第二十五話「震災の記憶と」1
一年生の時のコンクールの時だ。毎年、傍目から見て残酷で残忍なオリジナル演劇をする学校があった。
当たり前のことだがその学校がコンクールで受賞するはずがなく、他校からも薄気味悪く見られ、血糊を多量に使用する姿から煙たがれていたわけだが、その学校の演劇部の生徒が言っていた。
”お前は入賞するために演劇をやっているのかと”
それを聞いた瞬間、俺も“極端なことを言っている”と思ったわけだが、彼が言うにはこういうことらしい。
俺たちは受賞するためにコンクールに出ているわけではない、お前たちのような人間には分からないかもしれないが、俺たちはコンクールに”自分たちの演劇を見せに”来ているんだ。
それは審査員に受けるようなもの、学生のする青春に相応しいような演劇をしようとするお前たちとは違う。俺たちは人に見せるための演劇をやっている。
演劇という形でこそ強烈に伝えられる人の葛藤、衝動、後悔。
人が生きていく上で目を伏せたくなるようなこと、だが、それもすべて人の行いが起こしたものだ。
―――――虚構に縛られたコンクールの受賞なんかに興味はない。
オリジナリティが失われては創作なんて呼べはしない、分かるだろう?
借り物で出来たものを上手に再現できたところで、そんなものに何の価値がある?
そこで生まれてくる新鮮なバリューなど存在しない。
だからこそ、自分たちで作り上げることに意味や価値がある。
現実と想像、その狭間にある人の思考の中に蔓延る残虐な部分、そこから目をそらさずにその残忍さを演劇として描くこと、演者として表現し、演じ切ること。それこそが俺たちが演じたい芸術だ。
檻の中で死んでいるうさぎの姿が想像できるか?
首を吊った女の気持ちが想像できるか?
死刑囚がどんな最後を遂げたか……、果たしてそれは妥当な処遇だったか……。
彼がどこからドラッグを調達し、どんな妄想に駆られていったか。
どれも普通に生きていれば関わり合う体験の枠を外れたものだ。
だが、見えていないだけで、現実は存在する。
これを無視せずに目を向けた時、その時本当の人の弱さを知ることが出来る。
人は時としてこうした世間の裏側にある暗部に触れ、人の愚かさと不幸を知り、時に自分や世間の裏側に隠されているものと向き合わなければならない。
俺たちはそうした人に届く演劇をやる。
それは人が少しでも誤った方向に歩まないようにするためだ。
手垢にまみれた物語に頼るのではなく、娯楽でありながら、あるがままの人の本質を描く。
俺たちはそうした、自分たちの成したい演劇を演じるために、共に協力し合い、意見を出し合い、時にはぶつかり合いながらも、納得したものを完成させ、自信を持って公演する。
これこそが価値のある演劇というものだ。
お前たちのやっている評価ばかりを気にした学芸会とは違う。
自分たちで演じたい演劇を作り上げ、公演する。それこそが将来、学生を卒業しても深く記憶に残り、演劇を続ける原動力となっていく。
ありきたりなものではなく、自分たちの演劇を作り上げること、そのことに俺たちは情熱を注いでいるんだ。
———————世界は曖昧で複雑な形をしている。
それは、設計図などなく自然的に形成されているということである。
つまりは、世界は自然的であることで非効率さを肯定しているということだ。
今だって人の世はそれぞれ価値観も違えば生き方も違う。
だから、時にすれ違い、争いながら生きている。
俺は……、彼の言ったこれらの言葉を何度も反芻しながら、そんな中でも希望となる光を表現したいのだと思う。
彼の言う現実の不条理さ、残酷さも世間を投影する意味において重要で、そこから目を背けることは出来ない。
でも、俺はそんな世界でも、光を放つ原石があると信じている。
世界に希望をもたらす光。
暖かい心を人にもたらす、人と人を惹きつけ合わせるように繋げる存在。
”知枝はきっと、俺たちの中で今はまだ小さな光だけど、これから輝こうとしている”
成長し、進化をしながら俺達に確かな未来を感じさせてくれるような予感がしてる。
羽月もきっとそれを感じて、知枝を主演女優に選んだのだろうと思っている。
ここから始まる俺たちの物語。
その大切な一歩を今、踏み出す。
知枝はこの先、俺たちの中心で眩いばかりの光を輝かせる存在になる。
それは知枝が悩み苦しみながら背負っている重い使命と等しく、運命付けられたものだ。
知枝が成そうとする使命の先にこそ、俺たちの目指すべき未来があるのかもしれない。
—————そして、今、最初の幕が上がる。長い物語の始まりを告げる福音として。




