第19話 猫は恐る恐る足を踏み入れる
202X年、5月XX日 夕方
休日の午後。
外は少し曇り気味で、カーテン越しの光がやわらかく滲んでいる。
テーブルの上には、先日アトリエ帰りに買っておいたフィナンシェ。
チャイムが鳴る。
約束の時間より五分早い。
……律儀だな、フユミ。
「こんにちは。おじゃまします」
「どうぞ。靴、そこに」
「ありがとうございます。あ、これ……」
差し出された紙袋には、茶葉の缶とクッキー。
包装紙の角が丁寧に折られているあたり、フユミらしい。
「もしかして手作り?」
「いえ、市販です。……手作りは、怖いので」
「怖い?」
「タマキさんに出すものを、まず家で失敗したら立ち直れません」
困ったように笑う。少しだけ肩が緩んでいるのが分かる。
フユミがきょろきょろと部屋の中を見渡す。
まるで、初めての家に来た猫みたいだと言ったら怒るんだろうな。
「えっと、キッチンお借りしてもいいですか?」
「うん、フユミの家と同じかはわからないけど、茶器は好きに使って」
「はい、わかりました」
フユミがカップを並べ、湯を注ぐ。
部屋の中に、やわらかい甘い香りが広がった。
「……落ち着きますね」
「それ、俺の部屋で一番褒められる言葉かもしれない」
「他には何が褒められてるんですか?」
「マヨイ先輩とナツキは本棚で、コウメイ先輩とシンジはwi-fiの速さって言ってた」
「ふふっ……後で私も本棚見せてください」
「もちろん」
大きい本棚は時折皆が好き放題出し入れするから少女漫画とかもあるが、まあいいだろう。
「……あの」
彼女が、カップの取っ手を親指で撫でる。
「今日、ナツキさんは?」
「夜バイト。まだしばらくバイト中」
「よかった……じゃない、安心しました」
「正直だな」
「看護学科ですから」
「それ万能カードだな」
「……便利です」
言いながらも、フユミの目はまっすぐだった。
“会いたくない”ではなく、“今は一対一で話したい”。
その意思が伝わる。
少しの沈黙。湯気が細く揺れて、外の車の音が遠い。
「この前、部室で……合鍵の話、出てました」
「ああ、アキハから聞いた」
「……ナツキさんが、タマキさんの部屋を“安心して帰れる場所”って思ってるのが伝わってきて」
「……俺が言うことではないけど、ナツキは、ここを“居場所”にしてるだけだよ。
あいつにとって、ここは逃げ場所で、仮面を脱げる場所であればいいなと思ってはいる」
「逃げ場所……」
「そう。誰だって、そういう場所がひとつくらい必要だろ?」
フユミは小さく頷いた。
その頷きが、ほんの少しだけ揺れていた。
「私……タマキさんとナツキさんのこと、羨ましいって思ってました」
「羨ましい?」
「はい。お互いを理解していて、言葉を交わさなくても通じ合ってる感じがして」
その言葉は、まっすぐだった。
悲しみでも嫉妬でもなく、ただの“正直さ”として。
「……タマキさん」
「うん」
「……私も逃げてもいいですか?」
「もちろん」
「……よかった。」
そう言って、フユミはカップを持ち直し、微笑んだ。
「フィナンシェもっと食べてもいいですか?」
「食べたいだけお食べ」
「ありがとうございます」
会話はゆっくりと進む。
先日一緒にやったFFの愚痴、新作のモンハンの話、本棚にある本の話で二人して笑った。
……フィナンシェをちまちま食べる姿は相変わらず小動物感がすごい。
「……この前の合宿、楽しかったです」
「うん」
「わたし、人の輪に入るの、得意じゃないので」
「入らなくてもいい。輪の外から見て、必要なときだけ入ればいい」
「それ、ずるいです」
「生き延びる技術だよ」
フユミは、反論しようとしてやめたみたいに、目を細めた。
雨上がりに陽だまりを探す猫みたいな目。
昼の病院帰りの学生が持つ、静かな疲れがそこにある。
「……眠い?」
「ちょっとだけ……」
「無理するな」
「すみません。紅茶、せっかくなのに」
彼女は首を横に振るが、まぶたが返事と別方向へ落ちる。
湯気の向こう、指先がマグに触れたまま止まって、小さく呼吸が深くなる。
「……少し、だけ」
「いいよ。そこで」
ソファの背にクッションを倒し、ブランケットを取る。
肩にかけようとした瞬間、フユミは半分の意識で「自分で」と言いかけて、言葉がほどけた。
「ありがとうございます……」
呼吸のリズムが落ちる。
眼鏡を外して、コースターの上にそっと置く。
髪を耳にかけ直すと、前髪が一束だけこぼれて、鼻先で揺れた。
「……寝たか」
眠っている顔は、思っていたよりも幼い。
いつも警戒している猫が、ようやく安心して丸くなったような――そんな寝顔。
◇
そろそろ流石に電気をつけないと厳しいな、となってきた頃、
フユミは小さく「ふみゅ」と声を出して、ゆっくり身体を起こした。
「……寝てました?」
「1時間くらい」
「すみません……」
「いいよ。寝顔が穏やかで、こっちも安心した」
「……それ、ずるい言い方です」
「何故かよく言われる」
そう言うと、フユミは少しだけ笑った。
「そろそろ帰りますね。お茶菓子、ごちそうさまでした」
「ああ、茶葉とクッキーありがとう」
「缶、置いていってもいいですか?」
「俺が飲み切っても文句言うなよ」
なんか後輩に奢らせたみたいで罪悪感あるな。
「……タマキさん」
「ん?」
「また、来てもいいですか?」
「もちろん、来たい時にいつでもおいで」
「……寝落ちするつもりでSwitchやりに来てもいいですか?」
「パジャマ持ってこい」
「コトネちゃんとメグちゃんにズルいって言われないよう誘います」
フユミが悪戯っぽく笑う。
玄関で靴を履きながら、未来の話を軽くする。
「次は、俺が茶葉も用意しておく。どんなのがいい?」
「……ミルクティーがいいです」
「俺あまりミルクティー飲まないんだよなぁ」
フユミがふにゃっと笑う。
「気付いてます。私のために準備してください」
「わかったよ」
「帰りは送る。夜道を一人で帰したくないんだ」
「……今日は素直に受け取ります」
扉を開け、廊下へ。
春の夜気が、扉の隙間からひやりと入り込んだ。
◇
フユミを送り、部屋に一人で帰ってきた。
まさか俺ん家から学校と反対側に徒歩三分だとは、正直驚いた。
……PS5あるらしいから今度お邪魔したいな。
テーブルの上のカップを片付けながら、俺は思った。
――誰かが“帰る場所”と呼んでくれるなら、それだけで十分だ、と。
数分後。
廊下の向こうから軽い足音。
鍵の鳴る音と、合鍵の主の明るい声。
「タマキー、ただいま♡」
二人で止めていたはずの時計の針が動く音がした。




