実は溺愛されていたらしい
フェルナン・フロランタン公爵令息。品行方正、文武両道、爵位良し、顔良し、貴公子の中の貴公子。そんな彼の婚約者はさぞ幸せなのだろうと羨望の的となっていたが、実はそうでもない。
リュシエンヌ・エドガール侯爵令嬢。誰にでも優しく、気品があり、爵位良し、顔良し、淑女の中の淑女である彼女は、婚約者との関係に悩んでいた。
「リュシエンヌ!何をしている!」
「フェルナン様…?私はただ、蜘蛛の巣にかかった蝶を助けようと…」
「そんなことメイドにやらせろ!巣が手にくっつくだろう!」
ー…ああ、また怒らせてしまった。
フェルナンはいつも、リュシエンヌと共にいると何かしら怒っている。リュシエンヌのいないところでは微笑みの貴公子と呼ばれる、いつも笑みを浮かべる彼。リュシエンヌは、自分の何がそんなに気に食わないのかと項垂れる。
「…まだ触ってないな。俺が取ってやる」
「え、フェルナン様…」
フェルナンに助けられた蝶が飛んでいく。フェルナンは基本的にはとても優しい人なのだ。リュシエンヌが絡まなければ。
「…ありがとうございます」
「いや、いい。…屋敷に戻るぞ」
そう言い、リュシエンヌの手を取り屋敷の方へ引っ張っていくフェルナンの耳は赤かった。リュシエンヌは、顔を真っ赤にするほど怒っているのかと落ち込んだ。
ー…
「それで?護衛数人だけを連れてスラム街で炊き出し?」
「は、はい…」
フェルナンに連れられフロランタン公爵家の屋敷に戻ったリュシエンヌは、週末の予定を聞かれて素直に答えた。が、またフェルナンが顔をしかめる。リュシエンヌは思わず縮こまる。
「お前は自分の価値をきちんとわかっているのか?」
「え?」
「…いや、いい。…ならば俺も行こう。一緒に炊き出しに参加だ」
何故かまた顔を真っ赤にして視線を彷徨わせるフェルナンに、リュシエンヌはまた落ち込んだ。
ー…私、そんなに嫌われているのね。
しかし、せっかく婚約者と一緒にいられるチャンスだ。これを機に仲良くなれたら良いと思い直し、彼女は素直に頷いた。
ー…
中央教会主導で行われるスラム街での炊き出し。貴族の子女令息による護衛数人だけを連れての、あまり仰々しくならないよう気を遣ったそれは今日も今日とて大盛況である。フェルナンにとっては久々なそれは、リュシエンヌにとっては最早日常で、慣れた手つきで紙皿にご飯を盛り紙コップにジュースを注ぐ。
「…慣れているな」
「毎週参加してますから」
「…なに!?」
「フェルナン様、手が止まってます」
「す、すまない。しかし何故行く前に相談や報告をしない?危ないだろう」
「危ないとは?」
「その…こういうところは、治安が良くない」
「それはそうですが、そのための護衛です」
「最低限しか連れられないのが問題だろう」
「それは…まあ…」
「これから参加する時は俺も呼べ。時間を作る」
「…毎週末必ず参加してますが」
「気合いで仕事を片付ける」
「祝日も参加してますが」
「…ま、まあ、祝日くらいならなんとかする」
「…わかりました。よろしくお願いします」
ぱっと顔を上げて嬉しそうな表情を浮かべたフェルナンに思わず二度見するリュシエンヌ。しかしフェルナンはいつもの仏頂面で顔を真っ赤にしていた。見間違いかと諦めるリュシエンヌ。ただ、いつかあんな表情をみたいな、と思っていた。
ー…
炊き出しが終わると真っ直ぐ家には帰らず、フロランタン公爵家の屋敷に来ていた。フェルナンは相変わらずの態度で、連れてくるだけ連れてきてリュシエンヌを放置したりとやりたい放題だが、本当に一緒に炊き出しに参加してくれるし、彼も少しずつ歩み寄りを見せてくれているつもりなのかも知れない。そう思ったリュシエンヌは、少しだけ浮かれていた。浮かれたまま、自然と足の向かう方へ進む。すると、中庭で黒猫と戯れ合うフェルナンを見つけてしまった。
ー…珍しい。彼の方は猫がお好きなのね。
「はあ…ドミニク。俺はどうしてこうもリュシーに想いを素直に伝えられないんだろう。こんなにもリュシーが好きなのに。愛しているのに」
「にゃー」
ー…リュシーって誰かしら。まさか私じゃないわよね。愛してるとか言っているもの。さすがにまだ結婚もしていないのに浮気は酷いわ。けれど、納得した。好きな人がいるから、私に冷たいのね。
リュシエンヌは思わずその場を走り去ろうとしたが、更に信じられない言葉が聞こえてきて足を止めた。
「せっかく駄々を捏ねてリュシーとの婚約を取り付けたのに、これじゃ嫌われる。本当は抱きしめたいし、キスしたいし、愛を囁きたいのに。ドミニク、どうしよう」
「にゃー」
ー…え?もしかしてリュシーって私?私、本当は愛されているの?
あまりのことに動揺して、がさっと音を立ててしまったリュシエンヌ。誰だ!?とフェルナンが叫んだため、仕方なく姿を見せる。
「りゅ、リュシエンヌ…」
「あの…盗み聞きしてしまって申し訳ありません」
フェルナンは顔を真っ赤にして頭を抱えて座り込んだ。ドミニクと呼ばれた猫がひたすらすりすりして落ち込んだ主人を慰めている。しばらくして復活したフェルナンは立ち上がり、顰めっ面になり顔を真っ赤にしつつ言い放つ。
「まあ…そういうことだ。これからも側にいろ。俺から離れることは許さん」
「はい、フェルナン様」
リュシエンヌは嬉しかった。やっとこの気難しい婚約者の気持ちを知れて、心が通じ合った気がした。それと同時に素直になれない彼が一気に可愛らしく思えるようになった。これからも側にいろなどという、高圧的で不器用な求婚が愛おしく思える。
「フェルナン様、大好きです」
リュシエンヌは思わずそう言った。そういえばフェルナンにストレートに好意を伝えるのは、自分もこれが初めてかも知れない。自分も不器用なのかも知れないと思ったが、まあそれでもこれからたくさん伝えていけばいいかと納得した。
「…っ!?」
顔をさらに真っ赤にするフェルナンにリュシエンヌは満足した。今まで誤解を招くような態度を取ってきた婚約者に対して不満がないわけではないが、可愛いから許す。
「お、俺も…してる」
「え?」
「俺も愛してる!!!」
最早やけっぱちだったが、フェルナンからの初めての愛の告白。嬉しくない訳がない。リュシエンヌはフェルナンに抱きついた。フェルナンはリュシエンヌの積極的な態度に困惑しつつもしっかりと抱きとめた。
「どうか、先程のようにリュシーとお呼びくださいませ」
「なら、お前もフェルと呼べ」
「はい、フェル様」
「リュシー…」
熱っぽい視線をフェルナンに向けられて、リュシエンヌは目を瞑る。柔らかな唇が重なり、二人はようやく心を通わせた。