第36話 男子大学生の理性の限界はどこだ
202X年、6月下旬 朝
目が覚めたら九時。肩と腰に軽い鈍さ。
ソファで寝落ちした身体をゆっくり起こすと、寝室のほうから一定の寝息。
昨日のショーの余韻が残っているかのような静かな朝。
あー、そういえばヒカリさん家に泊まったんだった。
おはよう、トルソー君。
昨夜は怖がってごめんな。
テーブルの上には、昨日置いた自分とヒカリさんのスマホが震えているのが見える。
……そりゃそうだ、ヒカリさん普通に考えて今日も仕事あるよな。
――起こすか。
リビングのカーテンを開け、日光を取り入れる。
キッチンで珈琲マシンに「おはよう」を告げ、モーターの音が立ち上がるのを確かめてから寝室へ。ドアをノック、ちょっとだけ隙間を開ける。
よく見ると、床に昨日はなかったはずの布が落ちている。
……夜中に起きて脱いだな?
「……ヒカリさん、起きてください」
「…スゥ」
知ってた。
これで起きてくれるなら毎回苦労していない。
仕方なしに寝室に入り、ブランケットの上から揺する。
「ヒカリさん、起きた方がいいと思いますよ、多分今日も仕事でしょう」
「ん-…あと50分…」
「俺はいいですが、多分怒られますよ」
ブランケットがもぞ、と動き、顔がにゅっと出てくる。
ぼさぼさの前髪。寝ぼけた瞳。なのに絵になるのが腹立つ。
「ん-…んー…あー…タマキくんだぁ」
この甘え顔がホント反則。
「おはようございます、ヒカリさん」
「…おはよー、ファンクラブ一号くん♡」
「……はい、おはようございます」
起き抜けにからかわないでほしい。
「昨日、言ったよね?『ファンクラブ一号にしてください』って」
「あー……はい……」
「あと、『超綺麗で超カッコイイ姿』って言ってくれたよね?」
「……はい、事実ですから」
「それから、『危ないことやめてください、このクソバカ』って怒ってくれたよね?」
「……すみませんでした」
「ちゅーもしちゃったし♡」
「………………………」
沈黙ののち、彼女は肩を震わせて吹き出す。
「ぷっ……あははははっ!顔真っ赤ぁ♡」
当たり前だ。
「忘れてください」
「えー、ちゅーもしたのに忘れろなんてお姉さん、かなしいなー」
ベッドの上であくびをひとつ。髪をざっくりまとめ、視線だけで人をからかえる余裕を戻している。
起きたんならほっとこう。
「……でもさ、タマキくん」
「?」
「昨日、一緒に倒れてくれたんだね」
声の質と目の色が変わった。
昨日、光のど真ん中に立っていた“プロ”の顔。
「……見ることしかできない人間の責任ですから」
「ふふ。やっぱり、タマキくんに見ててもらってよかった。ありがとう」
見惚れそうな顔でお礼を言われる。
でも、一瞬でその顔をわざと崩すのがこの人だ。
「――じゃ、お礼にもう一回キスしてあげる♡」
「しません!」
「えー! 昨日はしてくれたくせに~!」
「あれは不意打ちです!!」
「じゃあ今後も不意打ちするね♡」
「やめろぉ!ヒカリさんは、もう少し自分の魅力をしっかり理解してください。というか、真面目な話するなら、早く服着ろ!」
「理解してるもーん。してなきゃモデルなんてできなかったもーん」
言いつつ、ブランケットを除け、ベッドの上に立ち上がる。
腰をひねり、片足を流し、手の甲を頬に。
完璧なライン。艶やかなポージング。
しかも下着。腹が立つほど綺麗。
「下着でポーズ取るなって言ってんだろがぁ!しかもちゃんと綺麗なのが腹立つ!」
「あはは! 誉め言葉ありがとー♡」
枕を投げたらひらりと避けられた。
朝からバカみたいな攻防。
誰だ、静かな朝だと思ったやつ。
◇
なんやかんやでようやく着替えて寝室から出て来てくれた。
朝から疲れたよ…
ようやく、珈琲と預かりものを渡せる。
「あの、ヒカリさん、これ」
「これは?」
昨日、会場のロビーで預かった二枚のスケッチを渡す。
「あの、その…実は」
「アハハ!!」
いきなりヒカリさんが笑いだす。
こえぇよ。
「タマキくん!!」
「は、はい!ごめんなさい!」
「いーい仕事してくれたわね!!」
「え?」
「うんうん、あのままじゃ“始まり”のバランスがちょっと弱いわよね、呼吸は成立してたけど、客席の“好き”がもう一段加速してた。そっか、始まりに“好き”を織り込むって発想ね。うん、悪くない。でも、こういう線を描くなら、ここはこうして、いや、アクセサリーで補うべきかしら」
彼女がスケッチを握りしめたまま、ぶつぶつ言いだした。
…放置。
簡単な朝食出せるように用意しておこう。
キッチンに向かい、トーストとベーコンとスクランブルエッグを用意する。
「ん、あれ?タマキくーん、おーい!」
「はいはい」
朝食の準備を中断して、ヒカリさんの元へ向かう。
「んもう、勝手にいなくならないでよ」
「もうやだ、この人」
理不尽が過ぎる。可愛いけど。
「これ、あの子から受け取ったのよね?」
「はい、ごめんなさい、ショーの後にロビーで少しだけ」
「うん、見ただけでわかるわ。あの子ね、帰ってくるわよ」
「本当ですか!?」
「うん、描くことに対する好きが伝わってくる。
……良かった」
ヒカリさんが、とても優しい顔でスケッチの線を撫でている。
…くっそ、美人すぎる。
見惚れるわ。
「ご褒美はちゅーでいい?」
「遠慮させていただきます」
「じゃあハグね」
「えん…ゴフ」
遠慮する間もなく飛びつかれる。
仕方ないので、そのまま受け止める。
「ん~」
胸元で彼女の呼吸が浅く揺れて、すりすりと甘えるみたいに額が触れる。
「あの、その、マジで理性ヤバいんで、その」
「理性飛ばしてもいいのにー」
「あー、もう…」
そんなことできるわけがない。
そっと背を撫でる。
……俺の胸元が少し冷たいのは、涙かもしれないけど、気が付かないふりをする。
本当に、この人優しいんだよな。
しばらくそのまま、静かな時間が流れる。
布の揺れる微かな音と、窓の外の鳥の声だけが聞こえる。
「よしっ!」
ヒカリさんが掛け声とともに離れていく。
そして、いかにも悪戯してますという顔で振り向いて言う。
「んふふ~、タマキくん?」
「はい?」
「ナツキちゃんとアキハちゃんに言っといてね?もたもたしてると取っちゃうぞ?って」
「…………何のことかわからないので嫌です」
ホンットにこの人は。
ふいに空気が変わる。
ヒカリさんがスケッチを手に持ったまま、机に向かい、髪を後ろで束ねて、黒縁のメガネを掛けた瞬間。
そこにいるのは、いつもバーで酔い潰れる常連でもなく、からかい好きの先輩でもなく――
世界と戦う、プロの服飾デザイナーの顔。
スケッチを広げ、線を描いている。
窓から差す光に、集中した瞳が静かに輝く。
俺は声をかけず、そっと立ち上がる。
雑談している方が捗ると、以前言っていたけど、今日はきっと違う。
ずっと見ていたくなるけれど、邪魔をしてしまう方が嫌だ。
さっと朝食を完成させ、作業机から離れたテーブルに置く。
そして一枚のメモを一緒に残す。
「また、きます」
静かにドアを閉めて部屋を後にする。
合鍵は…返せと言われるまで持っておこう。
それくらいの役得があってもいいよね?




