D子の場合
D子は母親に「ここで待っておくように。」と言われて待っていた。
母親が戻って来るのを待っていた。
商店街で人がいっぱい行き交う中、離れて行った母親の後姿。
それが、D子が母親を見た最後だった。
捨てた理由は分からない。
一人泣いている幼い女の子を見ていた店主夫婦。
泣いている女の子の母親らしき人物は現れなかった。
何時間も経ってから、店主夫婦が声を掛けた。
「どうしたんだい?」
「お母さんは?」
何を聞いても答えは「お母さぁん。」と母を呼ぶ泣き声だけだった。
「捨て子?」と思った店主夫婦が交番に電話をして、交番から警察官が到着した。
警察官に連れられて去って行く時も泣いていた。
D子5歳の時のことだった。
5歳までD子を育てた母親がどんな経緯で子どもを捨てたのかは全く分からない。
ただ、経済的な困窮にしても、商店街と言えども施設の前ではない場所で捨てたことは、「どんな目に遭っても良い。」と思ったのではないかと私は感じた。
それを夫に言うと、夫は「違うよ。施設がある場所さえ分からなかったんだと思うよ。」と言った。
そうかもしれない。
どこに教護院があるか知っている人は皆無かもしれない。
ただ、危険極まりない。
D子が誰か他の人に見つけられてしまって連れ去られていたらと思うと、胸が張り裂けそうになった。
誘拐されなくて本当に良かった……と思ったのだ。
D子が入所した時、お風呂に入れて、ご飯を食べさせた。
泣いているまま……。
出る言葉は「お母さん。」だけだった。
警察官がようやく聞き出したのは名前と年齢だけだった。
「D子。………5歳。」
それだけしか言えなかった。
親の名前も住所も……「分かんない。」と泣いた。
私たちは、もう聞かなかった。
覚えてないのではなく、知らない!のだから……。
教えて貰ってないのだから……。
D子は常に母親を求めていた。
「迎えに来てくれるはずだから、あの場所に居ないと……。」と思っていた。
「捨てられたのではない。待っているように言われたから…捨てられてはいない。」と思っていた。
思っていたから、後姿の女性を見ると追いかけてしまう。
「お母さん。」と追いかけてしまう。
追いかけて追いついた時、その顔を見て違うと分かると落胆した。
そのうちに、母親の顔が記憶から段々と薄くなっていったようだった。
いつしかD子は後姿の女性を追いかけなくなった。
そして、迎えに来てくれると信じていた母親は迎えに来ないままだった。
迎えに来て貰えないまま、D子は教護院を出る年齢になった。
教護院を出てから、18歳でD子は結婚した。
工場で知り合った男性が結婚相手だった。
結婚して直ぐに子宝に恵まれたD子は教護院に来た。
「おじさん、おばさん。 私、怖い。」
「何が怖いのかな?」
「子どもを……育てられるのかな? 私が……。」
「育てられるわよ。大丈夫!」
「だって………私のお母さん……私を捨てた。
私、同じようになるかもしれない。」
そう言ってD子は泣き出した。
「D子ちゃん。大丈夫だ。大丈夫だよ。
ここで育った子らは皆、親と暮らせないまま卒業して……
そして、家庭を持って子どもを育てているよ。
皆、君と同じなんだよ。
君と同じ親に捨てられた子が君と似た不安がありながら懸命に育てているよ。
立派に育て上げた人もいるんだよ。
だから、大丈夫。大丈夫だよ。
D子なら子どもの気持ちに寄り添うことが出来るよ。」
「そうよ。大丈夫よ。
それよりも、そんなに泣いてたらお腹の中の赤ちゃんが………
『生まれて来てもいいのかなぁ~。』って不安に思うかもよ。
お腹の子に障ったら……ね。
明るい未来が待ってると思って欲しいな。」
「…………うん。」
「少しでも不安になったら、いつでもおいで。
ここで、話をすればいいからね。」
「……うん。」
「身体にだけは気を付けてね。」
「うん。」
「D子。一人じゃないだろう?
君には君を愛してくれるご主人が居る。
彼にも頼って……。
妻の不安を知らない夫は、きっと寂しいと思うよ。」
「……うん。分かった。」
「彼に話しても辛かったら……
ここは、いつでもD子の家なんだからね。
帰っておいで。辛くなったら……。」
「うん。……ありがとう。」
「今度は夫婦で来て欲しいなぁ……生まれたお子さんを連れてね。」
「うん。」
出産後はすぐに来てくれた。
夫婦で生まれて間もない子どもを連れて……。
D子は二児の母になり、元気に暮らしている。