第20話 とあるバーにおけるバイト不在の夜
202X年、5月XX日 夜
夜九時を少し過ぎたころ。
俺は制服代わりの白シャツの袖を少しだけ折り、冷蔵庫からミントの束を取り出した。
切り口を水に浸けると、清涼な香りが一気に広がる。
カウンターには、いつもと同じ席に座るOLさん(仮)とカズネとヒカリさん。
カズネが遠慮なく話しかけて盛り上がっている。
OLさん(仮)の声出して笑うとこ初めて見たわ。
……カズネのすぐ仲良くなる能力、ちょっと羨ましい。
「こんばんは~!」
「……こんばんは」
ドアベルが鳴ると、静かなバーの空気が少しだけ賑やかになった。
マシロ先輩とマヨイ先輩だ。
…そういえば、マシロ先輩もすぐ仲良くなる能力持ってるよな。
教えてくんねぇかな。
…ん?
ヒカリさんのようすがおかs
「……そうよ!そうだったのよ!!」
ヒカリさんが突如立ち上がって叫ぶ。
「“始まり”が一着じゃなきゃダメなんて誰が決めたのよ。
そう、安らぎと元気、光と闇、休みと走り出し。」
ヒカリさんがブツブツと続けている。
怖い。
「ありがとう!マシロちゃん、マヨイちゃん!
こんないい後輩を持って私は幸せだわ!!」
「きゃっ」
「あ、あの、ヒカリさん…」
ヒカリさんの様子をうかがっていたマシロ先輩とマヨイ先輩に、ヒカリさんががばっと抱き着く。
二人は驚いているが…いいなぁ。
「二人にモデルも…いや、さすがにそれは欲張りか。マスター、帰る」
誰も反応できない速度で自己完結し、ヒカリさんがお金をカウンターに置いて、素早く扉を開けて出ていく。
「バイトくん、追いなさい」
「え?」
いや、マスターだけは反応していた。
あ、お金多い。
まあ、いつも酔い潰れた時はツケだし、いっか。じゃなくて。
「今、君が必要なのはココじゃなくて、あっち。わかるでしょ」
「わかりました、早退します」
いや、何もわかってねぇんだけど。
◇
白シャツが黒エプロンを外し、ターコイズを追いかけていった。
残されたのは、ポカンとしている常連たちと、何のことはない顔をしているマスター。
扉が開く。
ギィ。
「おいおい、なんだよ。タマキがえらい勢いで走って出てったぜ、買い出しか?」
「本人もよくわかってないような表情だったけどね」
入ってきたのはイズミとアキハ。
「いらっしゃい、何にするの?」
「今日は……甘いけど、強いのがいい」
「俺は、何にすっかなぁ」
素早く注文するアキハと悩むイズミと、あくまで自然体で迎えるマスター。
温めたグラスにコーヒー、ウイスキー、砂糖。
上に浮かぶクリームを静かに流すと、香ばしい甘さが立ちのぼる。
「……この香り、好き」
「アイリッシュコーヒー。甘やかされたい夜なんでしょう?」
「さすがね。言い当てるの早い」
アキハは微笑みながら、クリームの縁に唇を寄せた。
強いアルコールが喉を抜ける。
でも、あとに残るのは優しい甘さ。
「……バイト君がいなくて残念ね」
「マスター、その辺で許してください」
アキハの苦笑を、マスターは黙って受け止める。
アキハのグラスを見ながら、隣のイズミがぼそっと言う。
「俺は、今日は甘いのはやめとく。苦いやつを」
「……ネグローニね」
カンパリ、ジン、スイートベルモット。
琥珀のグラスを軽く回しながら、イズミが笑う。
「……うまい。やっぱりここの比率が完璧なんだよな」
「こないだ女の子と来た時にも同じこと言ってたわね」
「それバラす必要あった?マスター」
イズミの苦笑も、マスターは黙って受け止める。
「マスター、タマキのカクテルは未だか?」
「あと一歩、人間が足りないわね」
「あー、なんとなくわかるわ」
それを見ていたアキハが、からかうように言う。
「弟が成長したみたいな顔してる」
「ずいぶん手のかかる弟だよ」
笑いが広がる。
「マスターは変わらないねぇ」
「そうなんですか?」
「元々バイト無しでこのお店やってたからね、バイト二人体制になったの今年の春からだしね」
「あー、そういえばタマキ君来る前は、マスターのみの日も普通にありましたもんねー」
「あ、ま、マスター、わたしは、今日は、えと……」
カズネとマシロがOLさん(仮)と会話を交わす中、マヨイの顔は未だ赤い。
「あなたには、芯のある呼吸の整え方を試してあげるわ」
マスターが作ったのは、ホワイトレディ。
ジンとレモン、そしてホワイトキュラソー。
光の底から立ちのぼるような透明さ。
一口飲んで、マヨイの目がわずかに開く。
「……強い。でも、嫌じゃない」
「あなたは実は誰よりも強い。けど、芯を試される日が近々来るわ」
「え?」
「ただの予感よ」
マスターの何気ない言葉をマヨイはグラスを眺めながら受け止める。
「あ、はいはい!私も今日のおすすめが欲しい!」
マシロが元気に言う。
「あなたにはモスコミュール」
銅のマグに注がれたライムとジンジャーエールの香り。
彼女の明るさには、炭酸の弾ける音がよく似合う。
「わっ、これおいしい! ジンジャーが効いてて、元気出る~!」
「人に元気をあげすぎて足りなくなったら、うちに来なさい」
「…えへへー、さすがマスター」
マシロの満面の笑みに対して、マスターが口元だけで笑った。
◇
「で、結局タマキはなんで走ってったんだ?」
「あー、私もよくわかってないんですけど、ヒカリさんを追っかけていきました」
「……タマキは去年からヒカリさん大好きだからねぇ」
「え!そうなんですか!?」
「本人は隠してるつもりっぽかったよねー」
「ま、マシロ、あまり言うとかわいそうだよ…」
イズミの問いにカズネが答えたところで、アキハとマシロがシレっと去年のタマキの様子をバラす。
「止めなくていいの?」
「大丈夫よ、あの子たちなら」
「ふぅん、いいわね、若いって。…マスター何歳?」
「女性に年齢を聞くものじゃないわよ」
カウンターの端で、社会人とマスターが静かな会話をする中で、学生たちは一層盛り上がる。
……ここにいない人の話題で。
「あいつ、去年の今くらいの頃、ほんとひどかったんだぞ。『俺は使える奴と仲良くしたいだけ』とか言っててな」
「あー、あったあった」
「タマキくん、最初の春合宿で『ファーストキスも未だです!』って大声で言ってたよねー」
「えー、そうだったんですかぁ!?」
……カズネが知るってことは、一年生20人全員にバレるってことなんだけど。
まあ、この場にいないやつが悪い。
「あとはー……」
「えー!」
「……本当に止めなくていいの?」
「………いない時も話題になるのは悪いことじゃないわ」
マスター、止めてあげてよ。




