マジック・オブ・スーサイド
つかないストーブの前にぼくは立つ。
手を翳す。
その周りに光が纏わり付き始めた。
それはどんどん輝きを増していく。
ぼくは高く腕を掲げた。――自然とにやりと笑みが口元に浮かぶ。
一段と光を増すそれに、ぼくは振り下ろすように腕をストーブにあてがった。
――ばぁんっ……!
耳を塞ぎたくなるほどの破裂音がした。塞いだ耳と目を開けたとき、暖かな空気がそこからは漏れ出していた。
「すっげー!」
「さすが!」
「やるなぁ、陽介!」
ぼくはただ笑った。いつものことだったから。
ぼくらの学校のストーブはおんぼろで、たまにつかなくなる。そんなときにはぼくが魔法でつけるんだ。
ぼく自身、いつから魔法が使えるようになったのかは分からない。だいたい、ぼくはこの力が魔法だなんて思っていなかった。――誰にでもできることだと思っていた。
お風呂で水滴を浮かせたり、飛んでいるタンポポの綿毛を引き寄せたり、手を触れないまま物を遠くから取り寄せたり。ぼくにとってはそれが日常だった。
幼稚園に入ってから、やっとそれが普通じゃないと知った。みんなが驚く顔が楽しかった。自分にしかできないという優越感が、ぼくに自信を涌かせた。
両親はこのことを、知っていたかもしれないが知らなかったかもしれない。だってあの人たちは、ぼくのことを視界に入れてはくれなかったから。
別に虐待だとかがあったわけじゃなかった。存在そのものが無いかのように扱われていた。あの人たちにはぼくが要らなかったんだと思う。
「おいおい……また陽介か?」
ああ、担任だ。ぼくを認めてくれた唯一の大人と言っても過言ではないと思う。
「先生、陽介はすげぇよ」
ある男子はそう言った。――僕はただ、指に触れないペン回しを続けていた。
機嫌はよくない。すこぶる。また、みんなに利用されたみたいだ。――先生はそんなぼくの表情を読み取ってか、どこか沈んだ目をした。
「ねえ先生。水を浮かせてみたいって思ったこと、ない?」
放課後。ぼくと先生は語り合うために居残る。そう。彼はぼくが心を開いて話せる、たった一人の人。
先生とは、小学三年のときに出会ったんだ。
先生は、いつもぼくに「おはよう」を言った。ぼくはいつも小さな声で呟くようにおはようございますを言った。そうすれば、みんなはぼくを「根暗な子」だと思って近付いてこない。だからわざとそうしていたんだ。――ぼくはいつからか人が嫌いになっていた。水田の水の上澄みだけのような友人なんかいらないと思った。大人だって同じだった。
先生は違った。そんなぼくの挨拶に、
『もっと元気に挨拶しなさい』
と言った。叱ってくれた。
両親に叱られたことのないぼくにとって、それは新しい気分になれた瞬間だった。
「水を浮かせたいと思ったこと? そりゃああるさ」
「ふーん……どんな風に?」
「どんなって……まあ、宇宙に行ったときみたいにふわふわと?」
先生は教員試験に受かってまだ間もない。若い先生。まるで年上の兄のよう。だけど少し子供っぽいところもあるんだ。
「お前はどうなんだ? ――って、陽介は浮かせられるんだもんな」
先生には申し訳ないなって思ってる。いつもぼくなんかのために、こうして時間を割いてくれて。
ぼくは小学六年生になった。だけど両親がぼくを認識するようなことは、ゾウガメが人間と同じに早く走るくらいありえなかった。それに、結局魔法はばれたけどクラスでは上澄みの友人ばかり。ぼくが魔法を使えなければ、彼らは寄って来なかった。前と全然変わっちゃいなかった。
「ぼくだったらね、先生」
ぼくは金魚の水槽から水を両手で掬い上げた。そしてそれを宙に浮遊させた。
「先生がしたいのはこう?」
先生は満足そうに頷いた。
「ぼくは……」
突然ぼくは力を抜いて、水を落とした。あ、と先生が声を上げた。――ぼくは水が床につくぎりぎりのところでそれを止めた。先生が息をついた。
「こうかな。ぼくだったら、こう」
翳した手を微動だにさせない。
「この手、ちょっと動かしたら水が落ちちゃうんだ。たぶん」
ぼくは水をまた高く浮かせて、水槽に戻してやった。
「なんか……そっくり」
「――え?」
先生にその呟きは聞こえなかったみたい。
「なんでもないよ。じゃあね、先生」
先生はいつものように、穏やかに手を振った。少しだけ心配そうに。
先生は知ってる。ぼくが家に帰りたくないと思っていることを。ぼくが家ではどんな風なのか。この学校で、唯一知っている。
ぼくの家は異常だ。
両親はもうぼくを認識していない。両親はもう親じゃない。ただの人でしかない。まるで他人のよう、いやそれ以下。最悪の家庭環境っとのは、まさに我が家のことなんじゃないかと思う。もはやぼくを認識しているのか、そうじゃないかは分からない親。してるかもしれないし、してないかもしれない。
そうなったのもたぶん、働き過ぎのせいなんだと思う。じいさんが死んだとき、あろうことか莫大な借金を残してくれた。ぼくがまだ五歳のときだ。それから両親は死ぬ気で働いてきた。おかげでノイローゼ寸前、ぎりぎりの精神状態を奇跡的に保ったまま、おかしくなっちゃったらしい。
朝は六時には家を出て、夜は九時に帰ってきて二人揃ってコンビニだかスーパーだかで買ってきた惣菜とかを食べているらしい。ただ何もしゃべらずに黙々と。もちろん、ぼくのことなんて頭にない。ぼくがいるだなんて思っていないから、ぼくは引き出しからお金を持ち出してご飯を買ったりして生きている。なんとか。不思議なことに、ぼくがお金を使っていることは解っているらしい。ここ二年ほど、言葉を交した試しがないから本当に解ってるのかは分からないけど、お金が知らないうちに減っているのに、泥棒に入られたと思って警察を呼んだりしないから。
ぼくの家は学校から歩いて十分くらいのところにあるマンション。いくらだかは忘れたけど、結構高いマンションらしい。その最上階の十階にある、ぼくの家。
二人ともまだ帰ってきていないらしい。ほとんど家に誰もいない状態だから、生活している感じがしない。
「あ」
晩御飯を買ってくるのをすっかり忘れていた。いつものコンビニも通り過ぎている。一度家へ入ってからでも構わないか。
それにしても十階は遠すぎると思う。あんな高いところの部屋を買う意味があったのだろうか。無駄だと思う。ただ疲れるだけだ。
部屋へ入って、ふとベランダが目に付いた。お金をいつもの引き出しから抜き取って、窓を開けてベランダへ出た。ひょいと下を見下ろす。――高い。ぼくの家は、こんなに高い場所にあったんだ、なんて思った。
だから何だ。そんなことを発見したって、何も変わりはしないのだ。
ご飯を食べて、二人が帰ってくるまで久々にテレビを見た。農水相が自殺したとか、何とかっていう歌手が死んだとか聞いても、久々にテレビを見たぼくにはさっぱり分からなかった。
もうすぐ九時になろうとした頃、なんだか家の周りが騒がしい気がして、ベランダから外を見てみた。赤い光がちらちらと点滅して見えた。隣のマンションで何かが起きたらしい。救急車とパトカーが見える。何があったのかは分からないけれど、ただ一つ、赤い光の下に人影が横たわっているのが見えた。
次の日の朝、もう二人とも出かけてから、一人朝食をとりながらテレビを見て隣のマンションで自殺があったことを知った。
「おい、聞いたぞ。お前の家の隣で自殺があったってな、陽介」
放課後、先生がぼくに言った。
「うん、そうみたい。でもぼくには関係ないから」
「関係ないって……そりゃそうだけどな」
先生は頭をかいた。先生の困ったときの癖だ。
「ところで、昨日は?」
ぼくはただ首を横に振った。あの二人に会ったかということだ。
「先生、ぼくはもういいんだよ。先生が気にすることでもないし」
先生が何か言う前に先手を打つ。気にしてくれるのはありがたいけれど、ぼくの家は先生が思っているよりもどうしようもないんだから。
「それにしても、飛び降りだって。お前の家、高いから危ないよな。うっかり落ちるなよ」
「大丈夫だよ、先生。ぼくだもの」
自分の体だってきっと止められるさ。もちろん、実践したことはないけど。
「先生、聞いていいかな」
「どうぞ」
「必要ないものを持っていたら、どうする?」
「そりゃ捨てるかな。いらないものを持ってたら、溜まりに溜まって溢れちまう」
「……やっぱりそうだよね」
そろそろ帰ろう。ぼくはランドセルを背負って、先生に手を振った。先生も手を振り返した。
先生は知らない。何も知らない。ぼくが何をしようとしているかなんて。少しも。
さよならなんて言わなくてよかった。だってもういないも同然だったから。必要なかったから。
「飛び降り」だなんて聞かなければ、ぼくだってこんなことをしなかったかもしれない。そう思いながらベランダから下を見た。
眼下に広がる暗いアスファルトの上には二つの人影が寝そべっていて、赤い染みが広がって行く。その眼窩はどこも見ていない。――あまり音はたたなかった。というか、そうなるにぼくがした。
ぼくだけが残った。そう、あとはぼくだけ。
「ごめんね」
ぼくにはなんでもできた。――人を殺すことも、いともたやすく。
あとは、ぼくが落ちるだけ。
止まらずに、落ちた。
ぼくは、水じゃなかったから。
以前投稿したものの、加筆修正したものを再投稿しました。