第72話 導く側に立って
城の側にある小高い丘に、ユラグは独り腰を下ろしていた。乱れた髪を気にも留めず、吹き出る汗をタオルで無造作に拭う。幾日も繰り返される演技指導は重労働である。活力溢れる青年の肉体をもってしても、小さくない疲労感を与えるのだ。
「まったく。どれだけ練習させるんだか……」
溢した独り言に暗さは無い。呆れと達成感が同居している響きだった。
視線を空に向けたなら、西の方は朱が差しており、間もなく陽が落ちるのが見えた。その光景をただジッと眺める。遠くの森林地帯に吸い込まれていくような光景を、なぜか気に入ったのだ。
しかし、今日は静かに愉しむのは難しい。隣の丘で魔族の子供達が戯れているからだ。
「兄ちゃん、待ってよぉーー」
「早くしろよ! そんなんじゃ、いつまで経っても追いつけないぞ」
声を聞くなり、ゆっくりとそちらへ顔を向けた。10歳にも満たない容貌の兄弟が駆け回っている。その様子を、優しくも寂しげな眼で見つめるのは、自身の記憶に重ね合わせたからだ。
「兄上……」
思い返せば、ユラグはいつも誰かの背中を追いかけていた。特に王太子の第一王子などは羨望の的だった。厳格な気質ながらも清廉で頭脳明晰。他の優秀な兄弟も一様に付き従い、国民からも広く敬愛された長兄。どちらかと言えば愚息として扱われたユラグは、養子として公や伯の家格に下り、兄たちを支えるつもりであったのだ。
それが今はどうか。追うべき背中はひとつとして無い。そのくせ振り返れば、導くべき数百の兵と、故国に置き去りにした何万もの臣民が見える。まだ20歳を迎えたばかりの青年にとって、胸が張り裂けそうな程の孤独と重圧であった。
寂寥の念が肩をすぼめさせ、小さくした。壮健な身体がにわかに儚さを帯びる。うっかりすると、夕日が沈むのに合わせて消え入りそうなほどだ。
そんな彼に、背後から気安い言葉が投げかけられた。
「なんじゃ。こんな所におったのか」
ユラグの隣にユーレイナが現れた。両手にはタピオの店より調達したフレッシュジュースがある。片方は自分の口に、そしてもうひとつは無造作な様子でユラグに手渡した。
「またしょげておったのか? この頃は上達しておるではないか。今日などは特に上々だったろうに」
「いや、演技に悩んでいる訳じゃない」
「ほう。ではなにゆえ物思いに耽っておったのじゃ?」
問いかけにすぐには答えず、ユラグは視線を隣の丘へと移した。そちらには幼い兄弟だけでなく、成人女性の姿まで見えた。弟を片腕で抱きかかえ、兄の耳を引っ張りながら、城下町の方へ向かって歩いている。年齢からして母親というよりは姉だろう。微かに聞こえる叱責も、諭すというよりは感情的で、尖った響きすら感じられた。
「僕は……いや、僕ら王家の人間は、認識を間違えていたのかもしれない」
「誤りとな?」
「父上も兄上も言っていた。王族として生まれたからには、国の誇りを大事にしなくてはならないと。かつてない繁栄をもたらし、版図を最大限に広げ、武名と名声を大陸中に轟かせる。それが使命であると、口癖のように言っていたんだ。もちろん僕も同じように考えていた」
「特に珍しくもない志向よの。どこの王家も似たり寄ったりじゃ」
「でも今は違うような気がしてる。ここの民はよく笑う、それはもう生き生きと。誰も彼もが幸せそうに、自分の役目を全うしているんだ」
ユラグは言葉にすればするほど、確信めいたものを感じた。意気消沈した瞳に情熱の炎が灯り、声の芯も次第に太く、たくましいものになる。
「僕の役目は、最後の王族として為すべきは、単なる祖国復興じゃない。富や名声を追いかける事でもない。大陸の戦禍を消し去り、あらゆる不幸を遠ざけ、領民を笑顔にする。それこそが僕に与えられた使命だったんだ!」
「お主にできるかのう? 口にするだけなら容易いものじゃ」
「エイデンには出来た。だったら不可能じゃない。今に見てろ、僕は必ず全ての民を幸福へと導いてみせる!」
ユラグは勇ましく立ち上がると、硬く握った拳を夜空に掲げた。その向こうで輝く明星に誓うかのようである。
隣に座るユーレイナは顔を上気させ、続けざまに熱い拍手をすることで賞賛した。
「素晴らしい成長よの。つい先日まで小僧と思うておったら、いつの間にか立派な男に育ちおって」
「僕はまだまだ未熟だ。それでも、この決心が誤っているとは思わない。どれだけ時間がかかったとしても、絶対に成し遂げてみせる」
「うふふ。よいよい、実によき男じゃ」
ユーレイナは溜息にも似た言葉を吐くと、フワリと浮き上がった。そして体をユラグに密着させ、耳元で甘く囁く。
「どうじゃユラグ。今日という日を記念して、お主の子を孕んでやろうかの?」
「なっ……!? くだらん冗談はよせ!」
「冗談なものか。ほれ、手始めに妾を笑顔にしてみい」
「うるさい! もう行くぞ!」
足を地に踏みつけながらユラグが立ち去っていく。その側をユーレイナが脅かし、繰り返し誘惑の言葉を撒き散らした。そのやり取りは、城下町でテーボから風呂に誘われるまで続けられるのだった。
数日後。完璧な演技を体得したユラグたちに、留まる理由は消失した。つまりは出立の頃合いであり、彼らは早朝に城門の外で並んだ。
見送るエイデンたちは口数が少ない。寂しげな風が通り過ぎる中、ユーミルが一抱えある革袋を選別代わりに手渡した。
「ユラグ様。中には剣が入ってます。折れやすい様に脆く作ってますんで、エイデン様と戦う際にお使いください」
「助かるよ。ありがたく貰っておく」
ユラグは革袋を背負い、それからエイデンを見る。お互いに視線が重なるが、丁度良い言葉が見当たらず、見つめ合うばかりだ。やがてエイデンが拳を差し出し、宙で止めた。目の当たりにしたユラグは頬を緩めつつ、その動きを真似る。
それから両者の拳が重なり合うと、グラスを鳴らす仕草を見せた。
「恒久の平和を、人族とともに」
「陰りなき繁栄を、魔族とともに」
言い終えると、ユラグは踵を返して歩き始めた。そのすぐ後ろをユーレイナが、一礼してテーボが遅れて後を追いかける。
「さてと、行き先はノストールだったな」
「おうよ。何せ最初の『公演』だからな。頑張っていこうぜ」
一行の目的地はシャヨーカの東、ノストールという小国だった。徒歩で半月ほどかかる距離である。余裕までを考えた末に、『公演』予定日は一ヶ月後と定められていた。どこかへ寄り道などしなければ十分に間に合う日程である。
その道すがら、ユーレイナが提案をした。彼女の演技指導はまだ終わってなかったのだ。
「お主ら、これよりノストールに着くまで水浴びは禁止じゃからな」
「何でだよ!?」
「よいか。魔王に敗れ、敗走しているという体なのじゃぞ? 小綺麗な姿で落ち延びても説得力があるまい。泥や埃にまみれてこそ、人々は激戦を想起する事じゃろう」
「マジかよ。皮膚病になったりしねえよな?」
「ええい、大の男がグチグチ言うでない! いっそ今から汚れてしまえば諦めもつくか!?」
ユーレイナが足元の砂を巻き上げ、ユラグたちの頭から振りかけた。
「何をする、やめろ」
「演出じゃ。これも演出の為じゃと心得よ」
「だったらお前も砂まみれになれ!」
「待て。妾は透明化できるのじゃ。汚す必要は……」
「僕らは仲間だろう。だったら苦楽を共にしても構わないじゃないか!」
「や、やめ! ああ、背中がザラザラするぅ!」
砂の掛け合いは、いつの間にやら戯れのようになった。砂を握っては追いかけ、あるいは追われる事を繰り返す。その間ユラグは始終笑っていた。それはかつて、屈託を持たなかった頃のように眩しい。




