第64話 ながら歩き厳禁
先日は辛くも、家庭内と国の危機を一挙両得的に解決したエイデンは、今まさに有頂天であった。手にした小さな紙を眺めては、だらしなく頬を緩めて歓喜の声を漏らす。それこそ朝から晩までひっきりなしに。
「陛下、おはようございます」
回廊で下男が挨拶するのを、エイデンは目もくれずに素通りした。普段とは全く異なる様子に男は首を傾げた。王は急ぐようでも、機嫌が悪いようでもないのに、無視されるのは初めての経験であった。それどころか真っ直ぐ歩くようではなく、左右にフラフラと揺られては遠退いていく。不審な面持ちになりつつも、日々の生業へと埋もれていった。
それからもエイデンはさ迷い、城内を無作為に徘徊し続けた。やがて倉庫の傍に差し掛かると、メイドたちの声が聞こえる様になるのだが、彼の耳には一切響かなかった。
「それじゃあお皿と壺、隣に移しておいてね」
「はい、シエンナさん」
「すっごくお高い物らしいから、くれぐれも傷には気を付けてね」
「わかりました!」
その言葉とともに、倉庫からは積み上げた皿を運ぶ女と、大振りな壺を抱き抱える女が回廊へと現れた。そこへエイデンが先程と変わらぬ調子で通りがかった。予期せぬ通行人に驚いたのは、皿を運ぶ方だ。
「ああっ、大変!」
「どうしましょう! 一枚あたり3万ディナもする希少なお皿が、上から崩れて床に落下しようとしています!」
下働きに徹底された報・連・相は芸術の域にまで達しており、実況も同然であった。悲痛な叫びを耳にしたシエンナは野獣にも似た疾走により、皿の山を崩壊から救った。値千金にも勝る活躍ぶりは、両手足だけでなく、口や首なども総動員することで成し遂げたのである。
「あっぶないなぁ。気を付けてって言ったばかりじゃないの」
安堵と怒りを混ぜ合わせたような口調で、シエンナが叱りつけた。2人は、特に皿担当の方などは小さく縮こまってしまう。
「すみません。陛下がニュウッと角からいらっしゃって」
「陛下が?」
シエンナが左右を見渡すと、やや離れた所にその背中を見た。彼は僅かな時間のうちに、壁に掛かった絵画を肩にぶつけて落とし、踏み抜いてもなお歩き続けた。曲がり角を行けば、メイドの悲鳴とともに金属の落下音が響き渡る。罪人が誰かは明白であった。
「ごめんね。あなたは何も悪くないわ。気を取り直して、お皿と壺だけ移しておいてくれる?」
「はい、わかりました」
「アタシはしばらく外すから、戻るまで休んでて良いわ」
「どちらへ行かれるんです?」
「ちょっと処刑に」
「しょっ……!?」
後輩たちの言葉も聞かず、シエンナは風よりも早く駆けた。すぐさま攻撃対象を捕捉。滑り込むようにして前方へと回り込み、かち上げるようにして龍の拳を唸らせた。
「このカス貴人が!」
「何をする!?」
エイデンはノーガードで吹き飛び、城の壁に激しく叩きつけられた。地震にも似た揺れが辺りに巻き起こすが、当人はほぼ無傷のままで立ち上がった。
「いきなり襲いかかるとは。血でも騒いだか?」
「違います! 陛下が無法を働くから制裁したんです!」
「無法だと? 何の話だ」
「そこまで言うなら振り返ってくださいよ、ホラ!」
シエンナが被告の両肩を掴んでグルリと半回転させ、その罪を明らかにした。そちらはというと、ちょっとした惨事になっている。
踏み抜かれた絵画の損傷は激しく、修復は絶望的だ。水瓶も割れてはいないものの、中の水を盛大に撒き散らし、絨毯を大きく濡らしてしまった。
更に来た道を辿ったなら、ドアノブの幾つかがへし折れ、窓もそこかしこに亀裂が入っているのが見えた。まるで風魔法の実験でも執り行ったかのような荒れ模様である。
「これはまた酷いものだ。一体誰が」
「陛下ですよ、ながら歩きした結果こうなったんです!」
「ふむ、そうか。だが王命により無罪だ」
「なるほど。今日はトコトンやる気なんですねコノヤロー」
龍の拳が乱れ打ちになる。しかしさすがは魔王。来ると分かっていれば耐えるのも難しくはなく、涼しい顔で全てを受け止めた。
それからしばらく。先にへばったというか、付き合うのが馬鹿馬鹿しくなったのはシエンナの方だ。息を激しく乱し、汗を拭いながら声をあげた。
「そもそもですよ。何をそんなに、夢中になってるんですか」
「フフン。見て驚け、ニコラがこんなものを書いてくれたのだ!」
そう言って見せつけた紙には、年相応のイラストが紙面一杯に描きこまれていた。その余白を縫うようにして『おちさん、すし』となぞる辿々しい文字が見えた。
「おちさん……? 何ですかコレ、暗号?」
「阿呆めが。これは『心より敬愛するお父様へ。永遠に陰らぬ愛をあなたに』と書かれているのだ」
「えっ、本当? 本当にそう書いてますか!?」
これはいわゆる親馬鹿のスキルで、脳内変換と呼ばれる力であった。『おちさん、すし』とはすなわち『お父さん、好き』であり、それが転じて『心から云々』と解読されたのである。
娘から初めて贈られた手紙は、真っ直ぐな気持ちに満ち満ちていた。それがエイデンの親心を煽り、四六時中眺めるという極端な行動に導いたのだ。
「よっぽど嬉しいみたいですね」
「そうなのだ。もう何というか、とにかく嬉しい」
「それはともかく、ちゃんとしてもらえます? ながら歩きは止めてください」
「断る。父子の仲を容易く割けると思わん事だな」
「親子仲は別にどうでも良いです。問題は、いちいち備品が壊れる事です」
「それがどうした」
「クロウ様がめっちゃキレますよ。ただでさえ先日、大変な目にあったのに……」
「うむ。誠心誠意、解決に乗り出すべきだな。ちょっと手伝え」
「えっ、離してくださいよ。まだ仕事が!」
エイデンは拒絶する声を無視して、人気のない部屋へとシエンナを連れ込んだ。そんな言い回しをするとどこか含みのあるように感じるが、ただの相談事である。この2人は今になっても色気の無い関係性を保ったままだった。
「さてと。これ以上クロウに心労をかけぬようにしたい。どうしたら良いだろうか」
来客用の部屋でエイデンが切り出した。今現在は未使用であるため、物が雑然と散らかっている有様だった。人目を憚る話題でも無いだろうにと、シエンナは呆れた気分になり、それが返事にも現れた。
「どうしたらって、手紙を持ち歩かなきゃ良いでしょうに。額縁にでも飾ったらどうです?」
「無意味だな。額縁ごと持ち歩くようになるだけだ」
「なんで誇らしげに言うんです?」
「その案は無しだ。別のものを頼む」
「はぁ、金庫にしまうってのはどうですか」
「ふふ。それも同じく無意味だ。金庫を片手に歩くようになるだろうな」
臆面もなく言い放つ言葉に、シエンナはやはり苛立ちを覚えた。こんな男に『阿呆』呼ばわりされた事実も遅れて押し寄せ、怒りを助長した。
「どうした。もう少し現時的な案を出さんか」
「マジで面倒臭い……。だったら小型の金庫じゃなくて、備え付け式のものにしたら」
「ダメだな。盗難を心配して、頻繁に中を確認する羽目になる。朝も夜もひっきりなしに」
「誰も盗んだりしませんよ。大金になるってんなら話は別ですが」
「理屈ではない。嫌なものは嫌なのだ」
「テメェは二度と叡智の王を名乗るな」
埒が明かないとはこの事だ。シエンナが幾つもの提案を重ねるのに対し、エイデンは何かと理由をつけて断った。
そしてとうとうサジは投げられた。最後とばかりに出された提案は、これまで以上にぞんざいな口ぶりであった。
「いっその事、縫い付けちゃえば良いんじゃないっすか」
「縫い付けるとは、私の胸にか? それとも額か?」
「サイコパスかよ。服に決まってんでしょう」
「ああ、そっちか」
「選択の余地なんか無かったですがね、普通はね」
「それは悪くない案だ。検討しよう」
「さいですか。んじゃまぁ頑張って」
そそくさとシエンナが立ち去った後、エイデンはしばらくの間考え込むのだが、結局はそれを採用する事にした。
その日を境に、エイデンのながら歩きはパッタリと収まった。例の手紙はローブの裏側にしっかりと縫い付けられており、凝視する機会が減ったのだ。ちなみに手紙には防護魔法がかけられており、布や肌で擦れたとしても劣化する心配はない。更には勢いあまって防御魔法まで重ねがけしたので、世界屈指レベルの硬度を授けてしまったが、エイデンにとっては些細な話なのである。
色褪せさえしなければ、それで良いのだ。娘からの手紙も、培った絆も。




