「比栖間は相変わらず進歩がありませんね? 長官にからかわれただけだとまだ気づかないのですか?」
比栖間が勝手に勘違いして勝手に大騒ぎしている間も背筋をぴんと伸ばして定規で測ったようにベーコン・エッグを切り分けて食事を続けていた工内が冷たく告げた。
その隣では困ったような苦笑いを浮かべた軽須がイングリッシュ・ブレックファストのミルク・ティーに口をつけていた。
「ううっ……。長官、ひどいですよぉ……」
「すまなかったのじゃ。まぁ、そなたがたわいなく引っかかってくれるのでつい面白うてのぅ」
涙目で睨め上げてくる比栖間に、トーストを小さくちぎって口に運びながら十二月晦日が悪びれずにしれっといって退けた。
「大尉も大尉よ!? 長官と示し合わせてわたしを引っかけるなんて!」
「わたしは別に引っかけるつもりはなかったんですが……。もちろん示し合わせてもいませんし……」
「―――な……」
十二月晦日にはとうてい敵わないと悟って比栖間は文句をいう矛先を明石に転じた。しかしなんでなじられているのかよくわかっていない明石はきょとんとした表情を浮かべていた。肩透かしを喰らった格好の比栖間は言葉に詰まってしまう。
「ふん。なにも考えずにあれだけぼけて見せるとはのぅ。こやつの天然も筋金入りじゃな」
その遣り取りを食事を続けながら眺めていた十二月晦日がさもおかしそうに口の端を歪めた。
「それにじゃ、引っかけられたとはいえすぐにそういう想像が浮かんでしまうのは女性風俗漫画の読みすぎなのじゃ。かようなものを読んで自分で自分を慰めておるくらいなら、そなたも年頃の女子なのじゃからそろそろいい男でも見つけてきたらどうなのじゃ、比栖間よ?」
「わたし、自慰なんてしてませんよっ!? ―――って、わたしなにいってるの……?」
大声で否定してからとんでもないことを口走ってしまったことに気づいて比栖間は真っ赤になって俯いてしまった。
「なんにせよ、上官とその副官が阿吽の呼吸なのは喜ばしいことではないでしょうか?」
比栖間が有らぬことを口走ったのを聞いて、飲みかけていた紅茶に軽須は咽てしまっていた。
だが、大真面目な顔でそういった工内はなにごともなかったように食後のコーヒーを楽しみ始めた。
「弓弦……」
お世辞にもさりげないとはいえなかったが、これでも話を逸らそうとしてくれたようだった。やはりなんだかんだいっても仲のよい兵学校の同期同士だ。感謝の念がこもった視線を送られても工内は素知らぬ顔でコーヒーに口をつけていた。
「それはそうと比栖間よ。そろそろ、そのすけすけのパンツを隠したらどうじゃ? 照陽の餐巾が涎でびしょびしょになってしまっておるぞ?」
「ぎゃぁ~っ!? ―――ど、どこ見てんのよ、になの変態!」
「長官、びしょびしょなのは餐巾だけでなくここもなんですが」
照陽はスカートの端をつまんで嬉しそうにひらひらと振って見せた。
「………………」
十二月晦日たちは小さく首を振ると、いたたまれなさそうにそっと照陽から目を逸らせた。