窯の火は消えず
**序章:平穏なる日々への弔鐘**
**帝国暦853年 春一番の月**
我が名はエーリヒ・シュルツ。帝国の首都ヴァルハラで、祖父の代から続く小さなパン屋を営んでいる。今年で五十五歳になった。この歳になると、人生の大きな荒波はもう経験することもないだろうと、どこかでのんびり構えていたものだ。毎朝、夜明け前に起き出し、妻のヒルダが用意してくれた熱い麦茶をすすりながら窯に火を入れる。小麦粉と酵母の香りが店に満ちる頃、一人息子のカールが二階から降りてきて、大きなあくびをしながら手伝いを始める。十七歳になる娘のアンナは、そんな兄をからかいながらテーブルに朝食の皿を並べる。それが私の、ヴァルキア神聖帝国に生きる一市民としての、ありふれた、そして何よりも代えがたい日常だった。
この頃、街では東の隣国、パンドーラ魔法王国との関係悪化を伝える新聞記事が目につくようになった。酒場では連日、威勢のいい男たちがパンドーラの傲慢さを罵り、帝国の威信を示すべきだと息巻いている。曰く、パンドーラの連中は、自らの魔法の力を過信し、帝国が長年維持してきた大陸の秩序を乱そうとしている、と。曰く、彼らの研究する魔法は神の摂理に反する邪悪なものであり、神聖帝国としてこれを断じて許すわけにはいかない、と。
正直なところ、私にはそんな難しい国家間の駆け引きなど分かりはしない。ただ、店の常連である退役軍人のハンス老が「戦争なんてものは、始めるのは簡単だが、終わらせるのは地獄だ」と、手にしたエール杯を眺めながら呟いていた言葉だけが、妙に心に引っかかっていた。
しかし、世間の空気は日増しに好戦的なものへと傾いていった。皇帝陛下自らがラジオを通じて国民に団結を呼びかけ、帝国の正義と栄光を謳い上げた日、ヴァルハラの広場は熱狂的な歓声で埋め尽くされた。まるで祭りの前夜のような高揚感が、この古き都を支配していた。誰もが、世界最大の国土と人口を誇る我がヴァルキア神聖帝国が、小賢しい魔法使いの国などに敗れるはずがないと信じて疑わなかったのだ。
そんな熱気の中、我が家にも一枚の赤紙、召集令状が届いた。カールの名前が記されたそれを見た瞬間、私の心臓は氷水に浸されたように冷たくなった。二十歳になったばかりの、まだパン生地の捏ね方さえおぼつかない息子が、戦場へ行く。ヒルダは声もなく泣き崩れ、アンナは兄の腕にすがりついていた。
出発の日。カールは、無理に作った笑顔で「父さん、店を頼むよ。すぐにパンドーラの奴らを叩きのめして、帰ってくるから」と言った。私は、彼の肩を強く叩くことしかできなかった。「必ず、生きて帰ってこい。お前の焼くパンを、みんな待っているんだからな」。それが、絞り出した精一杯の言葉だった。
駅のプラットホームは、出征兵士とその家族でごった返していた。万歳三唱の嵐と、軍楽隊が演奏する勇ましい帝国国歌。その喧騒の中で、遠ざかっていく汽車の窓から懸命に手を振るカールの姿が、私の目に焼き付いて離れなかった。この時、私はまだ、この戦争がどれほど長く、そして過酷なものになるのか、想像することさえできずにいた。五年という歳月が、我々から何もかもを奪い去っていくことになるなど、知る由もなかったのだ。
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**第一章:始まりのファンファーレと不協和音**
**帝国暦853年 緑葉の月**
開戦の報は、首都ヴァルハラに勝利のファンファーレとして鳴り響いた。新聞の一面には「帝国の鉄槌、パンドーラ国境守備隊を粉砕!」「皇軍、破竹の進撃!」といった勇ましい見出しが躍る。人々は戦勝ムードに酔いしれ、街角では臨時ニュースが配られるたびに歓声が上がった。我がパン屋にも、客たちが興奮した面持ちでやってきては、「親父さん、聞いたかい!もうすぐパンドーラの首都に帝国旗が揚がるそうだぜ」「うちの息子も最前線で戦ってるんだ。誇らしいよ」と口々に語っていく。
私も、そんな彼らの熱気に当てられ、少しだけ安堵していた。この勢いならば、カールが危険な目に遭う前に、戦争は終わるかもしれない。そうであってほしい、と。数週間後、前線のカールから初めての手紙が届いた。検閲で所々が黒く塗りつぶされてはいたが、その文面は若々しい活気に満ちていた。
『父さん、母さん、アンナ、元気にしていますか。こちらは連戦連勝。パンドーラの兵士たちは魔法を使うと言っても、帝国の組織的な用兵の前では赤子同然です。先日も、敵の魔道士部隊を打ち破り、大きな武功を上げました。こちらの食事は少し固い乾パンばかりですが、父さんの焼くフワフワの白パンを思い出しながら頑張っています。次の休みには、必ずや戦功を立てて帰ります』
その手紙を、ヒルダは何度も何度も読み返し、涙ぐんでいた。私は、その手紙を店の壁に飾り、客たちに自慢げに見せたものだ。
しかし、季節が夏から秋へと移ろう頃、首都の生活にも戦争の影が忍び寄り始めた。まず、パンの材料となる上質な小麦粉が手に入りにくくなった。軍への供出が最優先とされ、我々のような民間のパン屋に回ってくるのは、黒ずんだ質の悪いものばかりになったのだ。砂糖やバター、卵といった品々も、次第に配給制へと移行していった。私の店自慢だった、ふんわりと甘いクリームパンはもう作れない。棚に並ぶのは、ずっしりと重く、少し酸っぱい味のする黒パンばかりになった。客たちの顔からも、当初の熱狂は消え、日々の生活への不安が滲み出していた。
冬が来る頃には、新聞の論調にも微妙な変化が見え始めていた。連戦連勝の報道は変わらないものの、記事の片隅に「パンドーラ魔法王国が誇る七人の国家戦略級魔道士」に関する記述が現れ始めたのだ。それは、一人で一個師団に匹敵する力を持つという、にわかには信じがたい存在だった。彼らが前線に投入されれば、戦況は一変する可能性がある、と。人々は、その不気味な噂に、言いようのない不安を感じ始めていた。
ある雪の降る夜、店じまいをした後で、私は一人、古い新聞を読み返していた。そこには、開戦前に皇帝陛下を護衛する二人の近衛兵の姿が写真付きで紹介されていた。一人は、ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン卿。二十代の若さでありながら帝国最高の剣士と謳われる、絵に描いたような好青年。もう一人は、アルベリッヒ・ヴァイスマン翁。九十歳を超える高齢ながら、その魔力は計り知れないとされる伝説的な大魔法使い。この記事は、帝国の圧倒的な力を国民に示すためのものだったのだろう。この二人さえいれば、どんな敵も恐るるに足らず、と。
だが、今、この記事を読むと、別の感情が湧き上がってくる。たった七人の魔道士の存在が、この大帝国を揺るがし始めている。だとすれば、帝国最強のこの二人は、一体どこで何をしているのだろうか。そんな疑問が、冷たい冬の空気と共に、私の心に重くのしかかるのだった。
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**第二章:泥沼と迫りくる絶望**
**帝国暦854年 灼熱の月**
戦争は二年目に入った。誰もが予想しなかった長期戦の様相を呈していた。東部国境の戦線は完全に膠着し、一進一退の攻防が延々と続いているという。新聞は相変わらず帝国の優勢を伝えているが、その行間からは焦りのようなものが透けて見えるようになった。特に、パンドーラの国家戦略級魔道士の脅威は、もはや噂話の域を超え、具体的な被害として報じられるようになっていた。曰く、一人の魔道士が放った大魔法によって、帝国軍の一個旅団が地図から消滅した。曰く、炎の魔道士が前線都市を一夜にして焦土に変えた、と。
首都ヴァルハラにも、その恐怖はじわじわと伝播していた。夜間の灯火管制が始まり、街は深い闇に沈むようになった。時折、夜空の彼方が不気味な光で明滅することがあり、そのたびに人々は「パンドーラの魔法攻撃ではないか」と囁き合った。
そして何より、戦争の現実を我々に突きつけたのは、前線から送還されてくる負傷兵たちの姿だった。中央駅には、担架で運ばれる者、松葉杖をつく者、腕や足を失った者たちが、次々と降り立ってくる。彼らの目は皆、虚ろで、生気がなかった。あの開戦の日に、勇ましく故郷を旅立っていった若者たちの面影はどこにもない。私は何度か、負傷兵たちへの慰問として、店の固い黒パンを届けに駅へ足を運んだ。そこで見た光景は、私の心を深く抉った。魔法による火傷で全身の皮膚が爛れた兵士、仲間の名前を呼びながらうわ言を繰り返す少年兵。彼らは、新聞が語る「帝国の英雄」の姿とはあまりにもかけ離れていた。
カールからの手紙も、この頃から途絶えがちになった。たまに届く便りも、以前のような活気はなく、短い文章の中に言いようのない疲弊と恐怖が滲んでいた。
『…今日も多くの仲間が死んだ。敵の魔法は、まるで天災のようだ。祈ることしかできない。父さんのパンが食べたい。それだけを考えている…』
ヒルダは、その手紙を握りしめ、毎晩のように神に祈りを捧げていた。私も、窯の前でパン生地を捏ねながら、息子の無事を祈ることしかできなかった。パンを作っている時だけは、恐ろしい現実を忘れられるような気がした。
物資の統制はさらに厳しくなり、まともな食事を口にすることも難しくなった。配給されるのは、カビ臭い乾燥芋と、豆の殻を混ぜた不味い粉ばかり。人々は栄養失調で顔色が悪く、街からは活気が失われていた。そんな中で、帝国最強と謳われた二人の近衛兵の噂が、再び人々の口にのぼるようになった。
若き剣士、ジークフリート卿は、神出鬼没に最前線に現れ、その驚異的な剣技で幾度となく窮地を救っているという。彼の剣は魔法障壁さえ切り裂き、百人の魔道士に取り囲まれても、涼しい顔で突破した、といった英雄譚が、まるでおとぎ話のように語られた。
一方、老魔法使いのアルベリッヒ翁については、ほとんど情報がなかった。宮殿の奥深くで、パンドーラの大魔法から帝都を守るための巨大な防護魔法を構築しているのだとか、あるいは、敵の国家戦略級魔道士に対抗するための、究極魔法を研究しているのだとか、様々な憶測が飛び交っていた。
彼らの存在は、暗い沼の底に沈んでいくような日々の生活の中で、人々がすがりつく最後の、そして唯一の光だった。だが、その光はあまりにも遠く、我々の足元を照らしてはくれなかった。絶望は、すぐそこまで迫っていたのだ。
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**第三章:二つの戦線、砕かれた日常**
**帝国暦855年 落葉の月**
帝国にとって、そして我が家にとって、悪夢のような年が始まった。春先、大陸中西部に位置するリーム王国が、突如として我が帝国に対し宣戦を布告。パンドーラとの協定に基づき、西側から帝国領内へ侵攻を開始したのだ。漁夫の利を狙った、卑劣極まりない裏切りだった。
このニュースは、帝国全土を絶望の淵に叩き落とした。東のパンドーラ、西のリーム。帝国は、二つの強大な敵を同時に相手にするという、絶望的な二正面作戦を強いられることになったのだ。皇帝陛下は再びラジオで国民の奮起を促したが、その声には以前のような力強さはなく、悲痛な響きさえ感じられた。
街の男たちは、年齢を問わず次々と召集されていった。私のパン屋の隣で小さな仕立て屋を営んでいた友人のクラウスも、五十歳を過ぎていたにもかかわらず、銃を取って西の戦線へと送られていった。もうパンを買いに来る馴染みの顔も、日に日に減っていく。
そして、その年の夏。ついに悪夢は現実のものとなった。首都ヴァルハラが、パンドーラの魔法による初めての本格的な空襲を受けたのだ。夜半、けたたましい警報のサイレンが鳴り響き、私はヒルダとアンナの手を引いて、必死で公共の防空壕へと走った。地響きと共に、遠くで轟音が何度も何度も炸裂する。それは、雷鳴などとは比べ物にならない、腹の底から内臓を揺さぶられるような破壊の音だった。人々は暗く湿った防空壕の中で、身を寄せ合い、ただひたすら震えていた。赤ん坊の泣き叫ぶ声、大人たちの押し殺した嗚咽、そして絶え間なく続く爆音。それはまさに、地獄の光景だった。
夜が明けて、地上へと戻った我々が目にしたのは、変わり果てたヴァルハラの姿だった。街のあちこちから黒煙が立ち上り、見慣れた建物が瓦礫の山と化している。石畳の道は大きく抉られ、そこかしこに正体不明の残骸が転がっていた。幸い、私の店と家は直接の被害を免れたが、ほんの二軒先の肉屋は跡形もなく吹き飛んでいた。店主の家族とは、昨日の昼間も挨拶を交わしたばかりだった。
この日を境に、私たちの日常は完全に破壊された。空襲は夜ごと繰り返されるようになり、私たちは毎晩、防空壕で眠れぬ夜を過ごした。昼間は瓦礫の撤去作業に駆り出され、配給の列に何時間も並ぶ。そんな生活が続いたある日、娘のアンナにも動員令状が届いた。軍需工場で、魔法爆弾の部品を作る仕事だという。まだ十八歳の娘を、危険な工場へ送り出さねばならない。ヒルダは再び泣き崩れ、私はただ、娘の小さな背中を見送ることしかできなかった。家族が、ばらばらになっていく。戦争は、容赦なく私たちから全てを奪い去っていく。
そんな絶望的な状況の中、一つのニュースが、乾ききった我々の心に一滴の希望をもたらした。西部戦線に派遣された皇帝近衛のジークフリート卿が、リーム王国軍の主力部隊をたった一人で食い止めた、というのだ。新聞によれば、彼は数万の敵軍の前に単騎で立ちはだかり、三日三晩、文字通り不眠不休で剣を振るい続け、敵の将軍を討ち取ったのだという。にわかには信じがたい話だったが、人々はこの英雄譚に熱狂した。ジークフリート卿がいれば、西の脅威はなんとかなるかもしれない。ならば、我々は東のパンドーラに全力を注ぐことができる。
その頃からだろうか。もう一人の近衛、アルベリッヒ翁の不可解な噂が、まことしやかに囁かれ始めたのは。翁は、首都の地下深くで、帝国全土の地脈を操り、敵の魔法攻撃の威力を減衰させているのだ、と。ヴァルハラがこれほどの空襲を受けながらも、まだ壊滅を免れているのは、全て翁の力によるものなのだ、と。
真偽は定かではない。しかし、人々は祈るようにその噂を信じた。若き剣の英雄と、老練なる魔法の賢者。帝国の二本の柱が、この傾きかけた国を必死に支えている。私たちは、その二つの光だけを頼りに、瓦礫の中での日々を耐え忍んでいた。
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**第四章:瓦礫の中の祈り**
**帝国暦856年 氷雪の月**
戦争は四年目を迎えた。ヴァルハラの街は、もはやかつての美しい都の面影をとどめていなかった。度重なる空襲で建物の半数以上が破壊され、人々は瓦礫の隙間で息を潜めるように暮らしている。冬の寒さが、食糧難にあえぐ我々の体に容赦なく突き刺さった。配給される食料は、もはや人間の食べるものとは言えない代物だった。木の皮を混ぜたパン、草の根を煮込んだだけのスープ。人々は飢え、そして病んでいった。
それでも、私はパン屋を続けることにこだわった。いや、パンと呼べるものですらなかったかもしれない。配給された粗末な黒い粉を水でこね、焼いただけの固い塊だ。だが、私は窯の火を絶やしたくなかった。火が消えることは、希望が消えることだと信じていたからだ。痩せこけた人々が、わずかな配給切符を握りしめて私の店に並ぶ。彼らにその黒い塊を手渡す時、私はせめてもの思いで「熱いうちにどうぞ」と声をかける。それが、私に残された最後の誇りだった。
闇市が横行し、法外な値段で食料や薬が取引されていた。真面目に生きる者ほど飢え、狡猾な者だけが肥え太っていく。世の中の仕組みそのものが、歪んでしまっていた。西武戦線に送られた友人クラウスの戦死公報が届いたのは、そんな凍えるような冬の日だった。彼の妻は、ただ一言「あんなに優しい人が、なぜ」と呟き、涙も流さなかった。悲しむ気力さえ、人々から奪われていたのだ。
カールからの手紙は、もう一年以上も届いていない。東部戦線は、パンドーラの国家戦略級魔道士の投入により、帝国軍が後退を続けているという。息子が生きているのか、死んでいるのか、それすらも分からない。ヒルダはすっかり口数も減り、ただ虚ろな目で窓の外を眺めていることが多くなった。工場へ通うアンナも、日に日にやつれ、無口になっていく。笑い声が絶えなかった我が家は、今は静まり返っている。
出口のない暗闇の中を、ただひたすら歩き続けているような日々だった。誰もが希望を失いかけていた。そんな時、一つの信じがたい噂が、凍てついた首都を駆け巡った。
東部戦線で、帝国軍を壊滅寸前にまで追い込んでいたパンドーラの国家戦略級魔道士「灼熱の魔女」が、たった一人の帝国魔道士によって討ち取られた、というのだ。その帝国魔道士こそ、近衛のアルベリッヒ・ヴァイスマン翁である、と。
噂によれば、翁は単身で敵陣深くに侵入し、「灼熱の魔女」と一対一の魔法戦を演じたという。空が裂け、大地が揺らぐほどの壮絶な戦いの末、翁は自らの命と引き換えに、敵の大魔道士を完全に消滅させた、と。しかし、その直後、死んだはずの翁が何事もなかったかのように首都の宮殿に姿を現したというのだ。
人々は半信半疑ながらも、その話に僅かな光を見出した。九十を超える老人が、国家の危機にその身を投げ出し、そして奇跡の生還を遂げた。それは、神がまだこの帝国を見捨ててはいない証拠ではないか。
この噂が流れてから、不思議なことに、ヴァルハラへの空襲の威力が目に見えて弱まった。偶然かもしれない。だが、人々は「アルベリッヒ様が、我々を守ってくださっているのだ」と信じた。私も、窯の前で黒い塊を焼きながら、西の若き英雄と、東の老賢者に、ただただ祈りを捧げる毎日だった。どうか、この国を、そして私の家族を守ってください、と。瓦礫の中で捧げるその祈りだけが、私を生かしていた。
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**第五章:首都防衛と苦き勝利の味**
**帝国暦857年 血染めの月**
五年目の夏。ついに、その日が来た。東部戦線を突破したパンドーラ魔法王国の主力軍が、帝都ヴァルハラの喉元にまで迫ってきたのだ。防衛線を次々と食い破り、その先鋒は首都からわずか三十キロの地点にまで到達した。ヴァルハラは完全に包囲され、我々は袋のネズミとなった。
「首都防衛」の布告が発令され、もはや兵士として戦える者はほとんど残っていなかったため、十四歳から六十歳までの全ての男子に召集令状が配られた。私の元にも、ついにその紙が届いた。五十五歳のパン屋が、錆びついた旧式の銃を手に、最新の魔法を操る敵と戦えというのだ。死ね、と言われているのと同じだった。ヒルダは私の腕にすがりついて泣いたが、私は不思議と冷静だった。もう、なるようにしかならない。ただ、カールと同じ場所へ行くだけだ。そう思った。
首都の雰囲気は、これまでの絶望とは質の違う、異様な緊張感と悲壮な覚悟に包まれていた。人々はバリケードを築き、火炎瓶を用意し、なけなしの食料を分け合った。誰もが、ここで死ぬことを覚悟していた。
決戦の前夜、皇帝陛下による最後のラジオ演説が流れた。それは、勝利を煽る勇ましいものではなく、国民への謝罪と、帝国臣民としての誇りを最後まで失わないでほしいという、悲痛な願いだった。
そして、運命の朝。地平線の彼方から、パンドーラ軍が土煙を上げて迫ってくるのが見えた。その先頭には、禍々しいオーラを放つ数人の人影があった。残りの国家戦略級魔道士たちだ。誰もが死を覚悟した、その時だった。
城門が開き、二つの影が現れた。
一人は、純白の鎧に身を包んだ、若き剣士ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン卿。その手には、青白い光を放つ長剣が握られている。西部戦線を安定させた英雄が、首都の危機に駆けつけたのだ。
もう一人は、質素なローブを羽織った、小柄な老人。アルベリッヒ・ヴァイスマン翁だった。その姿はあまりにも頼りなく、戦場の雰囲気にはそぐわなかった。
だが、二人が前線に立った瞬間、空気が変わった。ジークフリート卿は、馬さえ使わず、自らの足で大地を蹴り、敵軍へと突撃していった。その速さは人の目では追えず、まるで一筋の閃光だった。彼は、降り注ぐ魔法の雨を紙一重で避け、あるいは剣で切り払い、敵兵を次々と斬り伏せていく。その姿は、まさに神話の勇者そのものだった。
一方、アルベリッヒ翁は、その場から一歩も動かなかった。ただ静かに杖を構え、何事かを呟いている。すると、敵の国家戦略級魔道士が放った、山をも砕くほどの大魔法が、まるで透明な壁にぶつかったかのように、ヴァルハラの城壁の手前で霧散してしまったのだ。翁が一人で、首都全体を覆う巨大な防護障壁を展開しているのだった。
若き英雄が敵を斬り、老賢者が都を守る。その光景は、我々首都の民の目に、永遠に焼き付くことになった。二人の獅子奮迅の活躍に、我々も奮い立った。老人たちも、少年たちも、銃を手に、瓦礫の影から敵を撃った。
戦いは三日三晩続いた。そして、四日目の朝、信じられない報せが舞い込んできた。皇帝陛下が密かに温存していた最後の切り札である精鋭部隊が、首都防衛戦で敵主力を引きつけている隙に、敵の守りが手薄になったパンドーラ本国を奇襲。首都アヴァロンを陥落させた、というのだ。
敵本国の首都陥落の報に、パンドーラ軍は完全に統率を失い、撤退を始めた。長かった、本当に長かった戦争が終わった瞬間だった。
ヴァルハラの街は、歓喜の渦に包まれた。人々は抱き合い、涙を流し、生きていることを喜び合った。しかし、私の心は、なぜか空っぽだった。勝利の味は、あまりにも苦く、そして虚しかった。目の前には、破壊し尽くされた街と、数えきれないほどの死体が転がっている。これが、我々が求めた勝利の姿だというのか。私の手には、まだ一度も火を噴くことのなかった、冷たい銃の感触だけが残っていた。
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**終章:灰燼の中から**
**帝国暦858年 新緑の月**
戦争は終わった。パンドーラ魔法王国との間には屈辱的な内容を含む講和条約が、そしてリーム王国との間には賠償を目的とした停戦協定が結ばれた。帝国は勝利した。しかし、それはあまりにも多くの犠牲の上に成り立った、「苦渋の勝利」という名の敗北に近いものだった。
ヴァルハラの街には、少しずつだが復興の槌音が響き始めた。人々は瓦礫を片付け、家を建て直し、畑を耕し始めた。しかし、街から、そして人々から失われたものは、あまりにも大きすぎた。誰もが家族や友人を失い、その心には癒えることのない深い傷跡が刻まれていた。
戦争が終わって数ヶ月が経ったある日。一人の軍人が、私の店を訪れた。その手には、一つの小さな木箱が抱えられていた。私は、その箱が何を意味するのかを、一目で理解した。
カールの、戦死公報だった。
公式な記録によれば、カールは戦争の最後の年、東部戦線の激戦地で、敵の魔法攻撃から仲間をかばい、命を落としたのだという。箱の中には、彼の認識票と、私に宛てた、書かれることのなかった最後の手紙の断片が入っていた。
『父さん…パンが…たべ…』
その文字を見た瞬間、私の涙腺は完全に壊れてしまった。私は店の床に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。ヒルダが、黙って私の背中をさすってくれていた。もう、涙は枯れたと思っていたのに。息子が帰りたかったこの場所に、私はいる。息子が食べたがっていたパンを、私は焼くことができる。なのに、肝心の息子は、もうどこにもいないのだ。
数週間後、首都の中央広場で、戦勝を記念する軍事パレードが大々的に行われた。帝国の危機を救った英雄、ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン卿の姿を一目見ようと、広場は民衆で埋め尽くされていた。純白の鎧を身にまとった彼は、馬上から静かに人々の歓声に応えていた。その顔に、英雄の驕りはなく、ただ深い悲しみが湛えられているように見えたのは、私の気のせいだろうか。
パレードのどこを探しても、もう一人の英雄、アルベリッヒ・ヴァイスマン翁の姿はなかった。噂では、翁は終戦後、全ての栄誉を辞退し、誰にも行き先を告げずに姿を消したのだという。歴史の表舞台に立つことを望まず、ただ静かに自らの役目を終えたのだ。
私は、その日、決意した。この灰燼の中から、もう一度、私のパン屋を再建しよう、と。それは、金のためではない。名誉のためでもない。ただ、戦争で死んでいった全ての者たち、そして何よりも、私の息子カールが生きたかったこの世界で、ささやかな日常の営みを続けることが、生き残った私の責務だと思ったからだ。
私は、この手記をここに書き終える。これは、ヴァルキア神聖帝国という大国が経験した大戦争の記録などではない。ただのしがないパン屋の親父が、その五年間の地獄の中で何を見て、何を感じ、何を失ったのかを書き記した、個人的な記録に過ぎない。
もし、遠い未来に、誰かがこの手記を読むことがあるのなら、一つだけ伝えたいことがある。
戦争は、英雄の物語でも、国家の栄光でもない。それは、私の店で毎日焼かれていた、あの何の変哲もないクリームパンのような、ささやかで、温かく、そしてかけがえのない日常を、無慈悲に奪い去っていく、ただそれだけの行為なのだ、と。
窯に、新しい火を入れるとしよう。アンナが、工場から解放され、久しぶりに店の手伝いをしてくれるという。ヒルダも、少しずつだが笑顔を取り戻してきた。
瓦礫の街ヴァルハラに、今日もパンの焼ける匂いが立ち上る。それが、私の戦いだ。そして、平和への、ささやかな祈りなのだ。