第30話 普通の男子大学生のショー当日朝
202X年、6月下旬 朝
スマホの震動で目が覚めた。
画面には「マヨイ先輩」。
嫌な予感がする。
「……はい、タマキです。どうしました?」
『ご、ごめんね、朝から。マシロの姿が見当たらなくて……!』
「え?」
先輩の声が少し震えている。背筋がすっと冷える。
『“十時に会場には行くから心配しないで”って、書き置きだけあったの。電話も出ないし……』
布団の上で上体を起こす。
時計は八時。集合は十時。あと二時間。
「わかりました。マシロ先輩のことは俺が探します。マヨイ先輩は、予定通り会場へ向かってください。必ず連れていきますから」
『で、でも……!』
「大丈夫です。ちゃんと連れて行きますから」
『……うん。ありがとう。信じてる』
通話が切れる。
胸の奥に、冷たい水が流れたみたいな感覚。
両頬に手を当てられ、顔を正面に向けられる。
そこで、自分が下を向いていたことに気が付いた。
「起きなさい、タマキ」
「…起きてるよ」
ナツキだ。
うん、わかってる、大丈夫。
「大丈夫じゃない。今アキハがお弁当詰めてる。まず深呼吸。その後、今の悩みを簡潔に」
ありがてぇなぁ、この美女どもが。
深呼吸をし、告げる。
「朝起きたらマシロ先輩がいなかった、会場には行くって書置きがあった」
「わかった。アキハー!お弁当、朝ごはん用も二人分詰めてあげて―!」
「ナツキの朝ごはん無しね!」
「タマキの分削って!」
「おいこら」
俺の顔が前を向いた。
ナツキの顔が見える、キッチンにアキハの姿も見える。
「顔を洗って、着替えて、何としてでも見つけて、どうにかしなさい」
「わかった」
「荷物は今、アキハが準備するから」
「全部私かい!!」
キッチンからアキハが怒る。
3人で笑う。
うん、俺は大丈夫。
次は、マシロ先輩を大丈夫にしに行く番だ。
◇
候補は三つか?
玄関から放り出されながら考える。
①部室 ②会場 ③その他。
部室は真っ先に浮かんだが、あそこは人が出入りしすぎる。
一応、カオル先輩とイズミに依頼しておく。
会場は十時集合だし、多分今のマシロ先輩が行くところではない。
――その他。
その他、ってなんだよ。どこ行きゃいいんだ、モエレ沼公園でも行くか?
その時、昨日の夜、マスターから渡された店の鍵がポケットの中で触れた。
……まさか。
内ポケットのタグが「正解」と言った気がした。
◇
朝の繁華街の空気は、夜とはまた違った匂いがする。
タクシーをすっ飛ばして、バーのある雑居ビルの目の前で降りる。
エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け上がり、バーのあるフロアにたどり着くと…
――うっそだろ。
うちのマスター、一体何が見えてるんだ。
ポケットからスマホを出し、マヨイ先輩にそっと送る。
《見つけました。安心してください。予定通り会場で》
扉の前に座り込む姿。
「……マシロ先輩」
返事はない。
そっと近づくと、肩がかすかに揺れた。
「タマキくん……どうしてここが……」
「昨日マスターから鍵を貰っていたのと、ヒカリさんから貰ったタグがここだって」
顔を上げたマシロ先輩の目の下には、泣き腫らした跡があった。
「とりあえず、中に入りましょう」
言いながら、鍵を開けてカウンターの中に回る。
カウンターからチラリと見える鏡に、傲慢になるなよ、と心の中でだけ告げる。
「座っててください。……紅茶、淹れます」
「え?タマキくん、ここバーだよ?」
「実は、セットはあるんですよ」
自分でも驚くほど、声が落ち着いた。
ポットの湯をやわらかく転がし、カップを温め、茶葉を少なめ――喉に絡まない軽い朝の紅茶にする。
「実は、このお店で、私が誰かに提供するのは初めてなんです。……内緒でお願いしますね」
「え、そうなの? やった、“初めて”貰っちゃった」
マシロ先輩は椅子にちょこんと座り、足先をぶらぶらさせる。
「どうぞ」
「ありがと」
カップの縁に口を寄せた瞬間、マシロ先輩の肩が小さく震えた。
こぼれたのは紅茶じゃなくて、息の端。
彼女は視線を落として、声を零した。
「……ねえ、手、握ってもいい?」
彼女の声は、子どもみたいにまっすぐだった。
「いいですよ」
カウンター越しに差し出された掌は、思っていたより小さく、温かかった。指先の冷たさが、ゆっくり戻ってくるのがわかる。握り返さない。包むだけ。握るのは彼女の役目だ。
――音もなく、涙が落ちた。
「……私、怖い。
“元気”でいなきゃいけないって思って、いつも笑ってるけど、本当は自信なくて。
今日、ちゃんと歩けなかったら、皆の努力が台無しになる気がして……」
「うん」
「普段なら、お姉ちゃんに聞いてもらうんだけど、今はお姉ちゃんの前でだけは泣きたくなくて」
「……うん」
マシロ先輩は、静かに泣く。
……あー、もう!どうしてここにいるのが俺なんかなんだよぅ!!
どうにかするしかないじゃないか。
「俺も、マヨイ先輩もわかってます。いつも、マシロ先輩が、周りを元気にするために笑ってくれていること」
「……うん」
「いつも俺は、マシロ先輩に“元気”を貰ってます。ですから、今日は“怖い”を貰います」
「……」
「代わりに、俺の“初めて”を持って行ってください」
「なにそれ」
彼女が笑う。泣き笑いでも、笑いは笑いだ。
我ながら何言ってるか、わからない。
彼女は鼻をすっとすする。
「……やだな、泣いちゃった。メイク前なのに」
「泣くの、今でよかったじゃないですか。ここなら、誰にも見えない」
「見えてるよ、タマキくんに」
「俺はセーフです」
「何それ、ずるい」
「タマキくん」
「はい」
「……行く」
「はい」
「逃げて来て、逃げ終わった。ここで泣いたから、もう大丈夫。行く」
「はい。マヨイ先輩が、待ってます」
握っていた手が、そっと離れる。カウンターの上に置いた彼女の指先から、もう震えが消えていた。
かっこいいな、マシロ先輩。
「タクシー呼ぶので、待ってる間にお弁当たべましょう」
「お弁当あるの?」
「アキハとナツキが作ってくれました」
「うわ、美味しそう!」
「美味しいですよ、保証します」
「ふふーん、お姉ちゃんが作るごはんも美味しいもん」
「それも知ってます、また皆でご飯食べましょう」
「タマキくん家でね!」
「わかりました」
「紅茶、おいしかった」
「よかった」
「……秘密ね」
「はい。二人だけの、秘密です」
◇
10時。
会場入口のスタッフ通用口前。
俺たちを見つけたマヨイ先輩が、深く息を吐いた。
「……よかった」
そして、マシロ先輩に向かって。
「行こう。リハの時間、間に合う」
「うん」
ふたりが並んで歩く。
マシロ先輩の手をマヨイ先輩が自然に取った。
その瞬間、空気が少しだけ変わった。
――あ、マヨイ先輩のほうが、芯が強い。
普段は控えめで、寄り添う側の彼女が、今日は完全に“導く側”の顔をしている。
「ごめんね、タマキくん」
「いえ。先輩たちが立つステージ、俺、ちゃんと見届けますから」
「ありがとう」
マヨイ先輩が笑って、マシロ先輩の手をぎゅっと握り直した。
二人が通用口の向こうへ消えるのを見届けたあと、スタッフの方に招待状を見せて、席に向かう。
俺は胸ポケットを軽く叩く。
金糸の“Hikari”が、「それでいい」と言った気がした。
――始まりの二着。
“元気”と“安らぎ”。
そして、メインの一着。
――“好き”。
ちゃんと見届けよう。
怖さを抱えたまま、それでも前に進む人たちを。




