終戦直後
私が夫と勤めていた教護院。
今は呼び方も変わって児童養護施設と呼ばれている。
教護院へ入所する子ども達は皆家庭に問題があった。
今はどうなのだろうか。
齢を重ねて夫とも死別し、今は一人で暮らしている私の所へ教護院の頃の子ども達が訪れてくれる。
子宝に恵まれなかった私たち夫婦にとって、この子らは子ども……いつからか、そう思えるようになっていた。
親に虐待されて捨てられた子ども達。
捨てられたと言い切れるのは、親が会いに来なかったからだ。
会いに来なかっただけではなかった。
どこにいるのかさえ分からない親も居た。
子どもに会いに来ない親は、子どもが教護院を出る時、出た後も知らん振りだ。
就職も親と話し合える状態ではない場合も多かった。
だから、私たち職員が決めたといっても過言ではなかった。
そして、本当に捨てられた子ども達も多かった。
繁華街で「ここで待つように」と親に言われて、待っても親が来なかった子。
乳飲み子の時に施設の前に捨てられていた子。
乳飲み子の時にどこかの家の前に捨てられていた子。
そして、そのような子らは昔からいた。
あの戦争が終わった後のことだった。
私は幼かったが「パンパン」と呼ばれている人が居たことだけは知っていた。
それが何を意味するのかは分からなかった。
売春をしている女性のことだと知ったのは随分後だった。
戦争が終わって、男性が少なくなった。
戦死した若者が多かったからだった。
それは若い女性の結婚が困難になったということだと今なら分かる。
当時は男女ともに仕事が無かったが、特に女性の仕事は今とは違って全く無かったと言っても過言ではない。
元々、無かったのである。
その終戦直後に日本政府が開設したのが、「慰安所」だったのである。
米軍兵のために開設された「慰安所」は、売春をさせる場所だった。
募集には「売春」をするとは書かれていなかったため、何をするのか分からずに応募して現実を知っても尚……やめる選択が無かった若い女性達。
男性との経験がない女性が多く、それを教えてから売春をさせていたそうだ。
そして、その女性達から産まれた子ども達がいた。
産まれた子らは肌が黒かったり、瞳が青かったり、髪が金色だったりした。
当時「あいの子」と呼ばれていた子らだった。
彼らの多くも母親に捨てられたのだ。