第1話 日常(7)
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冬斗が後輩達の指導を終えて部室を出たのは午後五時も間もなく半を迎える頃だった。よく晴れた空は夕焼け空が眩しくオレンジ色に染まっていた。
彼はリュックを両肩に提げてとある場所に向かっている。左手には青色のホロフォン。画面に表示されているのはチャットツールで、相手は晴香だった。彼が部室を出る直前に彼女から連絡が届いていたのだ。
『そろそろ終わった頃かな? 私、正門の前で待っているね』
文末に笑顔の顔文字がついている晴香からのチャットに、冬斗は早速連絡を返す。
『さっき終わった。もうすぐ着くよ』
彼が文章を送ると既読を示すチェックマークがすぐに付く。どうやら晴香はホロフォンを手に持っていたようだ。
『了解でーす』
キリッとした顔文字がついた短い文章が返ってきた。普段は控えめな彼女もチャットツールの場では少し違う一面を見せる。どちらかというと、夏未に近いノリだろうか。少しおどけた感じがしていた。
冬斗は晴香の返信に少し顔をほころばせて彼女のいる正門前へと向かう。
少し歩くと正門の前に晴香はいた。ホロフォンは持っておらず、肩の先まで伸びている黒い髪の毛先を指でくるくると回して触っていた。
そうしている彼女に、冬斗は右手を上げて少し振り声をかける。
「浜名、お待たせ」
「んーん、待ってないよ。部活お疲れ様、遠海くん」
微笑んで返す晴香は、彼と合流したことで地下鉄の駅に向けて歩き始めながら、続けてこう言った。
「部活、どうだった? 久しぶりだったんだよね?」
「約二ヶ月振りかな。留学前の準備の頃にはもう引退していたからな」
「夏休みが始まる頃にはもうイギリスに行っちゃったもんね」
晴香が夕焼けの空を眺める頃には地下鉄の駅に着く。学校からすぐそこにある駅は清秋学院前の名前通り、徒歩一分の場所に位置している。
「それでも後輩達は歓迎してくれたよ」
「遠海くん、魔法射撃上手だもん」
「高校生になって初めてやったんだけどな。ここまで自分が出来ると思わなかったよ」
「才能もあったかもしれないけど、私は努力の賜物だとも思うかな。遠海くん、凄く練習してたから。だから留学のメンバーにも選ばれたんだと思う」
晴香の真っ直ぐな眼差しで褒められた冬斗ははにかみながら、
「努力の甲斐があったのはとても嬉しいかな。大学に入っても続けたいとも思っているし」
「うんうん。絶対続けた方がいいよ。私、冬斗くんが大学生になっても応援しているね」
「ありがとう、浜名」
柔らかく笑う晴香に向けて礼を言う冬斗。
彼らは駅の改札口を通ると、川口方面のホームへと向かう。時間が学生達やサラリーマン達が帰り始める時間だけあって構内は電車を待つ沢山の人がいた。
電車は夕方の時間帯であるから、二人がホームに着いてからすぐに到着する。周辺は学校が多い為駅の規模に対して降りる人は少なかったが乗る人はホームの賑わいに比例してどっと車両に乗り込んでいく。
発車ベルが鳴り電車のドアとホームドアが閉まると、電車はゆっくりと走り出した。
「ねえ、遠海くん」
地下鉄車両がある程度加速したくらいになると、何か提案したそうな顔で晴香が口を開く。
「どうした?」
「私ね、今日川口まで買い物に行こうと思うんだ」
「買い物?」
「うん。今日発売のバンドのCDを買おうと思って」
登場して半世紀経つ今や枯れた技術のコンパクトディスクであるが、こと音楽に関しては未だ健在である。定期的に訪れるオーディオブームや書籍と似たような理由でデータではなくCDの買う晴香のような一定の層がいるのだ。データ版では手に入らない限定物が付属するのがその理由である。
「いつも買っているバンドだっけ。確か、高音ボイスの男性ボーカルと女性ボーカルもいて、演奏もすごい上手いって言っていた」
「そうそう! ダウンロード販売じゃなくて、やっぱり現物も欲しくって」
「ミュージックチップで買うと特典があるもんな」
「うん、今回は購入者限定ライブの抽選券が入ってるからなんだー」
「へえ、ライブの抽選券か。それはいいね」
「当たったらいいなあって」
「人気のバンドだから当選してほしいね」
「うんっ。それでね、川口まで買いに行くから冬斗くん帰り道だし、一緒にどうかな?」
「いいよ。まだ時間もあるし」
「ほんと?」
「もちろん。僕も見たいものあったし」
「やったっ。ありがとう!」
満面の笑みで嬉しさを伝える晴香。冬斗もそれにつられて笑みを零した。
「本日も金華メトロ環状線をご利用頂きましてありがとうございました。間もなく電車はメトロ川口、メトロ川口に到着します。金華メトロ南北線はお乗り換え。JR、私鉄、各方面のバスは改札を出てのお乗り換えになります。出口は右側です。開くドアにご注意ください」
晴香の冬斗に対する誘いが決まり、その後は来月末にある文化祭の話や受験生らしく模試の話をするなど二人の和やかな会話が進む中、電車は目的地である川口へと到着する。
地下鉄だけでなく多くの公共交通機関が集まる交通結節点の駅だけあってホームには大勢の人が電車を待っており、車両を降りる者も多かった。
冬斗と晴香もドアが開くと降車してホームに降り立つ。
「行くのはどのショップなんだ?」
「えっと、スクランブル交差点の所だよ」
「ツガヤかな。なら、六番出口だね。そこが一番近いし」
普段からこの駅を利用する冬斗だけあって最短経路を知っている冬斗は晴香の向かうショップがどこか聞いただけで最適な出口を割り出す。
二人はCDショップや本屋などが入っている大手販売店へ向かうために改札を通って六番出口へ向かった。
地上に出ると、空は夜の色と夕方の色が半分ずつくらいになっていた。九月ともなると先月に比べて陽が短くなっている証拠である。
彼が口に出した駅の出口はスクランブル交差点のすぐそこにある所で、目指す店はもう目の前だ。
彼らが丁度歩行者用信号が青色に切り替わったタイミングで、仕事を終えた社会人や学校帰りの大学生や高校生など非常に多くの人達が一斉に動き始めていた。大手販売店の入居するビルにはホログラム式街頭テレビが今日も情報を発信している。
帰り道だけあって街ゆく人々の表情は明るい者がほとんどだった。
賑やかで、活気のある様子。そんな中だった。
冬斗がたまたま空を見上げた時、彼はどこか違和感を抱く光景を目撃する。
「空が、歪んでいる……?」
彼の視線の先、有り得ないはずなのだが空がぐにゃりと曲がっていた。
そんなに目が疲れていたっけ、と彼は目をこする。
しかし、それは一瞬であってもう一度彼は夕焼け空を視認すると、いつもの様子だった。
だが、次の瞬間。
ブツン、と音がした。発した先はホログラム式街頭テレビ。先程まで映像を流していたはずなのに、画面は真っ暗になっていた。
さらには。
「おい、信号が消えてるぞ!」
雑踏の誰かが、声を上げた。
その言葉をきっかけとして波紋が広がるように街を歩く人々に伝わる。冬斗と晴香も察知して交差点の方を見ると、直前まで青色。灯していたはずの歩行者信号も、赤色を表示していた車両用信号もまるで停電を起こした時かのように消えている。
「なんだろうね……?」
「停電かもな」
突然の異常事態に戸惑う晴香と、心がざわめく冬斗。交差点の周囲は騒然としていた。
さらに。
「あれ、ホロフォンがつながんない」
「ホントだ。通信不良かもしれねえな」
冬斗の隣にいた大学生のカップルが自身の持つホロフォンが通信出来ないことに気付く。
冬斗とホロフォンを取り出すと、アンテナマークの隣がバツ印になっていた。圏外である。
「私のもダメみたい」
「珍しいな、こんなことになるの」
先進国に位置する日本では携帯端末が繋がらなくなるという事象は滅多に起きるわけがなく、信号が消えるような停電などという現象は災害時でも無ければ有り得ない。空は快晴であり、ついさっきまでは普通だった街の突然の異常に辺りはざわめいていた。
だが、人々の心配や不安はすぐに掻き消される。
「あれ、戻ったぞ」
カップルの会話を聞いて冬斗が携帯端末を開いてから十数秒後には何事も無かったかのようにアンテナは四本目まで白色を表示していた。いわゆるいつもの状態である。
「信号もテレビも元に戻ったよ、遠海くん」
「本当だね」
続いて停電していた交差点の信号や街頭テレビも元通りになっていった。困惑する人々だったが、とりあえずは通常の状態に戻ったことで歩みを止めていた彼も歩き出す。
時間にしてわずか一分足らずの現象だった。
「なんだったんだろうね……?」
首を傾げながら言う晴香。
「さあ、さっぱりだ。けど元に戻ったしいいんじゃないか?」
「そうだね。停電が長引いたら大騒ぎになっちゃうし」
冬斗も晴香も、二人して怪訝そうな顔つきをしながらのやり取りだった。
ただ、それよりも冬斗は内心気になっていたことがあった。
なぜ、空が歪んでいるように見えたのか。ということである。
目を酷使するような事を今日はしていないし、唯一それに結び付けられるとしたら部活の時の魔法射撃くらい。だが、そう長い間していたわけではないから可能性としては除外される。
となると、あれはやっぱり空目では無かったのではないか。だったとすると、なんで空が?
冬斗の心中は自身が見た景色のせいでどうも落ち着かなかった。
しかし、冬斗は晴香に空が歪んでいたとは言えなかった。なぜならば到底考えられない現象だからである。他に目撃者がいたのならばともかく、そうでないとなると説得力もない。
なんだったんだろうなあ……。と冬斗は一人で考え込むしかなかった。
そうしていると晴香が心配そうに声をかけてきた。
「どうしたの? 遠海くん」
「ああ、いやなんでもないよ。どうして急にホロフォンが繋がらなくなったり、停電したのかと思っただけさ」
「確かにそうだね……。けど、周りはいつもみたいになったし大丈夫だと思うよ。ほら、ホロフォンも電波四本だし」
彼を安心させるためだろう、晴香は自分のホロフォンを彼に見せて言う。
胸に何か引っ掛かりを残しながらも、冬斗はこれ以上考えても仕方ないかと思い、
「もう安心かな。よし、ツガヤに行こっか。ここで立っていても仕方ないからさ」
「うん、行こ行こっ」
二人は平静を取り戻した街に溶け込むかのように、目の前にある店内に入ってショッピングを楽しんだのだった。
次は第2話になります。
いよいよ、事態は急転へ。