第11話 春合宿二日目③、合宿の夜は長いし寒いし眠い
202X年、4月29日 夜
フユミが風邪をひいてしまう前に合宿所に帰し、湖畔のベンチに一人座る。
「迷い子は、もう帰したの?」
振り向かなくても誰かわかる。
ナツキだ。
ふわっと甘い匂いが香る。
「ココア?」
「正解。湖畔ココア部、ただいま部員一名」
「入部希望で」
「どうぞ♡」
ナツキが両手に持っていたカップを片方受け取ると、甘い香りが広がった。
「まだいるだろうなー、と思って来たら当たった」
「ナツキがフユミを送り込んできたんだろうが」
彼女はいつものように、“最初からそこにいたみたいな”顔で横に座った。
髪を低い位置でざっくり結んで、名前入りの地味なジャージ姿。
……高校時代のジャージかよ。
「学年一のモテ女が高校時代のジャージでいいのかよ」
「合宿でまで可愛いかっこしてたら疲れるのよ」
「去年の春と夏は気合入れたパジャマ着てただろ」
二人で、湖をしばらく眺める。
会話がなくても、空気が体温を合わせてくれる関係は、貴重だ。
「寝れないのよ、なんか」
ナツキは小さく自嘲気味に笑う。
「みんなが笑ってるの見てると、嬉しいのに、
自分がどんどん大人になってく気がして――、ちょっとだけ寂しい」
「わかってるよ」
「……ほんとは、けっこう擦り減ってるのよ?」
「知ってる」
「うそ。全然わかってないくせに」
ナツキは笑って、ココアをもう一口。
それから、静かに言った。
「でもね。タマキが“支える側”になってくれて、助かってる」
「……俺なんか何もしてない」
「また『俺なんか』。次から罰金ね。」
言葉のあとに、ふっと沈黙。
遠くで、花火のような音が鳴った。
誰かが外で盛り上がっているらしい。
…うちのサークルの人間じゃねぇだろうな。
「ねぇ、タマキ」
「ん」
「昨日の話」
「どの?」
「“止まったら寂しくなる”のやつ」
「…余計な事言って悪かったよ」
「悪くないよ。あれ、たぶん今の私の核心だもん」
ナツキは微笑みながら空を見上げた。
その横顔を照らす月明かりが、ゆっくり揺れた。
数秒の沈黙。
「……ねぇ」
「ん?」
「もしも。私が止まったら、押してでも動かしてくれる?」
「どうかな。
ナツキがその時、『助けて』と俺に言えば、絶対動かすよ」
「ずるいなぁ、タマキは」
「…そんなにずるいかなぁ」
ナツキはふっと笑い、ココアのカップを持ち上げた。
「ありがと」
軽くカップが触れ、音が静かな夜に溶けた。
月光の下で、ナツキはいたずらっぽく笑って立ち上がる。
「じゃ、私は戻るわね。
迷い子が来たら優しくしてあげなさいよ♡」
「送り込むんじゃねぇぞ」
ナツキが俺の分のマグカップも持って去っていく。
ナツキは手をひらひらさせ、建物の影に消えた。
◇
「――で。監査部、登場」
「っ」
肩越しに、声。
驚いて振り向くと、アキハだ。紙袋をぶら下げて木陰から現れた。
「怖がらないの。私は幽霊じゃない」
「俺がホラー苦手なの知ってんだろうが」
「だから驚かしたんじゃない」
「……覚えとけよ」
「はい、お土産。レモンティー。温かいやつ。タマキは紅茶で動く単純機械」
「助かる」
アキハは隣に腰掛け、長い脚をゆっくり揺らした。
…こいつ、俺より脚長くね?俺の方が身長は10cm高いんだけど?
「……で、フユミとナツキが来て、次は私、っていう順番。完璧なリレー」
「見てたのか」
「見てたわよ。監査業は多忙なの」
「どこから監査してたんだよ」
「最初は女子フロアの窓、つぎ玄関の影、トドメにこの木の陰。
――青春は、監査される運命にある」
「怖いことをさらっと言うな」
アキハは笑い、紙袋からもうひとつペットボトルを出して自分の膝に置いた。
しばらく、レモンの香りだけが会話の代わりをする。
「昨日の議論、ありがとう」
「珍しいな。アキハから“ありがとう”」
「タマキの普段の行いが悪い。
気付いてたでしょ?一年生、こっそり聞いてたみたいよ」
「俺は今日気付いた。アキハは昨日わざと見逃しただろ」
「バレた?」
「アキハが見逃すはずないだろ」
「私と、多分三年生以上は気付いてたんじゃない?」
「性格悪いぞ」
「褒め言葉として受け取るね」
アキハは空を見上げる。星の粒がまばらに貼り付いて、春の薄い雲がそれを半分隠す。
アキハはふっと笑い、肩をこちらに預けかけ――やめる。
代わりに、紙袋の奥からラップに包まれたクッキーを取り出した。
「女子部屋で焼いたやつ。夜の糖分は正義」
「焼くような場所あったか?」
「キッチン借りた。マヨイ先輩が手伝ってくれた。
――安心して。マシロ先輩は味見だけ」
「嫌な予感しかしない」
「正解。四枚中一枚は当たり」
「ロシアンルーレットか」
軽口が、湖の水平線に沿って転がっていく。
こういう会話は、眠気より先に心を軽くする。
「タマキは変わらないね。誰に対しても、真っすぐで、面倒見良くて。
……だから、誰かが勝手に惚れるのよ」
「……惚れるってのは気のせいだろ」
「ううん。そういう“優しさ”を欲しがる人って、いっぱいいるの」
アキハの声は、珍しく静かだった。
「ねぇ、タマキ」
「ん」
「明日が終わったら、また元の忙しい日常に戻るよね」
「まぁな」
「だから、今夜くらいは――」
アキハはそこで言葉を切り、レモンティーを一口。
熱の移動で白い息がふっと揺れる。
「少しくらい、誰かに甘えてもいいんじゃない?」
「……」
答えられないまま、風が吹き抜ける。
俺の反応がないことを確認してからアキハは立ち上がり、軽く背伸びをして言った。
「風邪ひくよ。早く寝な」
そのまま振り返らずに、宿舎の灯りの方へ歩いていった。
残された夜気の中で、俺は小さく息を吐いた。
残ったレモンティーを飲み干し、立ち上がる。
砂利がひとつ、靴の裏にくっついて、すぐに落ちた。
振り向かずに、研修所へ戻る。
非常灯の緑が、帰り道の“正解”を無言で指している。
明日の朝、寝不足の顔で笑う奴が何人もいるだろう。
俺も、その一人でいい。そういうのは、嫌いじゃない。
◇
部屋に戻ると、時間はもう深夜。
今日一日で、いくつの“本音”を聞けただろう。
イズミとシンジが言い合っている声を聞き流しながら、布団に入る。
――明日は最終日。




