第10話 春合宿二日目②、猫の鎧は夜の湖に溶ける
202X年、4月29日 夕方
発表会が終わって一息ついた俺たちは、夕食会場に集合していた。
食堂にはカレーとジンギスカンの香りが漂い、全員が「うおおお!」と叫ぶ。
「合宿といえばカレー!」
「いや、ここは北海道なんだからジンギスカンでしょ!?」
「どっちも食え!!」
「胃袋がひとつしかないのが悪い!!」
──そして混乱が始まった。
「タマキー、どっち食べる?」
「両方」
「やっぱりそう言うと思った♡」
ナツキは既に皿を二枚確保済み。
「戦に対する備えは万全か」
「女の戦いは、準備から始まってるの♡」
隣でアキハがため息をつきながら、サラダの山を積んでいる。
「ここのドレッシングおいしいのよ。おかわり確定」
「野菜の量でカロリー帳消し理論か?」
「タマキ、それ以上言うと皿増やすわよ」
「すみません」
食堂の奥では、1年生組のカオスが進行中だった。
「ねぇ見て見て! このラム肉ハート型になった!」
「それ心じゃなくて脂だよ~!」
メグミは相変わらずマイペースに麦茶を飲みながら、笑いに巻き込まれている。
フユミは少し離れた席で、静かにジンギスカンをつついていた。
目が合うと、少しだけ笑ってくれる。
……昨日より、ずっと自然な笑顔だった。
◇
夕食後、風呂タイムへ。
研修所の浴場は広く、男女それぞれである。
リン先輩のありがたい一言。
「女子風呂を覗いた男子は歩いて帰れ。なあに、片道200キロ程度だし、ただの山道だ。死なん」
それで死なないのはリン先輩だけです。
ひととおり男湯で騒いで脱衣所を出ると、ちょうど女子組が入るところだった。
ちなみに俺は入浴中に拳骨を食らっている。
流石にお風呂で欠伸するのは許してほしかった。
ナツキがタオルを肩にかけ、にやっと笑う。
「おかえり♡」
「……こえぇ」
「大丈夫♡中覗かないでね♡」
「しません」
「信じてないけど♡」
フユミは横で苦笑していた。
「……先輩方、元気ですね」
「元気というより野生」
女子風呂は女子風呂で、カオスが繰り広げられていたらしい。
そんな風呂上がり、アキハがタオルドライしながら言う。
「夜は自由時間よ。湖見に行く人、トランプする人、寝落ちする人、各自ご自由に」
「寝落ち希望~」
「即答すな」
マシロ先輩が勢いよく近寄ってきた。
「タマキくん!一局だけUNOしよ!?」
「また負けたら変な罰ゲームするやつですか?」
「もちろん、負けたらお姉ちゃんとハグ!!」
「ま、マシロ!?な、なんで私が!?」
マヨイ先輩とハグ!?
罰ゲームどころか超ご褒美じゃねぇか!!
「こ……ことわり、ます!」
「つまんなーい!」
つまんないとはなんだ。
こちとら理性を総動員してるんだぞ。
「た、タマキくん、私とハグ嫌なの…?」
「ハグはめっちゃしたいですけど、罰ゲーム扱いは嫌です!」
マヨイ先輩の哀しそうな声に、理性軍が敗北しそうになるが、かろうじて耐える。
えらいぞ、俺。
ナツキとイズミが爆笑しているのが視界の隅に映る。
覚えとけよ。
◇
合宿所の外は、すっかり夜だった。
空は雲ひとつなく、星がびっしり。
「……タマキさん」
声に振り向くと、フユミが立っていた。
薄いカーディガンを羽織っている。
「本当に外にいてびっくりしました」
「誰かに言われたのか?」
「はい、ナツキさんが
『タマキは多分湖のベンチにいるよ。こういう時は悩める迷い子がいないか見張ってるから』って」
「悩める迷い子ってなんだよ」
フユミは小さく笑う。
並んで歩く。
湖畔の遊歩道は、外灯の明かりがところどころ切れている。
そのせいで、手を伸ばせば星を掬えそうに感じる。
「わぁ……」
フユミが小さく息をのむ。
湖面に反射した星の光が、まるで空と地面を逆にしたみたいに瞬いていた。
「……きれいですね」
「北海道は、空気が澄んでるからな」
「ふふっ、それはありますね」
「……みんな、まだロビーで騒いでますかね」
「騒いでるだろうな。イズミとシンジがUNO大会やってる」
「やっぱり」
フユミが苦笑する。
「勝った人、なにかもらえるんですか?」
「勝った人が翌朝早起きして、班点呼担当」
「罰ゲームじゃないですかそれ」
「うん」
小さく笑い合ってから、ふと沈黙が落ちた。
夜風が通り抜け、髪が頬をかすめる。
フユミがその髪を耳にかけながら、ぽつり。
「……こうやって、外で誰かと並んで歩くの、久しぶりかもしれません」
「看護学科って忙しいもんな」
「それもありますけど……なんか、あんまり“気楽に歩ける相手”がいなかったというか」
「気楽?」
「はい。会話しなくても変じゃない、そういう距離感って、貴重なんですよ」
「……」
その言葉に、少しだけ胸の奥が温かくなる。
沈黙を怖がらないタイプ。
だからこそ、言葉がまっすぐ届く。
微かに震えたように見えたフユミに上着を脱いで肩にかけようとしたが、フユミが慌てて手を振る。
「だ、大丈夫です! ほんとに!」
「別に変な意味じゃねえよ」
「わかってますけど……なんか、そういうの、慣れてなくて」
「真面目だな」
「看護学科ですから」
「関係あるのか、それ」
「あるんです。たぶん」
ふん、と主張する。
昼よりも、ずっと柔らかい表情だった。
合宿所から聞こえる誰かが笑っている声。
それを聞きながら、フユミがぽつり。
「……ナツキさん、すごい人ですよね」
「ん?」
「同じ看護学科の先輩ですが、なんていうか、誰とでも明るく話せて、雰囲気を変えられるというか」
「まあ、あいつはプロ級だからな」
「すごいなって思う反面……私、あんなふうにはできないなって」
「比べる必要ないだろ」
「でも、ちょっと羨ましいんです」
湖面に映る光が揺れ、彼女の表情がやわらかく映った。
「……あの人みたいに誰かを励ませたらって、思うときがあるんです」
「フユミは、“励ます”より“寄り添う”タイプなんじゃないかな」
「……寄り添う」
「“寄り添う”ってのも、誰にでもできることではない、と俺は思うよ」
「……そうかもしれません」
その一言で、彼女の頬が少しだけ赤くなる。
「この合宿、楽しかったです」
「そりゃ良かった」
「でも、……人と関わるの、まだ慣れなくて」
「慣れないままでいいと思うぞ」
「え?」
「無理に慣れるより、自分のペースで話してくれた方が、俺は嬉しい」
フユミは小さく息を吐いた。
夜気に混ざって、髪が少しだけ揺れる。
「……そういうところ、優しいですね」
「いや、単に俺が人付き合いが下手なだけだよ」
「……タマキ先輩って、どうしてこのサークルに入ったんですか?」
「ん?」
「仕事、すごく慣れてる感じがするので」
「入試の日に、リン先輩を見て、“かっこいいな”って思ったから。…本人には内緒な?」
「それで二年も続けてるんですね」
「まぁな。人に頼られるの、悪くないし」
「……なんか、意外です」
「そんなに意外かなぁ」
これでも、よく恋愛相談やら人生相談を受けるんだが、そんなに頼りなく見えるだろうか。
星を見上げながら、フユミが小さく続けた。
「でも、ちょっとわかる気がします。……私も、誰かの“役に立ちたい”って思って看護学科を選んだので」
「いい動機だ」
「……でも、たまに思うんです。
本当に“役に立ってる”のかって。空回りしてばかりで」
言葉が夜に溶けていく。
俺は少し考えて、空を見たまま答えた。
「空回りしてるって気づける人は、たぶん大丈夫だよ」
「え?」
「本当にダメなやつは、自分が空回りしてることにも気づかない」
「……そんな、単純なものですか?」
「単純だよ。俺が昔、気づいていなかったからな」
フユミが横顔を見つめてくる。
「……今は?」
「今は、“気づけたらマシ”くらい」
「……ふふ。なるほど」
「……あの、タマキさん」
「ん?」
「今日、ありがとうございました」
「いや、何もしてないけど」
「でも、タマキさんとこうして話してると、ちょっとだけ安心します」
そう言って、彼女は小さく、柔らかく、ふにゃっと笑った。
その笑顔からは、猫の鎧も湖に溶けてしまったように見えた。




