上中下の中
水道橋を遠目に見ているときには煉瓦しか気がつかなかったが、いよいよ橋を渡るときに、向こう側に人がいるのが見えた。
橋の向こう側、渡りきる辺りのところに女の人が、欄干から身を乗り出して川を見ている。
欄干の高さは私の胸ほどまであるのだが、その女の人はただ立っているだけで欄干の上に腰があり、身を乗り出して川を見ているのだ。
なんだよあれ。
真っ白なワンピース、白い帽子。手は太ももに添えられていて肘が軽く曲げられている。長い黒髪が真下に流れているので顔は見えない。
私が立ち止まって数秒、数分見続けて、動くことができなかった。
なんだよあれ。
近づきたくねーよ。
しかし川に降りる階段は橋の向こう側にあって、こちら側にはない。
とにかく橋を渡らないといけないのだが、ここに止まっていても車は来そうにないし、どうしよう。
…少し戻って時間を潰そう。
…いるよ。全く同じ姿勢だよ。
どうしよう。
しかたがない、あれにどうにかされるかは解らないがこのままだと暑さで死ぬ。行くしかない。
女がいるのは進行方向左側である。強い意志で女を見ないように、足元と右側の風景だけを見て歩き始める。
歩いて風景を見て、だいたいの目算だが、橋の長さは1/6がこちら側の川辺、3/6が川幅、2/6が向こう側の川辺のようだ。高さは全く見当が付かないほど高い。私は高所恐怖症の気はないので下を見てもただ高いなとしか思わないが、なんだかこの橋は妙な感じがする。遠目で見たときはクラシックな風合いの煉瓦造りの橋だと思えたのだが、実際に歩いてみると、色の褪せ方が年月を経たものに感じられない、なんかこう、疲れ果てた印象がある。
さらに煉瓦に注意して歩いていると、全ての煉瓦が等しく色が抜けているのではなく、ところどころにまだ頑張っていることを思わせる色の煉瓦があり、建築とはそういうものなのか、素人の私には解らない。
しかもこの炎天で明かりだけはたっぷりとある、煉瓦の磨り減り方というか、肌の張り具合というか、エッジの効き方も、何かこう、不均一に見えるのだ。さすがに橋の中央、車が通るところはそんなこともないが、私が歩いている端の方は、煉瓦達が仕方がなくというか、もう少しで諦めてしまうような弱々しさを感じてしまう。
一方でこの上なく頼りになるのは欄干である。
黒く塗られた鉄柵は、私のような者が落ちないように、柵なのに鉄壁を思わせる頼もしさだ。うむ、私がはるか下の石だの川だのを見てもただの風景にしか思わないのは、この欄干のおかげもあるかもしれない。
そんなことを思いながらようやく橋の半分くらいまで歩き、ついつい女を見たくなる衝動を抑える。欄干の鉄棒をしっかり握りしめ、女がこちらを見ないよう、欄干に助けを求めるかのごとく歩き続ける。
いや、さすがに橋の半分を過ぎ、女に近くなってくると、怖くて歩みも速くなる。
女は私に気がついているだろうか、こちらを見ているだろうか、いや、こちらに近づいてやいないだろうか。
耐えきれなくなり、女の方を見る。
ちょっとは(いなくなってないか)という期待もするのだが、そんなことはなく、しっかりと女はいる。ただこちらに気がついていないのか興味がないのか、最初からの姿勢、欄干の上で腰を折って川を見ているままである。
あぁ、最初見たときは気がつかなかったが、首にも角度がついている。腰を曲げ、背筋をピンと伸ばし、首を曲げ、真下を見ているのか。やはり髪は長く垂直に下がっているため、顔は見えない。
最初より近づいて、白い帽子も白いワンピースも、一点の汚れもなく日の光に輝いて見える気がする。光が強すぎてそう見えるだけかもしれないが、少なくとも髪は綺麗だ。
いやいかんいかん、凝視しちゃダメだろ、恐怖心が薄れてマジマジと見てしまうことが怪異のペースに呑まれるのはお約束だ、こんな暑い中微動だにしないだけでじゅうぶんこの世の者ではない……のだが、やばい。
私自身、暑さを感じなくなっている。
そりゃそうだよな、そもそも夏に怪談てのが、恐怖にぶるっと震えることで暑さをごまかすために広まったものだ、怪談ではなく怪異に、現実に恐怖に近づいてその集中で暑さが意識から外れているんだろう、あー、涙こそ出ないが、泣きたくなってきた。
もう欄干にへばりつくように歩いていて、なんとなく、女が立っている場所はもうこちら側の川辺の真ん中ら辺かと気がつく。
…川を、川の流れを見ているんじゃないのか、川辺を見ているのか、何を見ているんだろう。
ラストの1/6に近づいて、こちら側の下を見てみるが、別に何もない。まぁ向こう側で下を見ないと見えないものなんだろうか。
いよいよ女との距離が一番近くなる。
服に欄干の汚れやサビをなすり付けるかのごとく、見える山々を数えるように、女を見ないようにする。
いや、これはこれで女が音もなく私の背後に立って無言で見ているんじゃないかって恐怖に駆られるのだが、それでも女を見る勇気はない。いやこういうのも勇気というのか?解らないが、音を立てず、走り出さず、震える足を一歩一歩踏みしめながら、橋の向こう側を目指す。
橋の向こう側が近づいて、安堵が広がるのだが、ゴールではない現実に頭を抱えたくなる。
川に降りていく階段は、進行方向左側にあるのだ。私が歩いている右側には降りる術が無い。
今、私と女の位置関係は水平で、女を前として私が後ろとして、女が私に気がついていないのか、興味がないのか解らないが、まぁ気がついてない可能性はあるわけだ、長い髪が視野を狭めているのだし。
しかし階段を下っていくと、おそらく女の視界に入るわけだ、かなり危ないんじゃないか。
とはいえ降りないわけにはいかない、他に道はないのだ、橋を渡って五分くらい歩き、くるっと廻ってまた橋に近づく。
女は全く動いていない。
大丈夫かなと階段を見ると、これはこれで非常に怖い。
下まで何段あるんだろう。また手摺りがない。今日は無風なので大丈夫だろうが、強い風が吹く日は落ちる人が出るのではないか。
女をちらっと見て、覚悟を決めて階段を降り始める。
階段を降りている最中に女に追われたら、もうどうしようもないなぁと思ったのだが、急だし、石段の幅が意外と狭いしで、集中しないと拙い気がしてきた。また段数も数えていたのだけど、百四十を超えたあたりで数を抜かしているような気がしてきて、解らなくなった。階段は一直線ではなくところどころで折り返すようになっているのだが、段数が一定ではないのだ。十八段降りたらくるっと廻って二十一段、またくるっと廻って十五段とかで、何か意味があるのか、それとも崖に沿って作ったらこうなっただけなのか。そしてこれでもまだ半分も来てなさそうなのだ。
もうここまで来ると上を振り返る気もなくなってくる。たとえ女が追ってきたとしても、この急さは同じ条件なのだ。私を襲いに来て掴み合いになったら共倒れになるだろう、降りることに急げば、まぁいいや。
橋の上のときと集中の質が変わってきたからか、暑さがまた問題になってくるのだが、風が吹いてないのはともかく、日の光を遮るものが何もない、直に当たるので、腕や首筋がヒリヒリしてきた。日焼け止めクリームの効能が切れてきたようだ。
まだ階段は続くのだが立ち止まり、上を見て誰も来ていないことを確認し、リュックから水筒を出してゴクリと飲む。女が来ていないことは安心だが、もうここまで降りると橋の上もよく見えなくなっている。
そのまま空を見上げ、まだまだ陽は高くて時間はある、ウンザリしながら降り始めた。
上を振り返らなくなったぶん風景も関係なく、足下を見ながら淡々と降り、ようやく地面に着いてホッとしたら、横から声をかけられた。