第81話 魔界に走る激震
一連の騒動から数日も過ぎると、あらゆるものが日常を取り戻した。城の内外問わず、人々は生業に精を出し、大勢の怪我人も全てが治療を終えた。そして、留守にしていた参謀部の面々もおおよそが帰還していた。
「いやはや、報告を聞いたときは肝を冷やしましたぞ。事なきを得たから良かったものの」
エイデンは地下牢に赴く傍らで、細かな愚痴を聞いていた。
当時、西セントラルに滞在中であったクロウの元には、襲撃と鎮圧の報せが同時に届いたのだ。城に確認を取ろうにも大混乱の為に不可。グレイブやデュークは撤退中につき応答不能。最終的な情報が届くまで、それから半日を待たねばならなかった。
クロウは自他共に認める能吏であり、国一番の知恵者である。そんな彼が危機において蚊帳の外であったのだから、自然とヘソが曲がるのだ。
「そろそろ機嫌を治せ。話は既に好転しているのだ」
「機嫌ならば良うございますぞ。それはもう、すこぶるというモノです」
そう言いはするのだが、口調にはトゲがあり、足取りもどこか荒々しい。
「わかった、わかった。これより捕虜の扱いについて検討する。参謀の働きどころだろう」
エイデンが苦笑いを浮かべるとともに、景色は鬱屈したものへと切り替わった。下り階段を何度か折り返す。空気の澱みが酷く、湿気が全身にまとわり付くようだ。カビを思わせる臭いも鼻につく。この極めて不快な空間が捕虜の自尊心を汚し、対抗心すらも挫くのだろうと、何となく思った。
扉の前で衛兵が拝礼で迎えた。エイデンは片手だけ挙げて中に入る。松明の灯りだけを頼りに通路を進むと、やがて一つの牢屋の前までやってきた。造りこそ平凡であるが、床一面には魔法陣が敷かれている。囚人の力を削ぐ目的の為なのだが、それは期待通りの成果を上げている。
「クロウよ。こやつがアーヘルという女だ。要人の暗殺や誘拐を生業とする、魔界きっての実力者だ」
「噂には聞いておりましたが、実物は初めて見ました。龍人、しかも純血種でしょうか?」
「そのようだ。ゴーガンも、これ程の逸材をどうやって見つけたのやら」
話の最中もアーヘルは一切身動ぎを見せなかった。牢の中で正座になり、身体も鉄格子の方ではなく壁を向いている。顔には依然として強固な意志が浮かぶ。引き結んだ唇と閉じられた目蓋からは、静かなる怒りが感じられるようだった。
「どうだ。いい加減落ち着いたか?」
彼女の様子に気遣いもせず、エイデンは格子ごしに声をかけた。いくらかの間をおいて、鋭利な声が返ってくる。
「私を閉じ込めて、どうするつもりですか。潔く首をはねなさい」
気丈なものである。釈放の懇願どころか、命乞いすらもしようとしない。彼女の美学は、悪臭や虜囚の恐怖を前にしても変わらないらしかった。
「陛下、この娘を飼い慣らすのは難しいのでは?」
「だが処刑するには惜しいと思う」
「確かに味方であれば頼もしいのですが、ニコラ様の安全の為にも……」
「待て、不用意にその名を出すな!」
「何故……?」
クロウが問い返す間もなく、鉄格子が大きく揺れた。先ほどまで神妙にしていたアーヘルが、突如として突進してきたのである。隙間から両手を伸ばして虚空を彷徨わせた。表情も別人のようであり、目や口元が恍惚したかの様に開け広げられた。
「あんぁぁああ! ニコラちゃんんん頂戴ぃぃ!」
エイデンはすぐに拳を繰り出した。無防備な体に当て身が繰り出されたのだ。
「眠れ!」
「ヘムッ!?」
顔から床に崩れ落ちるアーヘル。意識を完全に手放したようである。
「クロウよ。ここでニコラの名を出すのは厳禁だ。話が進まなくなる」
「はぁ、分かりました。それにしても面妖な……」
「仕切り直しだ。起こすぞ」
格子から投げ出された手に回復魔法を施す。魔法陣が災いして効きが悪い。それでもしばらく注力していると、アーヘルは目覚めた。
「ハッ! 私は何を……」
「目覚めたか。少し話でもしようじゃないか」
「貴方にかける言葉など何もありません。お引き取りを」
「そう言うな。これは差し入れだ、ロクなものを口にしてはおるまい」
エイデンは腰袋に手を突っ込み、眼前に差し出した。手のひらには2つの木の実が乗せられている。
「足元を見た挙句に買収しようなどと……。私も安くみられた物ですね」
「そう大げさに考えずとも良い。餞別と思え」
「不快です。下げてください。たかが2個の木の実など……2個、にこ、ニコ」
「どうした?」
「んっほぉぉおお! ニコラちゃあぁぁん! ニゴラぢゃぁぁぁあん!」
ついさっきと変わらぬ症状だ。近しい単語を耳にしただけでも発症するようである。
リテイクだ。エイデンは再び気絶させ、回復するというフローを繰り返した。だが、それからも話は進展を見せない。症状が頻繁に現れてしまう為だ。
日光と聞けば発症、ルッコラと聞いても発症。さらに煮込み汁や煮っころがし、果ては看守が後輩を叱る「コラーー!」という罵声でも発症してしまう。その都度に対話は中断し、気絶と回復を挟むのだから、エイデンもほとほと疲れ果ててしまった。
「これはもう無理か。いっそ死なせてやるのも慈悲だろう」
「陛下。私に一計あります。また目覚めさせてもらえますか?」
「正直そろそろ限界だ。魔力も、手の甲もだ」
エイデンの手が真っ赤に腫れ上がっている。それほどに龍人の体は頑強なのである。それこそ魔王の自動回復が追いつかない程に。
「一度だけで結構でございます。その時は諦めましょう」
「では、これが最後だ」
倒れ伏したアーヘルに回復が施されると、彼女は何度目かのセリフを吐いた。
「ハッ!? 私は何を……?」
その言葉にクロウは答えないまま、鉄格子のそばで膝を折った。
「つかぬ事をうかがいます。貴女には、正体を失っている時の記憶がおありで?」
「ありますよ! だからいっそ殺せと言ってるんじゃないですか!」
感情が剥き出しの叫びだった。例の醜態を覚えているとなると、これは実に辛い体験であろう。それが誇り高き人物であれば尚更だ。
しかしクロウは境遇に同情など見せず、どこか酷薄な口調で語りかけた。
「貴女はしきりに殺せと言いますが、死ねば名誉が守られるなどとは考えぬ事ですな」
「なぜでしょうか? 私とて命のやり取りをする身の上。散り際は潔くするつもりです」
「我らはゴーガンの悪行を知らしめる必要があります。よって貴女には、例の醜態を晒しながら死んでいただかねばなりません。途方も無い変態を送り込んだとなれば、ゴーガンの家名も地に堕ちるので、大変都合が良いのです」
「何ですって!? この悪魔め!」
「烏人です。悪く思わないでください」
アーヘルの爪が床を掻いた。命を奪われる事よりも、名誉を激しく傷つけられる方がよほど堪えるらしい。口から漏れる呻きも、憤激と無力さをない交ぜにしたような、独特な響きを持っていた。
「では、貴女にもう1つの道を示しましょう」
クロウの言葉に、アーヘルが恨みがましい視線を送った。それでも壁を向いていた時よりは遥かに前向きな姿勢だと言えた。
「魔界を牛耳るゴーガンを打ち倒していただきたい」
「何を言うかと思えば、雇い主を裏切れと?」
「裏切るなどと……。悪人はその罪に応じて報いを受けるべきなのです。今回はたまたま、執行する者がアーヘル殿であるというだけの話。ゴーガンは清廉なる人物ですか?」
「清濁は関係ありません。前金を既に受け取っています。であるにも関わらず、役目に背くだけでなく寝首をかくなどと……許される事ではありません」
「随分と義理堅いのですね」
「信用無しには生きていけませんので」
「ならば、その金は貧しい者に与えてしまいなさい。そして周囲にはこう伝えるのです。『ようやく正義に目覚めたのだ』と。そこまで実行したならば、変節を咎める声よりも、貴女の行いを讃える声の方が勝る事でしょう」
アーヘルはそこまで聞くと、眉間のシワを一層深くした。そして瞳も酷く歪んでいるのだが、感情の揺れ動く様が手に取る様に分かる。もう一押しあれば頷くかもしれない。
「それでは、こうしませんか。ゴーガンを抑え込んだ暁には、症状を抑える方法を授けると」
「そんなものが有ると言うのですか!?」
「今はまだ不明です。しかしながら研究を重ね、いつの日か見つけ出す事を約束しましょう」
アーヘルはすぐに飛びつきはしなかった。依然として強い眼差しのままで、睨む事を片時も止めようとはしない。それでも、彼女に選択肢など残されてはいなかった。
「……分かりました。その話に乗りましょう」
「陛下、どうやら快諾いただけたようです」
クロウは達成感を露わにするが、エイデンとしては不足を感じていた。アーヘルはとにかく尋常でない程に強い。城の者が束になっても叶わないのは既に実証済みだ。
そんな危険人物を、直前まで敵対していた者を野に放つには、担保のようなものが足りないのだ。『裏切り』を防止する確証と言い換えても良い。とは申せども、それ程に都合の良い物があるだろうか。エイデンは駄目元ながら思案すると、やがて1つの結論に辿り着く。最上にして唯一の策が浮かんだのである。
「良かろう。出してやれ」
エイデンはアーヘルを牢屋から解放する折に、彼女の首元へ魔法を放った。それはやがて実体を持つ様になり、やがて首輪の形へと変貌した。
「エイデン。私に何をしたのですか!?」
「それは保険として着けさせてもらった」
「なんて気味の悪い……今すぐに外しなさい!」
アーヘルが地を蹴ってエイデンに飛びかかる。だが、拳を振り上げた刹那、首輪からは小さな囁きが溢れた。
「ダメ! わるいこ!」
ニコラの肉声である。それはダイレクトにアーヘルの耳に、脳に、魂に直接響いた。すると当然の事ながら、こうなる。
「あっへぇぇ! ニコラちゃんの声ぇぇ! 香ばしい声がしゅるぅぅ!」
奇声を発したまま悶絶すると、やがて自ずから気絶した。その横顔は恍惚としている様に見えなくもない。
「陛下、これは……?」
「ルーベウスと同じ物を付けた。我らに刃向かおうとすれば、先ほどの様になる」
「裏切り防止策ですか。えげつない物ですな」
「そう言うな。理に適った方法ではないか」
「それはそうと、アーヘル殿をどうされるので?」
「来客用の部屋にでも入れておけ。1日もすれば目覚めるだろう」
「ではその様に」
こうしてエイデン達は強力な仲間を得た。希少なる龍人を引き込んだ事は、10万の兵を味方に付けるよりも心強いものだった。ちょっとばかり変わった悪癖はあるものの、十二分に頼れるのは明らかだ。
その後アーヘルはというと、翌朝には逃げるようにして魔界へと戻り、そして早くも行動に移した。ゴーガンの屋敷を皮切りに、領地を散々に脅かしたのである。彼の一族は強大な敵を抱えた事により、もはや地上を構う余力など皆無であった。むしろ、いつ何時現れるか分からない影に怯える様になり、その権勢もみるみる内に失墜していくのだった。




