第59話 寂しくない背中
あれからレイアは無事に地上へと舞い降り、滞りなく具現化できた。服装は生前のものが表示され、雑に整えた髪型もティアラが添えられたお陰で、体面を保つことに成功する。
「あぁ、ニコラ。私のニコラ……!」
日頃からつぶさに眺める愛娘は、昨日と変わらない寝姿である。それでも体温に、肌の柔らかさに触れる度、涙腺はしきりに緩むのだ。
「見て。1年でこんなに大きくなってるの」
レイアはニコラと手を合わせた。手首を揃えたなら、指先が掌の端にまで届こうとしている。一回り分の成長が読み取れるようだ。
「もはや赤子とは思うまい。立派な幼児だ」
「本当よね。ちょっと前まで、ミルクを欲しがって泣いてたのに……」
夫婦揃って視線を注ぎ続ける。2人が口をつぐめば、聞こえるのは安らかな寝息だけだ。伸び伸びと育つ子を、喜びと、一抹の寂しさをもって受け入れた。
「知っているとは思うが、姉が増えたぞ」
「メイちゃんよね、この子も素敵よ。真面目というか、真っ直ぐで、責任感もあって」
「勝手に家族に加えてしまったのだが、良かっただろうか」
「もちろんよ。これからも、ニコラと仲良くしてくれたら嬉しいわ」
愛娘の隣で眠る少女も深い眠りへと落ちていた。行き倒れの頃に比べると、別人のように血色が良い。普段の様子を覗き見だのしなくとも、良い暮らしを送っている事は明らかである。
「ところで1つ聞きたいのだが、冥界で人族に出会うことはあるか?」
「全く無いわね。どうかしたの?」
「招魂の宵に、メイの両親も呼べないかと考えている」
「……難しいんじゃないかしら。ニンゲンは魔族とは違って、死んだ魂は精霊界へと向かうの」
「そうか。そもそも領域が違うのか」
「ごめんなさい。私じゃ力になれないと思うわ」
「構わない。何か良い伝手が出来たときに教えてくれ」
「それはもちろん。約束するわ」
話が終わり、ひとしきり親子の再会を楽しむと、場所を移した。行き先はバルコニーである。3回目の宵にして、早くも定番が生まれつつあった。
──さて。ここで言わないと。
回廊を行く間、レイアは改めて気持ちを固めた。エイデンの育児や政務を日常的に支え、寂しさを埋め合わせる人を探せと、迫るつもりでいる。
幸いな事に宵のうちは2人きり。むやみに邪魔する者は居ないのだ。
「さてと。今年も代わり映えが無くて済まない。何かと忙しくてな」
エイデンはバルコニーに立つなり、小さく詫びた。
「良いの。こうして時間を用意してくれるだけで嬉しいから」
レイアにとってはむしろ好都合だ。場合によっては説得の折りに使えそうであるからだ。多忙を証明する材料として。
「だが、丸っきり同じというのも芸が無い。なので、口にするものには拘ってみた」
その言葉と共に指し示されたのは、テーブルを彩る菓子である。タピオに用意させた料理は遠目で見ても美しく、歩み寄ってみれば魅了される程の力があった。
新作のパフェ・アソートは目でみるだけでも楽しく、心を激しく弾ませた。大皿に慎ましく乗るクレープも、中身を想像するだけで口中にヨダレが溢れ返った。そして見るべきは皿の端。ベリーペーストで『おかえりレイア』と描かれているのである。
これにはレイアも有頂天だ。先程まで秘めていた悲壮な決意など吹き飛び、料理に飛び付かん程に受かれてしまう。
「これ、食べていいの? 本当に食べて良いの!?」
「もちろんだとも。その為に用意したのだ」
「わぁぁ! 向こうで眺めてる時から、食べたくて仕方なかったの!」
言うが早いか、レイアはクレープをナイフで切り分け、フォークに乗せた。それを持ち上げ、口の方へ運ぶ。顔が緩む。恍惚という言葉がこれ程に似合う場面もそうあるまい。やがて舌に乗り、口が閉じ、咀嚼。
「おいっしぃーー! あんまぁぁーーいッ!」
「そうか。そんなにもか」
「何コレ何コレ! めっちゃくちゃ美味しいよ! タピオさんって天才なんじゃないの!」
「良かったらパフェの方も。今日のために作って貰ったのだ」
「えへへ。これも気になってたんだぁ」
スプーンをパフェに突っ込み、それを頬張る。その途端に驚いたように両目を見開き、顔を大きくのけ反らせた。傍からすると殴られたようにも見えるが、彼女はまさしく、異文化の発明品に圧倒されているのである。未知なる概念に襲われたと言えなくもない。
「おいっしいーーッ!」
静けさを保つ夜空に高らかな声が響き渡る。心なしか、あちこちで煌めく星々に輝きが増したようにも見えた。何らかの魔法がかけられた錯覚を覚えるが、そんな効果のものは存在しない。
「うんまいコレうんまいコレぇ! タピオって人は天才なんてもんじゃないわ、生ける伝説よ!」
そう叫びつつ、フォークを握りしめた手を激しく縦に振った。テーブルに拳をぶつけかねないのだが、辛うじて残された理性が際どくも制御した。
これまでの一部始終をつぶさに眺めるエイデンは、柔らかな笑顔を湛えていた。その表情を崩さぬままに、彼は対で用意した自身の皿をレイアの方へと突き出した。
想定しない事態に、歓喜の声がひととき止む。
「えっと、これは?」
「私は夕食を食べるのが遅すぎたらしい。腹が空いてない」
「と、いう事は?」
「これも食べてくれて構わない」
「本当!? やっ……」
飛び付きそうになるのを、両手にナイフとスプーンを握るという万全体勢で挑もうとするのを、どうにか寸前に阻止。浮いてしまった腰を再び席に戻した。
──いけないいけない、今日は大事な話があるんだから。
慌てて咳払いを挟んで、真面目な空気を作る。遅れて出る小さなゲップ。今のは関係ない。口許を滑らかな動作で拭い、十分な空白時間をおき、雰囲気の変更を成し遂げようとした。
したのだが……。
「最近、ニコラがお絵描きのような事を始めてな。それをまとめた物を用意したぞ」
「えっ!? 見るぅーー!」
強固なる意思も娘の画集には勝てなかった。厚めの紙に大きく、そして太く引かれた色とりどりの線。染料と蝋で出来た画材によって描かれたものは、幼女の天真爛漫さを余さずに表現していた。
「これは、エイデンかしら。その隣にいるのは……」
「恐らく、シエンナだと思う」
「そうね。ヘッドトレスみたいなものが描いてあるもの」
自分が居ない。次を見て、その次を見ても、母親の存在は微塵も無かった。ニコラとは赤子の時に死別したのだから当然だ。しかし、こうして現実をまざまざと突きつけられると、うら若い心に強い痛みが走った。
それを知りつつも、これから再婚を勧める。エイデンの日々を支え、ニコラが甘えたいだけ甘えられる人を探せと告げるのだ。自分以外の誰かを。
「ねぇ、ニコラも大きくなって来た事だし、色々と手に余ってるんじゃない?」
ニコラの画集を手渡しつつ、静かに告げた。それを受けるエイデンの眼が僅かに細められる。
「問題ない。今も、そしてこれからも」
「でもね、この前も大変だったでしょう。書類仕事に集中できなくて」
「確かにあの時はいくらか手を焼いた。それでも、最終的にはまとまったのだから良しとしている」
「あなたには必要だと思うの。傍で勇気付けて、時には助けとなる存在が」
エイデンは何も答えない。否定も肯定もしないまま、ただ瞳を向け続けるばかりだ。レイアの言葉を待っている。そんな顔をしていた。
「だからね。あなたには再……ッ」
言葉が喉を通らない。肝心の『再婚』が出てこず、シャックリにも似たような発言が続いた。恥ずかしいやら、情けないやらで、みるみるうちに顔が真っ赤に染まる。それでも喉は弁でも閉まるかのようにして、決定的な発言を阻止し続けた。
「さい、さいっこんを……」
次第に涙が込み上げてきた。それが彼女が持つ心の壁を溶かし、体面をも端に追いやった。そうして飛び出したのは、本音一色の、ビビッドな感情そのものだった。
「やっぱりヤダ! 再婚なんかしないで!」
言葉と同時に、堰を切ったように涙を流し、声をあげて泣いた。その声に答えるエイデンの口調は、変わらず凪ぎの様な穏やかさを保っている。
「もとよりそのつもりだ。今さらになって、どうした?」
「だって、エイデンが時々寂しそうな顔をするから!」
「そんな顔をしていたのか」
「そうよ、見ていて辛くなるくらい! もし私が生きてたらそんな想いさせないし、料理もニコラの世話も頑張るし! 書類のお手伝い……は厳しいけど、とにかく楽しい思い出とか、いっばい作れるし!」
「そうだと思う。しかし、口にした所で虚しいだけだ」
「分かってるよそんな事! 自分には出来ないから、別の誰かにお願いしようかなって、そう思って……」
膨らめば萎む。世界の条理に違わず、レイアの声も消え入りそうなまでに小さなものとなった。
「ごめんなさい。こんなに早く死んじゃって、ごめんなさい……!」
その言葉は、遺された家族に詫びるようでも、自身に降りかかった悲運を呪うようでもあった。それからは、さめさめと泣く。涙で心の傷を埋めようとして。あるいは無力なる死者が、心の赴くまま悲嘆に暮れようとして。
孤独に苛まれた小さな肩が、寂しく打ち震える。その身体を大きな腕で包み込んだのは、それよりも大きな愛情を胸に秘める男であった。
「あまり思い詰めるな。そうまでして自分を責めなくとも良い」
「エイデン……」
「確かに時折感じる事がある。この場にレイアが居たならと。だが決して、孤独に苛まれている訳ではない」
「本当に、そう思うの?」
「ニコラが毎日のように喜びを与えてくれる。メイがニコラの遊び相手になってくれる。シエンナをはじめとした、城の者たちも私を支えてくれる。だから、新しいパートナーなど求める必要は無いのだ」
「でも、だって……」
「今この場で誓っても良い。私が生涯、伴侶とするのはレイアただ一人であると。お前だけがこの世で唯一の妻であり、母親である、と」
「……ありがとう」
それからもレイアは泣き続けた。愛する夫の胸の中で、それこそ子供のように。しかし、その涙に冷たさは無い。安堵の心から溢れた、実に温かなものだった。
「ごめんね。せっかくの夜に泣いちゃって。台無しよね」
「そんな事は無い。むしろ喜ばしいとすら感じている」
「どうして?」
「実を言うと、昨年の宵に私も泣いたのだ。朝日を恨みがましく思いながら」
「そうだったの? 知らなかったわ」
「だからお互い様だ。1年越しとは言えど、こうして気持ちが重なりあった事を嬉しく思う」
レイアの顔は耳まで赤くなった。しみじみと涙の事に触れられるのが気恥ずかしいからだ。こうして背中から抱きしめられている事は幸いである。顔を見られないよう、両肩に回らされた腕に手を添えて、頭を相手の胸元に預けた。
「もっと素直になるんだったなぁ。こんなに気持ちが楽になるんだもの」
「晒け出すべきだろう。夫婦なのだから」
「それは難しかったわね。だってあなた、知的で優雅な女性が好きでしょう?」
「特別そういう好みはない」
ここでエイデンがバッサリいく。想定外の言葉に、レイアも二度見を披露してしまう。
「ええ!? そうなの? もしかして私の勘違いだった?」
「正直のところ初耳なのだが。なぜ誤解が生じたんだ?」
「いや、なんていうか、私が知的に振る舞うと喜ばれた気がして……」
「それは言うなれば、背伸びをしている様子が可愛らしく感じるからだろう」
「クッ……。今のは褒められたと取るべきか、バカにされたと思うべきか!」
「褒めた褒めた。だから笑ってくれ」
「あのねぇ……。こっちは100歳も年下なのよ? ちょっとくらい大人の女性ぽくしようって思っても良いじゃない!」
ついには頬を膨らませて拗ねる。それを無骨な手のひらが、まるで宝石でも撫でるかのように動く。
「まぁそう怒るな。別の話をしよう」
「はい、何ですかイジワルさん」
「冥府ではいつも何をしてるんだ?」
「ええと、1日の半分くらいは寝て、起きたら散歩かな。それからたまにお供え物を食べて、友達と喋ったりもする」
「そうか。馴染みの者が居るのは楽しいだろうな」
「コーエルっていうおっきな女の人なんだけどね、凄くお世話になってるの。まるでお姉さんみたいな人で……」
今宵も他愛のない話で過ぎていく。レイアはいつもに増して饒舌だったのは、何かが吹っ切れたお陰であるらしい。昨年以上に豊かな表情で、時には身振り手振りを交えながら、話に没頭した。エイデンは耳を傾ける一方だが、その立ち振る舞いを眩しいような気持ちで眺め続けた。
そして迎える朝焼け。空の端が赤く焼け、新しい1日を告げようとしていた。
「ねえ。ひとつ言っても良い?」
レイアがエイデンの腕に頬を寄せて、告げた。
「どうした、改まって」
返事は優しく、耳元で囁いた。
「愛してる」
いくらか軽い口調だったが、気持ちまでそうとは聞こえなかった。
「私もだ。誰よりも愛している」
エイデンの言葉はどこまでも優しげだ。その言葉の裏に満ち足りた物すら感じさせる。
「誰よりもって、ニコラより?」
少し悪戯心が混ざりこむ。
「……その問いは難しい、それも極めて」
エイデンは真面目にも、心に天秤を用意した。その慌てた様子が笑いを誘い、レイアが吹き出した。
「あはは、そこまで真剣に考えなくても!」
「愛するがゆえに嘘はつけん」
「そうね、そういう所あったよね。変に頑固な所」
「自覚は無いが、そうなんだろうな」
「ふふっ。今回はいつもよりも楽しかったわ。気分も清々しいし」
「それは何よりだ」
「また来年会いましょう。約束ね」
「もちろんだとも。必ずだ」
視線が重なると、どちらからでもなく顔を寄せた。そして重なる唇。互いの体温が、吐息がぶつかり合ううちに、両者を朝日が照らし出す。エイデンが抱きすくめていたはずのレイアは、今や薄地のヴェールだけとなっていた。
「しばしの別れだ。また会おう」
所縁の品に呟くなり、東の空を見上げた。赤々とした太陽が、日頃と変わらぬように昇ろうとしている。それからは空模様を一瞥しただけでバルコニーを後にした。光を浴びるエイデンの背中は、いつもに増して逞しさを振り撒いていた。




