第二十六話「私も人だから」2
今日は退院祝いにと隆ちゃんが式見先生の家に来て約束通り演奏を聞かせてくれる日。
病院で再会した日のことを思い返すと複雑な心境だった。
再会する日が来るなら、一緒に笑っていられたらよかった。
こんな私じゃ、隆ちゃんも気を遣って上手に笑えないだろう。
隆ちゃんを悲しませたくはなかったのに……、どうすれば、あの頃のように一緒に笑っていられるのだろう、もう、よく分からない。
お互い大人に近づいてしまって、気を遣い合う関係になってしまった時点で、もう、昔のようには戻れないのかもしれない。
ネガティブな思考が流れるが、私は隆ちゃんの気持ちは大切にしたかった。
だから、今日は出来るだけ笑っていようと思った。
式見
「隆之介君が来てくれたわよ」
式見先生の声が聞こえてようやく私は隆ちゃんが来ていることに気づいた。私は式見先生に言われるまで気付けなかったことを、ちょっと嫌になりながら、それでも隆ちゃんと会えるのは嬉しいから、出来るだけ気を遣わないように笑顔でいようと思いながら、部屋を出て慌てて階段を降りて行った。
ピアノの置いてある広いリビングに出ると、隆ちゃんが花束を持ってそこに立っていた。
隆之介
「あっ、晶ちゃん、退院おめでとう」
私の姿に気付いた隆ちゃんが声を出して、そのまま持ってきてくれた大きな花束を私は受け取る。
身長が高くて、4年前より男らしくなっていて自然と胸がドキドキした。
声変わりもしているし、雰囲気が違って見えるけど、恥ずかしがりながらも顔色を窺うと確かに4年前の面影があってはっきりと隆ちゃんなのだと分かる。
隆ちゃんも私のことを見て、同じように変わったところ、変わってないところを感じているのだろうけど、やっぱり目の前にすると緊張してしまう。
それから、三人でしばらくお茶をして寛いだ後、隆ちゃんがピアノを演奏してくれるということになった。
私は広いリビングのソファーに座りながらタブレット端末を握る。
そして隆ちゃんがピアノの椅子に座り、その手をピアノに添える姿をドキドキしながら見ていた。
スラっとした体型ながら大きく長く伸びた手指、成長した彼の姿はピアニストそのものだった。
式見先生は気を遣ってくれたのか夕食の買い出しに行くといって、ちょっと前に家を出ていて、私と隆ちゃんは二人きりだった。
隆之介
「懐かしいね。このピアノも、この場所も、4年前と変わらない」
晶子
「“うん、でも、隆ちゃんは大人になった。こんなに大きくなって、不思議な気持ち”」
隆之介
「晶ちゃんも、綺麗になってビックリした」
お互いの視線が重なって微笑むとあの頃に戻ったかのようだった。
晶子
「“本当かな? そんなこといって、向こうで好きな人見つけたりしてない?”」
私は誉めてもらえたのが嬉しくて、少しからかいたくなって、文字を入力してすぐさま再生させた。
隆之介
「まさか、晶ちゃん以上の人なんていないさ。
それより、演奏聞いてくれる? 聞いてほしいんだ、再会を祝して」
晶子
「”うん、少しだけ深呼吸させて。私、本当にずっとクラシックを聴いてないの”」
私がそう伝えると、隆ちゃんはちゃんと待ってくれた。
不安はずっとあった、隆ちゃんの演奏を聞くことができるのは楽しみなことであっても。
クラシックを聴くのは怖くて、ピアノに触れるのはもっと怖くて、激しく呼吸が波打つように激しくなってしまうのだ。
震災の後遺症、恐怖心。
片耳の聞こえない、声も出せない私。
もしも、聞こえてくる音が私のイメージと違ったら……、イメージ通りに指が動かなかったら……、ピアノが私を拒絶してしまったら……、そんなことを考えると現実と向き合うのが億劫になった。
でも、隆ちゃんは私を救い出そうとしてる。
その強い想いは、ひしひしと感じるから、だから、私は逃げずに向き合う。
今日、ここで向き合わなければ本当にピアノと離れたままになってしまう。
そんなのは本当は嫌でたまらないのだ、ピアノはずっと寄り添ってくれていて、私の友達だから。
晶子
「“うん、もう大丈夫。隆ちゃんの気持ち、信じさせて……、お願い、私に聞かせて、隆ちゃんの成長した美しい旋律を”」
二人の呼吸が合わさるように、待ちに待った瞬間が訪れる。
隆之介
「じゃあ晶ちゃんのために、弾くね。聞いてください、————僕の演奏を」
まだ私は音楽を聴くのが怖いけど、信じてみたくなった。
”私のために”弾いてくれると言ってくれるのだ、こんなに嬉しいことはない。
二人だけの部屋に、隆ちゃんの奏でるメロディーがゆったりと流れる。
心に沁み行くように、その指先に込めた想いが痛いくらいに私に伝わってくる。
この貴重な時間に片耳しか聞こえないのは物足りないけど、それでも私はあっという間に成長した彼の演奏に聞き入ってしまって、彼の世界に引き込まれていった。
*
彼の、黒沢研二の演奏に私は驚いた。
演奏したのはラフマニノフの『ピアノ協奏曲第二番』であり、簡単に弾けるようなものではない。
このシーンも含め、演奏は全て録音したものを流すはずだった。
それがいつ変わったのか、彼は自分の指で鍵盤を叩き、録音したものが流れる前に演奏を開始していた。
一体何の心境の変化なのか、いや、そもそも練習していたのかと、驚きのあまり頭がぐちゃぐちゃになりそうになるが、それ以前に私は彼の演奏に晶子と同じような気持ちで聞き入ってしまっていた。
何のためのサプライズなのか、彼の意図はまるで分からない、それを考える余裕すら今はない。
だけど、幕が上がってしまった以上、私はこのまま脚本通りに役を続けるほかない。
私は改めて、この後のシーンの台詞を頭に思い浮かべながら、気を確かにして、引き続き演技を続けた。




