表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最北大学学生事務局、季節は巡る  作者: 萩原詩荻


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/37

第14話 とあるバーにおける敵わない人たち

202X年、5月XX日


 開店直後。

 俺はカウンターの中で、グラスを並べている。

 昨日は、もう一人のバイトの人が来ていたことが、グラスの輝きからなんとなくわかる。


「氷の割れ方で、今日の運が決まるのよ」


 マスターがグラスに氷を落としながら言った。


「マスターの占いですか?」

「ええ。当たるわよ。割れたら波乱、静かなら平穏」


 氷が沈み、静かに溶けていく。


「……今日は静かですね」

「つまり、退屈」

「平穏じゃなかったんですか」

「退屈もまた波乱の一種よ」

 そう言って、マスターは薄く笑った。


 ――彼女の笑みには、何かを知っている人間の余裕がある。



 そんなやり取りの最中、ドアが鳴る。

 滑り込んできたのは、ヒカリさんだ。

 今日は黒いトレンチコートにスカーフ。髪を結い上げて、仕事帰りの大人の顔。


「おつかれさま、後輩くん。……オールド・パルお願い」

「かしこまりました」


 ライ麦の香りが立ち、カンパリの赤が氷の小路を通る。

 ヒカリさんは、ひと口で顔を変えられる人だ。悩みを外に出さない強さを持つタイプ。

 だけど、今日の顔は重い。


「……私、仕事に情熱を持てるのかな。

 私ね、“好き”って言葉が分からなくなっちゃったんだ」


 グラスを傾けたまま、ぽつり。

 半分冗談に聞こえるように言うのが、ヒカリさんの“賢さ”

 重い言葉を軽い皿に乗せる天才。


 俺は返事を急がない。

 氷が一回だけ鳴るのを待ってから、言う。


「ヒカリさんなら大丈夫です。……誰よりも情熱的な女性ですから」


 指先がグラスの脚で止まる。視線が一瞬だけ、俺を射抜く。


 それは“うそを見抜く目”だ。


 ここで気休めを言ったら、すぐばれる。


「……ほんとにそう思う?」

「はい、私は去年からヒカリさんを見てるので」


 沈黙。

 氷が再び鳴って、遠くの時計の針が一つ進む。

 彼女はグラスをゆっくりと回して、やがて笑った。

 少しの照れと、ほんの少しの降参を混ぜた笑みで。


「……後輩くん、やっぱり面白い男だよ」

「またですか」

「ふふ、“観察してるのは私”って思ってたのに……」


 ヒカリさんはグラスを指でなぞりながら、続けた。


「今の言葉で、観察されてたのは私の方だったって気づかされちゃった」

「……“観察”というより、“感じただけ”です」


「そういう真っ直ぐさが、一番むずかしいんだよ」


 その言葉のあと、静けさが戻った。

 ヒカリさんは笑い、残りを一口で飲み干した。


 その姿を見て、マスターが小さく呟く。

「いい夜ね。人が少ない分、言葉が聞こえる」

「そうですね」


 カウンターに残るグラスの輪が、ゆっくりと光を吸って消えていく。

 それは、言葉の“余韻”みたいに見えた。



「でも、このままだと悔しいわねぇ」


 ヒカリさんがそう言ったとき、扉の向こうから嵐の気配がした。

 ……開く前から、誰が来たかなんとなくわかるのすげぇな、あの人。


 スゥッと、扉はゆっくり静かに開く。

「おう、こんばんは。タマキ、働いてるな。

 お、ヒカリ先輩もいんじゃねーか。久しぶり」

「相変わらずね。良い後輩育ててるじゃない」

「へっ、育ててるのは俺じゃねーよ」

 リン先輩は今四年生だから、入学したときに一個上にヒカリさんがいたわけで…

 そりゃ仲良いわな。


「今日の注文は?」

「おう、マスター。おすすめで。それと、今夜どうだい?」

「……ブルームーンでいいわね」

「ちぇっ、今日もフラれちったい」

 マスターを口説くシーンを見るのも何度目か忘れたが、すげぇな、この人。


「そうだ」

 ヒカリさんが、邪悪な声を出す。


「ふふ、リン、後輩くん。

 大学はどう? 春は終わった?」

「ようやく、春が軌道に乗ったところです」

「無事、知らせずに済んだの?」

 グラスをくるくる回しながら、ヒカリさんが目だけで笑う。


「……なんで知ってるんですか」

「あなたの周り、全部繋がってるのよ。リンも、マスターも私も」

「おう、タマキ。諦めろ。

 この人らには勝てん」

 マジすか、先輩。


 ◇


 日付が変わるころ、客はヒカリさんだけになり、嵐は余韻だけを残していた。

 外では雨が降り出している。


 マスターがけだるげに言う。

「…今日は閉めましょうか。先上がっていいわよ」

「ありがとうございます」

「休むことも覚えなさい。夜は“頑張らない時間”でもあるの」

「……はい」


「後輩くん」

「はい?」


 ヒカリさんがスケッチブックを閉じて、言った。


「今度、大学の図書館入りたいんだけど手伝ってくれない?見たい資料があって」

「わかりました。手続しておきます」

「ありがと。頼りになるわね」

「恐縮です」

「そういうとこ、相変わらずね」


 彼女は傘を差しながら、雨の夜に消えていった。


 マスターが最後に呟く。

「……夜の雨は、忘れるために降るのよ」

「そんな日もありますね」

「あなた、いつか誰かに言われるわ。

 “優しすぎて困る”って」

 苦笑して、更衣室に向かう。


 背後で、氷がひとつ、グラスの中で音を立てた気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ