最終話 晴れ渡る空の心
何かと多忙であったエイデンも、この頃はようやく腰を落ち着ける事ができた。もはや大陸の各地を飛び回る必要は無い。例の侵略演技からは解放されているし、内政をクロウに交代したのも大きく、煩雑さはかなり軽減されたものだった。
そして何と言っても魔界の変化。ケンシニーとアーヘルによる、文武両面の重石は極めて効率的であった。あれだけ騒がしかった元老院が、今やメッキリと静まり返っており、当面はエイデンに敵対する事も無さそうである。
「とは申せ、暇では無いのだがな」
ようやく手にしたゆとりだが、休養や趣味に充てられはしなかった。以降は育児に没頭する予定であったし、現時点で既に着手中である。手始めとばかりに、ニコラの聖誕祭を催す事にした。今回で3回目とあって、趣向も以前とは大きく変えていた。
「ニコラ。街の方へいこうか」
特に理由は告げずに娘を連れ出した。ニコラも嫌がりはしないが、要求だけはしっかりと口にする。最近は喜怒哀楽の表現はもちろんの事、随分と喋るようになっていた。
「メーちゃんも。マニャーニャも!」
話題に上った2人だが、ここ最近は姿を見せない。それがニコラにとって不満なのだ。
「一応誘ってはみる。だが、あまり期待しないように」
「えぇーー!?」
エイデンの言葉を完全に理解したのではないが、前向きでない感情はバッチリ伝わっている。ニコラは父の腕に抱かれながらも、頬を膨らませる事で、不満の感情を露にするのだった。
そうして親子は3階のとある部屋までやって来た。メイに与えた個室は以前に比べて倍以上広い。先日、本人の強い要望により、長らく不使用としていた部屋を改装したのだ。何のためかは聞いていないのだが、おおよその察しはついている。
ドアをノックした。応答は無い。しかし、耳を澄ませば物音が聞こえてくる。とりあえずニコラを廊下に待たせ、独り室内へと潜り込んだ。
「メイ、入るぞ」
そうして眼に飛び込んできたものは、まさに異様な世界感であった。窓はカーテンで締め切られており、昼間だというのに薄暗い。あちこちには膨らんだ麻袋が、さながら屠畜場の生肉のごとくブラ下がる。そのような光景が、汗の臭いとともに知覚を脅かすのだから、さすがのエイデンも眉を潜めてしまう。
やがて眼が慣れてくる。すると、ベッドの傍らに2つの人影が見えた。
「114515……114516……」
呻きながら数をかぞえるのはメイだ。彼女は片手に鉄塊を握りしめながら、ひたすら反復行動に徹していた。その真隣ではマキーニャが励ましの言葉をしきりに叫んでいる。
「おっ、良いよ良いよ。今日も筋肉切れてんね!」
「114517……114518……ッ!」
「おいおい、嬢ちゃんは肩にベヒーモス乗っけてんのかい!」
何やら独特な盛り上がりを見せていた。気安く立ち入れない空気が壁となる。
エイデンにためらう気持ちはあるものの、とりあえず渦中へと飛び込んでみた。するとメイは動きを止め、大きく息を吐き出すと、地を這うような声で囁いた。
「オ父……サマァ?」
怖い。控えめに言っても恐ろしい。その鬼気迫る圧迫感は、魔王ですら後ずさる程である。二の句を告げないでいるエイデンを前に、呆れたような口調で繋いだのはマキーニャだ。
「陛下。女性の部屋に無断で立ち入るだなんて感心しません。少しは自重なさいませ」
「これが女部屋と言えるのか、訓練所と呼ぶに相応しいだろう」
内装は思春期女子とは思えぬ程に荒々しい。特に壁を赤く彩る「アーヘル許すまじ」と乱雑に描かれた標語らしきものが、際立って異様さを醸し出している。気遣いを求めるのであれば、もう少しそれらしくしろと思わんでもない。
「それはさておき。今日呼びに来たのは誘いだ。ニコラの聖誕祭だぞ」
「フシュルルル……生誕サイィ?」
「そうだ。そろそろ劇場で始まる所だ」
「今日ノ分ヲォ、終エタラァ、行ク……デス」
「陛下。私もノルマを達成したら伺います」
マキーニャはそう言うなりヒラリと身を翻し、釣り下がる麻袋の前に立った。そして拳を凄まじい速度で振る。目で捉えるのが難しい程の乱打は、実際に殴ったりはしない。袋の寸前で止められているのだ。エイデンにとって見慣れないトレーニングであるが、動きの機敏さから、一定の効果はあるようである。
「ともかく、声はかけたからな。気が済んだら来い」
エイデンは退室し、後手にドアを閉めた。澄みきった空気が上手いと感じる。しかし感慨に耽る間も無く、待ち惚けを食らったニコラが問いかけてきた。
「おとさん、メーちゃんは? マニーニャは?」
「あの2人は、その、なんだ。風邪をひいたらしい。部屋から出られんようだ」
「ええーー!? ダイジョーブなの?」
「大人しくしていれば問題ない。調子が良くなれば来てくれるかもな」
「そうなんだ。おだいじにー」
「ほぉ。よく知ってるな。お大事に」
エイデンは再びニコラを抱き上げると、そのまま城下へと向かった。
劇場前に辿りつくと、既に人だかりができていた。建物の様子は見えない。白く大きな布地が、四方を覆っているからだ。
「魔王様、本日はお日柄もよく……」
ビリーはエイデンを捉えるなり、通りいっぺんの挨拶をした。緊張からか、表情は固い。何せ改装のお披露目が、ニコラの聖誕祭に被せられたのである。新参者の彼としては、下手を打てない大仕事なのである。
そんな心の機微を全く気遣う事無く、エイデンは普段通りの受け答えに終始した。
「待たせたな。もう良いぞ」
「では、除幕とさせていただきます!」
合図と共に白布は払われた。すると、群衆からは「おお!」という短い歓声が上がり、やがて感嘆の声に変わる。
劇場の外装は形こそ大差ないものの、見栄えは大きく向上していた。壁に沿うようにして緑豊かな植え込みを配置し、境界線を赤レンガで彩った。視線を上に向けたなら、壁の上部に半円状の筒が雨どいのように連なっているのが見える。筒の端は途切れており、そこからは水が水路へと絶え間無く降り注ぎ、いずこかへと流れていく。
「この水は魔水晶の力を動力にして循環させています。魔法の力で屋上まで押し上げ、あとは自然に落とすのを繰り返しているのです」
「そうか。魔水晶にはこういった使い方もあるのか」
「屋内にも、魔法の仕掛けをご用意しています」
「楽しみだな。案内してくれ」
「ではこちらへ」
ビリーを先頭にしてエイデン達が続き、その後ろには食事や飾りを手にしたメイド達が付いて行く。入り口をくぐり、通路を目にした一行はここでも驚きの声をあげた。
改修前は単純な通り道であったのだが、今は彫刻品が整然と並ぶ空間を兼ねていた。全ての彫像は、魔族であれば誰でも知るような著名な人物ばかりだが、細やかな演出が眼に心地よい。手前から奥に進むにつれて時代が新しくなるのだが、石像の造りも合わせて精巧な仕上がりになっていく。
更に着目すべきは明かりの活用法だ。明かり取りの窓は小さく、差し込む光が筋となって見えるのだ。時間帯によっては像の背中にあたり、後光のように見えるのだとか。今は入り口から2番目のものに日差しが伸びている。
「面白いアイディアだ。太陽を利用するのであれば金も要らぬ」
「そうですね。取り分けクロウ様がご満悦の様子でした」
「あやつはそういう役回りだからな」
それから奥へと進み、左手に見えるトイレの入り口は通り過ぎ、最奥の大扉を開け放った。すると、飛び込んできた強い光に眼を細めた。随分と明るいのは、天井が総ガラス張りとなっていたからだ。まるでキャンパスに青空を描いたかのような、不思議な気分にさせられてしまう。
「なるほど。ここでインパクトを与えるため、敢えて通路を暗めにしたのだな」
「ご推察の通りにて。人の心を動かすには緩急が重要なのです」
「良いじゃないか。ゴテゴテと光物を並べたてるより、よっぽど好感が持てるというものだ」
「魔王様、まだ最後の仕掛けが残っておりますよ」
「そうなのか。では早速見せてくれ」
ビリーが合図をすると、ステージにはレーネを筆頭にした声楽隊がズラリと並んだ。今日という日を祝うために、セイレーンの一族が総出となって駆けつけてくれたのだ。
透明な声でなぞられる旋律はやがて副旋律と重なり合い、ついには四重、そして迫力満点の合唱となった。そこで気づいたのは明かりの変化である。ステージに降り注ぐ日差しの色が、声に合わせて移り変わってゆくのだ。
「これか。お前の言う仕掛けとは」
「はい。こちらも魔水晶の力を活用し、常時魔法を展開させています。歌やセリフの調子に合わせて、天井のガラスが変色するように設計しました」
「となると、音楽だけでなく、演劇などでも同様の効果が?」
「もちろん。どのような演目にも対応できますとも」
「気に入ったぞ、ビリー。これなら外から客を呼んでも問題あるまい」
「お褒めに与りまして光栄でございます!」
それからはお披露目も終わり、続いてメイド達によるセッティングが始められた。凝った手順は踏まない。客席の椅子をどけて長テーブルを配置し、その上に料理を並べていくだけだ。そうして急ごしらえながらも、パーティの体裁は整えられた。
「ニコラ様、お誕生日おめでとうございます!」
参列者達が口を揃えて祝辞を述べた。劇場には城勤めの者だけでなく、城下町からも少なくない人数が集められている。およそ半数が一般人だ。そんな老若男女から捧げられる言葉に、ニコラは満面の笑みで応えてみせた。
それからは歓談と食事の時間である。皆が思い思いの料理を片手に持ち、セイレーンの合唱に酔いしれながらも、馴染みの顔との談笑を楽しんだ。ニコラも料理に夢中になっている。肉や煮魚、甘味などを不規則に平らげては、美味い美味いと微笑むのだ。その喜び様が見たくて催した所もある。
だが、エイデンはふと気付いた。ニコラは料理を楽しむ傍で、たまに天井を見上げたりするのだ。何かを見つけたかのように、ジッと動かなくなる事もしばしば。鳥でも見つけたのだろうと察したのだが、そうではなかった。
「バイバイ、またねーー」
ニコラが1人で、天井を見上げながら手を振った。
「どうした。渡り鳥でも見かけたのか?」
エイデンが問いかけた。するとニコラは首を横に大きく振ってから答えた。
「ちがう。おかさんがいたの」
「おかさんって、もしかしてお母さんの事か?」
エイデンは懐から、亡き妻レイアの描かれた小さな肖像画を取り出し、ニコラに見せた。すると今度は、ゆっくりと首を縦に振るのだ。
「うん、おかさんね。そらにいたの」
「空に……レイアが?」
「ニコニコしてた。それでスゥーーって、むこうにいっちゃうから、バイバイっていったの」
「そうか。そうなのかぁ」
エイデンも並んで見上げてみる。しかし、彼の瞳には青空と筋雲が映るばかりであった。人影など欠片も見つけられなかった。
「なぁニコラ。お母さんに会いたいか?」
「おかさん。あいたい!」
「……よし。次の夏、暑くなった頃に会えるぞ」
「ほんとう? やったね!」
「本当だとも、約束だ!」
エイデンはたまらなくなってニコラを高々と掲げた。それこそ放り上げんばかりに、何度も何度も頭上に掲げ上げたのだ。娘が死に別れた母を知っている。逢いたいと言ってくれる。その事実だけでも、父としては望外の喜びを感じずにはいられないのだ。
しかし、タイミングが悪すぎた。お腹を料理で膨らませたニコラに上下運動は宜しくなかった。
吐き出されたのは膨大な量の吐瀉物。肩から盛大に胃液を浴びた事で、エイデンは久方ぶりに吠えた。
「シエンナァァ! ニコラがぁーー!」
ガラスが声に反応して赤く赤く染まる。室内に降り注いだ日差しは、心なしかシエンナに集まったかのような印象である。単純に、怒気を孕んだ彼女が目立っていただけなのかもしれない。
「陛下! いちいち騒がない! いい加減慣れてくださいよ!」
「だってすっごい吐いたし! こんなにも吐き散らしてるしぃーー!」
「ともかく拭きますから! ジッとしててください!」
3回目の聖誕祭は、中々ハードな結末を迎えた。せめてもう少しエイデンが毅然としていたら印象も違うのだが、彼は己の骨格を見失う程に慌ててしまった。優秀な魔族であっても、父親としてはまだまだ物足りないのだ。
ここまでが、彼らが織り成す大陸史の極々一部分である。類い稀なる手腕を発揮して、数千年にも及ぶ人魔の争いを終息させた、魔王エイデン。そして魔王を助ける優秀なる部下や仲間達。彼らはこれからも和やかに、そして時として絶叫する程賑やかに暮らしていくのである。
青空のような愛娘の笑顔と共に。
ー完ー




