前編
喫茶「もりのいえ」は高層ビルの立ち並ぶ東京都心の隅のほうに、ひっそりとたたずんでいた。
こじんまりとした印象を受ける喫茶店だが、コーヒーがおいしいとの評判でそこそこ人気のある店でもある。ただ、それは最近になってからのことで、少し前まではこの店に立ってしまったある『悪い評判』のせいで客の出入りは少なかった。
この喫茶店で働いているのはたったの2人である。だが店自体が小さいので2人でも十分やっていけている。
おいしいコーヒーを入れると評判のオーナー、笹谷一夫。
それからアルバイトの名田真由子。
この2人で喫茶「もりのいえ」を切り盛りしている。
その日、「もりのいえ」には3人の客が入っていた。
まだ開店したばかりの早い時間だというのに、わざわざ開店前から並んでいたのだ。
この3人とも「もりのいえ」の常連である。
カウンターの右端に好んで座るのは飯島幸作。
それからど真ん中に並んで座っているのが須田吉雄、昌美の夫妻である。
3人は全員コーヒーを頼んでいた。
「お待たせしました」
須田夫妻の前にコーヒーカップをひとつずつ置き、笑顔で名田真由子が言った。
彼女はこの店の前オーナーの娘である。
前のオーナーは交通事故でなくなってしまい、店も閉じようと思っていたときに現れたのが、前オーナーの友人だという笹谷だったのだ。
真由子はまだ大学生なので、学業の傍らアルバイトという形で店を手伝っている。
「ありがとう、真由子ちゃん」
昌美がにこやかに微笑み、礼を言った。
オーナーの笹谷は右端に座っている飯島にコーヒーを差し出していた。
「・・・・・・」
あまり社交的な性格ではないらしい彼は、黙ってコーヒーを取ると、口へ運んだ。
「あら、オーナー。コーヒー豆を補充しておくの忘れてしまったみたいです。コーヒー豆は確かオーナーの部屋に保管してあるんでしたよね?」
3人のコーヒーの残量が半分ほどになったとき、ふいに真由子が言った。
コーヒー豆を入れておくはずのビンは、もうほとんど空だった。
「ああ、じゃあ私が取ってこよう。ちょうど他に取りに行かなければならないものがあるから」
「すいません、お願いします」
真由子は申し訳なさそうに言った。
「それにしても真由子ちゃんは美人だね。彼氏もやっぱりいるのかい?」
オーナーが消えると同時に須田吉雄が真由子に声をかけてきた。
酒を飲んでいるわけでもないのに、顔は真っ赤である。
「ちょっとあなた。それ、セクハラよ」
返答に困っていた真由子の代わりに、妻の昌美が言った。
「ごめんなさいね、真由子ちゃん。うちの人、あなたのことが大好きなのよ」
「はあ・・・」
真由子はあいまいな笑みを浮かべた。
と、そのとき、どこからかブルルルルルルという何かが振動する音が聞こえた。
「あら、失礼」
その音の主は昌美の携帯電話だったようである。マナーモードに設定してあったようだ。
昌美は席を立つと、店の入り口近くまで行き、電話でなにやら話し始めた。
「・・・で、実際どうなのよ、真由子ちゃん」
うるさい奴がいなくなったとばかりに吉雄が話しかけてきた。
笹谷は店の奥に行ってしまい、飯島はトイレにたった。そして彼の妻である昌美は電話のために席を離れてしまったため、現在カウンター席にいるのは真由子と吉雄だけである。
「どう、とは何のことですか?」
「もちろん、彼氏のことさ。君くらい可愛かったら、もちろんいるんだろう?」
「・・・ノーコメントです」
明らかに嫌がっている真由子に構わず、吉雄が次なるセクハラ発言をしようとしたそのとき、店の奥から盛大な音が響いてきた。
「な、何の音だ?」
「多分、食器の割れた音です。オーナーが割ってしまったのかしら・・・」
真由子は首を傾げつつ店の奥に繋がるドアを躊躇なく開いた。
「・・・・・・」
「ん? どうしたんだ、真由子ちゃん」
ドアを開けた格好のまま固まってしまった真由子を見て、不審そうに吉雄が聞いた。
吉雄の位置からではドアが邪魔で真由子の見ている光景が見えないのだ。
「お・・・オーナーが・・・・」
真由子の声は震えていた。
「オーナーが―――!」
「被害者は笹谷一夫、51歳。喫茶店「もりのいえ」のオーナー。妻は7年前に他界しています。住居はこの喫茶店の2階です」
数人の捜査官が周りをうろつく中、まだ若い男性の刑事が言った。
「被害者の死因は?」
「刃物で腹部を刺されたことによる失血死のようです」
「確かこの店は少し前に麻薬の取引場所となっていたわね」
「ええ。ただそれは前オーナーのときのことですし、この店は取引場所に使われていただけでこの店自体が麻薬と関わっていたということはないみたいです」
「なるほどね」
男性刑事の報告を聞いているのはこの現場の責任者である結城澪警部である。
彼女は女性ながらもその優れた頭脳で様々な事件を解決に導いている敏腕警部なのだ。
その澪に報告をしていた男性刑事は水原晴人という、今年入ってきたばかりの新人である。刑事ドラマに憧れて警察になったクチの者だ。
「第一発見者は誰なの?」
「名田真由子というこの店で働く従業員です。それと事件当時、店には3人の客がいたようです。自動車修理工場の工場長を勤めている須田吉雄と妻の昌美、それから雑誌記者をやっている飯島幸作の3人です」
「名田真由子・・・須田吉雄・・・須田昌美・・・飯島幸作・・・そして笹谷一夫」
澪は俯きながら額に手を当て、関係者たちの名前を頭に叩き込んだ。
「まあ、でも彼らはこの事件に関係ないと思いますよ。この事件、恐らく外部犯でしょうから」
晴人の言葉に澪が顔を上げた。
「外部犯? 水原くん、何を根拠にそんなことを言っているの?」
澪が聞くと、晴人はやや得意そうに説明を始めた。
「それはもちろん裏口の鍵が開いていたからですよ。建物の中から被害者が倒れていた店の奥へはカウンターからドアを開けていかなければいけません。被害者が通ったルートですね。しかし、被害者が店の奥へと引っ込んだあと、誰一人としてそのドアを通っていないんです。3人の客はもちろん、従業員の名田真由子も被害者が奥へ引っ込んだあとは、死体を発見するまでドアノブに手を触れてすらいないそうです。窓の鍵も閉まっていたそうですし、となると店の奥にいた被害者を殺害するには裏口から侵入するしかないというわけです」
「でもだからといって完全に外部犯とは断定できないんじゃない? 事件発生当時、4人はどこにいたの?」
「はい、まず名田真由子と須田吉雄はカウンター席で談笑しており、須田昌美は店の入り口近くで携帯電話で通話をしていたそうです。カウンター席にいた2人から見える位置にいたようですから、アリバイは成立しています。それから飯島幸作はそのとき、トイレにいたと証言しています」
「トイレに窓とかはついてなかったの?」
トイレに窓があればその窓から外に脱出し、裏口から入って笹谷を殺害することも可能だ。
「もちろんありました。ですが窓には格子がついていて、とても人間が出入りできるような幅はありませんでした」
「・・・となると店内にいた4人には犯行は不可能、か」
「ええ、ですからこの事件は外部犯ですよ。現金には手がつけられてませんでしたから無差別殺人犯か、もしくは被害者に何らかの恨みを持っていた何者かの犯行でしょう」
説明が終わり、晴人はやや満足そうな顔で息をついた。
「確かに筋は通ってるわ。でも少しおかしいわね」
「・・・おかしい? 何がです?」
晴人がやや不満そうに言った。
澪はかすかに微笑むと「大したことじゃないんだけどね」と前置きした。
「まず、この事件の犯人が無差別殺人犯だった場合、わざわざ裏口から入ってくるかしら? 無差別に人を殺したいのなら普通、真正面から入ってくるはずよ。それに裏口の鍵が開いているかどうかなんて、その犯人が知るはずもないしね。第一、通り魔的犯行を目論むならわざわざ店なんか入らずに外にいる人を狙うのが普通じゃない?」
「言われてみれば・・・。で、でも、犯人は被害者に恨みをもっていたのかもしれませんよ。元々被害者を殺すつもりで店内に忍び込んだんです。被害者だけを狙うためにわざわざ裏口から入ってきて、被害者を確実に殺すために裏口の鍵のことは調査済みだったんでしょう」
「犯人は被害者を狙って裏口から入ってきた、ね。でも外部犯なら被害者がいつ店の奥へといったのか分かるはずがないわ。不用意に入ったら名田真由子と鉢合わせしてしまうかもしれない。そもそもその外部犯がはじめから被害者を狙って殺害するつもりだったのなら、店が閉まってから殺害したほうがずっと効率がいいでしょ?」
「・・・・・・」
晴人は完全に反論できなくなった。
自分が考えもしなかったようなことをすらすらと推理してみせる澪に、感服していた。
「すいません、俺の勘違いだったみたいです」
「何謝ってるの。いろいろな可能性を議論するのはとても大切なことよ」
澪は微笑んだ。
「では、結城警部はどうお考えなんですか?」
自分の外部犯説が否定され、どう考えてよいか分からなくなった晴人は、澪に聞いた。
「私は、この事件は内部犯―――つまり店内にいた4人の中に犯人がいると思ってるの」
「し、しかし4人には完全なアリバイがあります。犯行は不可能だと思いますが」
「そんなの、調べてみなきゃ分からないでしょ」
澪は引き締まった表情で歩き出した。
被害者が倒れていたのは店の奥の食器棚の前だった。
床には手に持っていたらしいコーヒー豆の入った袋と、いくつもの食器の破片が散らばっていた。
食器棚にはシンプルな白地の食器がいっぱいに並んでいる。恐らくこの上にケーキなどを乗せて運んでいたのだろう。
「これが凶器というわけね」
澪は次に袋に入れられた大振りのナイフを眺めた。
指紋も残っておらず、手がかりになるような痕跡は何一つ見つけられなかったらしい。
「警部。名田真由子を連れてきました」
「ご苦労様、水原くん。彼女と2人で話がしたいから上の被害者の住居でも捜索しててくれる?」
「分かりました」
真由子を連れてきた晴人は澪に向かって一礼すると、その場を離れた。
「あの、警部さん。あたしに何か用ですか?」
真由子が不安そうに澪を見た。
「ちょっといろいろと質問がしたくてね。4人の関係者の中で、最も店に詳しいのはあなたでしょう?」
澪は笑って見せた。
それに少し真由子も安心したようだった。
「まず確認するけど、床に散らばってる食器類はみんなこの店のものなの?」
「間違いありません」
「被害者が取りに行ったコーヒー豆の保管場所は?」
「2階のオーナーの私室です」
「被害者の笹谷オーナーは、どんな人だった?」
澪は矢継ぎ早に質問をする。
「いい人でした。親切で優しくて。この店だってオーナーが買い取ってくれなければどうなっていたか」
「そうですか。前オーナーはあなたの父親だと聞きましたが」
「はい、その通りです。もっともその頃は今ほど客が入っていなかったのでとても厳しい状況でしたが・・・」
「前オーナーのとき、この店は麻薬の取引場所になっていたことがありましたね?」
澪の質問に、真由子の肩がぴくりと揺れた。
「・・・父はそのことを知りませんでした。でも一部の人に父も仲間だと思われたらしくて・・・この店のどこかに麻薬を隠していると思っている人がいるようです。でも、そんなことは絶対にありません。父は何も知らなかったんです! 何も知らなかったんですよ!」
真由子の言葉は、最後のほうには叫び声にかわっていた。
「あなたが飯島さんですね」
澪が声をかけると、目の前の男は小さく頷いた。
飯島は色白で不健康そうな感じのする男だった。
「事件が発生したとき、あなたはお手洗いにいたと聞きましたが」
「その通りです」
「その間、あなたの姿は誰にも見られていないというわけですね」
「それも確かにその通りです。でも窓には格子があって出入りはできませんでしたよ。ドアから出たら他のお客さんや従業員の人に気づかれるし・・・」
「私は別にあなたを疑っているわけではないから安心してください。・・・ところであなたは雑誌記者だそうですね?」
「ええ、そうです」
「この店にも、何かの取材できたんですか?」
一瞬飯島の顔がぴくりと反応した。
「いいえ、完全にプライベートですよ」
「本当にそうですか? この店には雑誌なんかに最適なネタがあるじゃないですか」
「・・・」
「もちろん知っていますよね? 麻薬です」
飯島はじっと俯いていた。
「須田吉雄さん、それから昌美さんですね?」
「はい」
2人は頷いた。
「事件が発生したとき、旦那さんはカウンターに、奥さんは店の入り口付近にいたそうですね」
「ええ、従業員の名田さんと話をしていました」
「私は店の中だと電波が悪いので入り口のほうへ行って電話をしていました。相手は近所に住む友人です」
「あなた方はこの店の常連だと聞きましたが」
「ええ、前オーナーの頃から週に2,3回通っていました」
「前オーナーの頃から、というと、例の噂も知っていますか?」
「・・・麻薬のことですか?」
澪の問いに、吉雄が答えた。
「麻薬取引の現場になっていた店だと分かってなお、何故この店に?」
「前のオーナーはそんなことをする人じゃなかったからですよ」
昌美が答えた。
「前のオーナーも麻薬取引の片棒を担いでいたといわれていましたがね、私たちはそんなこと信じませんでしたよ。あの人はいつも笑顔を絶やさない、いい人でしたよ。自分の店が麻薬取引の場になっていたなんて、知らなかったに違いありません」
「そうなんですか」
「ええ。今のオーナーも前のオーナーも、どちらもいい人でしたよ。こんなことになるなんて、この世には神様なんていないんでしょうかねぇ・・・」
急に悲しみがこみ上げてきたのか、昌美は話しながらハンカチに目を当てていた。
須田夫妻が去った後、澪は考えをまとめていた。
「どうやら少しずつ分かってきたわね」
澪はあたりを見回しながらそう呟いた。
「結城警部ー!」
そんな澪のもとに、上で捜索をしていた晴人が駆け寄ってきた。
「見てください、こんなものを見つけました。被害者の日記です」
そう言うと晴人はページをペラペラと捲り、あるページを開いて澪に見せた。
「これは―――!」
それを見た澪は目を見開いた。
「なるほど・・・そういうことだったのね」
澪の中で、すべての謎が解けた。