第75話 ビリーは小心者
セントラル西方の街は、小さくない混乱を引き起こしていた。何せ魔族による、電光石火の占領劇が繰り広げられたのだから。その日を境に為政者は交代し、彼らは魔王の臣民となった。
グレイブ隊が騎乗のまま整列し、悠々と庁舎へ向かうのを、人々は息を殺して見送った。そして、手始めに開始した配給制度。全住民に配られる酒食は、普段口にするものより良質であり、困惑の念はさらに色濃いものとなる。
──魔王がなぜ我らを厚遇する?
そんな疑問が飛び交うのも当然である。苦役も略奪もない。乱暴された話すら聞かない。見た目のおぞましき兵達は、威張り散らす事もせず、ただ淡々と食料を配り歩いた。
魔族にしてみれば、旧領主の倉を開放しただけの事だ。どれだけ配ろうとも占領軍の懐が痛んだりはしない。むしろ田舎領主の蓄えを吐き出しただけで街全体が潤うのだから、その搾取ぶりに驚くべきであるのだが、被支配者たちは知る由も無い。
そんな不安定な街中で、一人の青年が肩を落として歩いている。血色そのものは良い。彼が小さな背中を晒すのは空腹の為ではない。
「はぁ……。また落とされちゃったよ」
呟くと一層気持ちが重たくなり、足が止まる。手元の紙束を眺めては、嘆きと憤りが同時に押し寄せ、それが怨嗟の言葉を引き出した。
「ちくしょう、僕の芸術を理解できないだなんて……! 流行りがそんなに大事か! 尊いってのか!」
飲んだくれの愚痴にも似た台詞だが、彼は素面である。徹夜で用意したアイディアの数々を、ものの数秒で拒絶されたのだから、鬱憤も堪えがたい程に溜まる。
前置きはともかく、声が大きすぎた。怪訝そうな顔を浮かべた住民が、遠巻きに通りすぎていく。無言の非難も手伝って、背中は更に小さく縮こまってしまう。
「いっその事、魔族に身売りしちゃおうかな。あそこなら高く買ってくれるかもしんないし」
泣き言は物音に紛れる程に微かなものだ。遠くで駆け回る足音の方がよほど鮮明である。だが、そのあまりにも小さな嘆きを、ただ一人だけ応じる者がいた。よりにもよって、ピンポイントな人物の耳に届いたのである。
「今の言葉に偽りは無いな?」
「えっ……」
男は振り返る暇も無い。背後から抱えられたかと思うと、瞬く間に大空へと浮き上がった。その反動は大きく、内臓が足元に引っ張られるかのようだ。街の景色もみるみるうちに小さくなり、やがて遠ざかっていく。
「えぇぇ! 何、何、何事ぉ!?」
男は訳も分からぬうちに空を飛んでいた。行き先は北西、太陽と正反対に向かっているのだが、パニックに陥る彼に判別はつかない。
「今しがた、魔族に身売りすると言ったばかりだろう」
「ええっ! じゃあ貴方は……」
「手元の紙、落ちそうになってるぞ」
男はこぼれそうになる所持品を慌てて抱き止め、それからは呆然としながら流れ行く光景を眺めた。野を越え河を越え、広大な森を過ぎたかと思うと、やがて城が見えた。
「ここって、もしかして……」
「もちろんエイデン城だ」
「いやぁぁ! やっぱりぃぃ!」
男の絶叫が城下に響き渡る。魔族の住民らにすれば、声がどんどん近づいてくるのだから、否応なしに注目してしまう。それは劇場前に佇むレーネも同様であった。
「ンンー、魔王様ぁ。お帰りなさいませぇ」
「待たせたな。建築士を連れてきたぞ」
「それは何よりぃ。助かりますぅ」
上機嫌である為に、感謝の意も歌うように告げられる。それから2、3のやりとりが続くのだが、人族の男は理解が及ばない。何もかもがだ。
「あの、貴方たちは魔族なんですよね?」
声を震わせながら問いかけた。足も劣らず震えているのだが、道端で尻餅を着いている今は問題にならなかった。
「自己紹介がまだだったな。私は魔王エイデン、こちらはセイレーンのレーネだ」
「末永くよろしくお願いしまぁすー」
「ま、魔王……様!?」
「いかにも。ところで、そなたの名は?」
「ぼ、ぼぼぼ、僕はビリーと。もうし、ます」
喘ぐような口調は途切れ途切れだ。顔もすっかり青ざめ、全身は凍えるような仕草を見せている。
「ンッンー。もしかして、寒がってるのでしょうかぁ?」
「緊張しているのだろう。固くならず、気安く接してくれて構わない」
「き、気安くだなんて……!」
「まぁ良い。話を進めるとしよう。そなたには、この施設をきらびやかにして貰いたい」
エイデンが掌を向けた先には、相変わらず劇場が居座っている。入り口に花などを飾ってはみたが焼け石に水。むしろ石壁の無粋さが際立ってしまうという、惨事を引き起こしていた。
「そなたには、これが何に見える?」
「何にって。そ、倉庫、かな?」
「倉庫、か……」
「あぁスミマセン! もっと深く考えます、ええと、ええと!」
「先に答えを言うと、これは劇場だ」
「げき……ッ!?」
思いもよらぬ言葉にビリーは眼を見開くと、おもむろに立ち上がり、ヨロヨロと歩みだした。やがて劇場の壁を労るように撫で、膝を折る。さながら墓標を前にしたかのような振る舞いだが、彼には縁もゆかりも無い。
「……ふざけんな」
ビリーは地を這うように低い呟きを放つと、肩をわななかせた。そして焦げ茶色の短髪はゆっくりと朱に染まり、毛先が天を仰ぐように逆立った。気弱な性質を代弁する声も、今は猛き野獣を思わせる程に野太い。
一体どうした事かと、エイデンか確かめる間も無い。すぐさま憤りに溢れた怒号が響いたのだ。
「舐めてんのかこの野郎! 適当に石積み上げて四方を囲ったら建物ってか。大きく造ったら劇場だぁ? ちったぁ勉強しろってんだ!」
「うむ。済まん」
「ンーー。急に怒り出しましたねぇ。何か気に障りましたぁ?」
「当たり前だろ! 建材が可哀想だと思わねぇのか?」
「可哀想、だと?」
「こいつらはなぁ、ボンクラどもが命じるままに、自分の役目を懸命に果たしてるんだ。それなのによぉ。クソみてぇなデザインのせいで笑いものになっちまってる。これを哀れとは思わねぇのかよ!」
エイデン、ピンと来ない。それでも、この激情は利用できそうだと踏み、敢えて流れに乗った。
「そうだな。窮地より救ってやらねばならん。どうすれば良い?」
「んなもんオメェ。キラッキラのピッカピカにしてやんだよ」
「方向性は、薄っすらとだが分かった。具体的には?」
「おし、図面描いてやる。ペン貸せ」
「手元にはない。城に取りに行くから、しばし待て……」
「かぁーー、鈍臭ェ! だったら要らねぇよ、目ん玉見開いてよく見てろよ!」
ビリーは手頃な枝を手にすると、土の上に図面を描き始めた。全体像を大きくしつつも、所々が繊細に描き込まれる辺り、明確なイメージが浮かんでいる事は明らかだ。そして注目すべきは彼の表情だ。枝を振るって線を付け足すたびに、顔を綻ばせたり厳しくしたりと忙しない。まるで、図面相手に会話でもしているかのようだ。
「オウ出来たぞ。外観イメージだ」
「ふむふむ、これは……よく分からんな」
「んだよ、図面の見方もわかんねぇのか。勉強しろドアホが!」
「うむ。善処しよう」
「つうかオレぁよ、昨日は完徹だったんだよ。んな訳で寝るわ」
ビリーは返事も待たずに、通りのど真ん中で寝転んだ。両手足を投げ出して大の字になる。その姿は、つい先ほどまで怯えていたとは思えぬほど、肝の据わりようである。
「ンッンーー。エイデン様、彼にはお引き取り願いますぅ?」
「いや、案外拾いものかもしれん。少し任せてみる事にしよう」
「そうですかぁ? 随分と変わった方ですがぁ」
「手直しをしたいのは劇場だけではない。浴場やら、大通りなどの改装も考えている。腕次第では、それらも全て委ねてしまいたい」
そもそも変人なのは他の連中も同じだ、とまでは言わずにおいた。口にしたところで意味のない事である。
それから無言のままでビリーの方へ眼を向けた。すると、高いびきはそのままに、髪の色が徐々に戻っていくのが見える。次に目覚めた時、人格はどうなっているのだろうか。エイデンは物珍しい人族の性質について、小さくない興味を抱いていた。




