夫の願い
教護院に夫婦で入った頃、私は古くから居る職員達に虐められていた。
後から入って来た夫婦が施設長になったのだ。
それを許せなかったのだと思う。
男性が多かったが、まるで姑の嫁いびりだった。
箸の上げ下げに迄いちゃもんを付ける姑のようだった。
子ども達の話を聞くときに子どもの目線に合わせて身体を低くすると、「分かってない!」と大声で怒られた。
今も意味が分からない。
そんな日々で、子どもが私を拒否すると、職員達は大喜びだった。
子ども達が私たち夫婦に馴染むと私に対する文句が増えた。
私は嫌になってしまって「辞めたい。」と夫に告げた時、夫は「済まない。僕のせいで……。」と言った。
そして、「辞めるのは何時でも出来るから、今は入って来たばかりのA子が馴染む迄は一緒に居て欲しい。」と懇願された。
夫は私を先頭になって虐めていた職員を呼んだのだ。
そして、「これは行政が決めたことだ。」と告げ……。
「私と妻に不満があるのなら、直接、私に言うように!」
「出来る限りの努力を私はするが、妻にはその責務は無い。
今も充分に努力していると言い切れる。」
「君たちがしてきたことは叩くことで子どもを従わせることだ。
だが、それは間違いである。
間違いだと言えるのは私が大学で学んできたからだ。」
「夫婦での教護院で仕事をするのは、子ども達のためである。
それを決めたのは私ではない。ましてや妻ではないのだ。
行政が決めたことである。
君たちのことは子ども達への接し方を変えない限り報告をする。
行政に報告する。」
いつしか……古くからの職員達が少しずつ減っていった。
定年退職(50歳)もあったが、別の職場への異動もあった。
夫が施設内で起こったことの全てを行政に報告したからだった。
あれから、名称が変わって教護院は児童養護施設になった。
私たち夫婦は、その前に退職した。
夫が大学で教鞭を執ることになったからだった。
その後も施設には子どもが入ってきている。
その夫が亡くなって子宝に恵まれなかった私は一人になってしまった。
今も私はあの頃のことを思い出す。
「捨てる親が居ても、社会が育てればいいのだ!」が亡き夫の言葉だった。
「親が虐待しても、社会が包み込んで癒せればいいのだ!」も亡き夫の言葉だった。
もうすぐ私も夫の傍に行く日がやって来る。
出来れば、「寛容な社会」であって欲しいと切に願いながら残りの日々を一人で送っている。
どうか「優しい寛容な社会」で子ども達が生まれ育っていきますようにと……。




