第5話 春合宿、出発前夜なのに慌ただしい
202X年、4月27日
夜十時。
部室の蛍光灯は、まだ点いている。
机の上にはチェックリストと段ボール箱。ペンが走る音に、マシロ先輩の笑い声が混じる。
「じゃ、忘れ物リストもう一回確認しよっかー!」
「歯ブラシ、充電器、書類……あ、寝巻!」
「現地に洗濯機あるんですか?」
「あるある。乾燥機も。あと卓球台もね!」
部屋の隅では、カオル先輩がタブレットで交通手配の最終確認をしていた。
「出発は明日七時半。バス手配済、点呼表も印刷済み。イズミは六時集合ね」
「おう。俺はこの相棒の寝袋で今日も泊まるから問題ない!」
「寝坊フラグ立てるなよ」
テーブルの端では一年生がワイワイと荷物を詰めていた。
カズネが自分のカバンをがさごそしながら叫ぶ。
「これ、絶対朝になったら忘れ物出ますよね!」
「出るね」
アキハが即答した。
「去年なんか、シャンプー忘れて台所洗剤で洗った奴がいた」
「だ、誰ですかそんな人……」
「イズミ」
「おい!」
笑い声で部室が揺れる。
なんだかんだ言って、こういう時間が一番好きだ。
◇
夜十一時。
ようやく片付けの目途がついた。
泊まり組に挨拶をして部室を出ると、4月も終わるのに札幌の夜はまだ冷たい。
「……タマキ先輩」
部室を出て少し空を見ていると、背後から声をかけられる。
振り向くとフユミが立っていた。
白い息を吐きながら、手提げを抱えている。
「帰る方向、こちら側でしたよね」
「ああ。歩く?」
「……はい」
街灯の下、並んで歩く。
雪解け水の匂い。沈黙は、思ったほど重くない。
フユミがぽつりと口を開いた。
「こういう行事、ちょっと苦手なんです」
「人多いから?」
「はい。みんなで泊まりとか、うまく話せないので」
「別に話さなくてもいいさ。飯食って、寝て、帰ってくれば十分だよ」
「…それ、先輩が言うとすごく現実的ですね」
「現実が仕事だからな」
小さく笑ったフユミの肩が、街灯の光で柔らかく照らされる。
“鎧”を少し脱いだ横顔。
ほんの少しだけ、春の気配がした。
「家の前まで送ろう、どの辺?」
「いえ、ここからすぐなので、ここまででお願いします」
「……わかった。気をつけて。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい。明日、遅刻しないようにします」
「頼むよ。出発七時半だぞ」
彼女が角を曲がって消えるまで見送ってから、俺も自分の部屋に向かって歩き出した。
…予想どおり俺の部屋の窓には電気がついている。
「電車通学組は朝早い日は辛いもんな」
◇
玄関を開けると、案の定、靴が二足。
「忘れ物チェックいくよー。書類、名札、筆記用具、替えの服」
アキハがパジャマ姿で、タブレット片手に読み上げている。
「パジャマ〜。洗面用具〜。おやつ〜♡」
ナツキもパジャマ姿のまま、ドライヤー片手にふざけながら応じる。
完全に家モードである。
「おやつって必要か?」
靴を脱いで、手を洗いながら一応突っ込む。
「合宿におやつは命でしょ」
「修学旅行かよ」
「そういうイベントごとを修学旅行みたいに全力で楽しめるのが、うちの事務局のいいところなの♡」
笑いながらも、ナツキは器用に紅茶を三人分淹れてくれる。
夜の静けさに、湯気と香りがやさしく混じった。
「イズミからLINE来てたぞ。“明日二年生は七時集合。遅刻者はリン先輩が回収”だと」
「“回収”って、言い方」
アキハが小さく吹き出す。
「タマキ、遅刻したら本当に担がれていくよ?」
「やめてくれ」
「私なら優しく捕まえるのに♡」
「それもいやだ」
テーブルに笑いが落ちる。
紅茶の表面に、明かりがゆらゆら映る。
春の札幌は、まだ冬の名残を抱いている。
「……遠足前夜って、なんか落ち着かないな」
俺がぼそっと言うと、アキハがペンを止めた。
「大人になっても変わらないんだね、そういうの」
「“明日なにか起こるかも”って期待だけは、毎回裏切られないけどな」
「タマキがそう言うイベントほど波乱起きるのよ」
ナツキが笑う。
気づけば、時計の針は十二時。
アキハが「明日起きれるの?」と呟きながらベッドに入り、ナツキが紅茶を片づける。
俺は明日の資料をまとめ、鞄のチャックを閉める。
それぞれが小さな作業音を立てながら、夜がゆっくりと沈んでいく。
「……明日、なんか起きそうだね」
「起きるさ。きっとなにか起きる」
アキハの返事は、もう半分寝言だった。
照明を落とすと、人の気配と紅茶の香りだけが、まだかすかに残っている。
そのとき、スマホが小さく震えた。
画面には、短いメッセージ。
《明日よろしくお願いします》
送り主は――フユミ。
《うん。ちゃんと寝ろよ。おやすみ》
指先で打って、送信。
画面の光が消えると、部屋の中は完全な静寂に包まれた。
布団の中で、俺は小さく息をついた。
遠足の前夜、胸の奥のざわめきは、もう止められない。
明日からは春合宿。
笑って、考えて、たぶん、何かが少しだけ変わる。




