第56話 適材適所の重み
エイデンの居室で紙をめくる音がする。外は気持ち良い程の快晴であるのに、部屋にこもって書類と向き合うのは、いよいよ国政が回らなくなった為だ。もはや育児がどうのという口上が通用しない程にまで、人員が不足しているのだった。
「財源は1,141,154ルードと貴金属か。意外に少ない」
旧シャヨーカの地に新政府を樹立し、法令から軍制を整えるだけでも金が要る。他にも官僚の住まいやら、エイデン軍が常駐する兵舎だのと、必要なものを数え上げればキリが無い。
それらの出費には旧領主トルルードが遺した金品を充てる事にした。しかし過酷な税制を敷いていた割には、物足りない蓄えであった。神水晶の開発とやらには相当な心血を注いだのだと窺い知れる。
「一気に物事を進めるには、金も工人も足らんな。取り急ぎ必要なものだけ着手させるか」
エイデンが紙束と向き合っていると、視界の端からニュウッと小さな手が伸ばされた。握った羽ペンにはインクがバッチリと染み込んだ状態である。
「おはなー、さいたー」
「ダメだニコラ。落書きをしてはいけない」
「えぇーーっ!?」
そう、書いてはいけない。たとえウッカリでも、ご機嫌なイラストを添えてはならない。それがもし仮に、元老院へ送付する返書であったなら一大事だ。相手側から深読みに深読みを重ねられ、険悪な間柄は完全に途絶するかもしれない。そうなれば戦争すらも起こりうる。魔界とはいずれ決別するにしても、今でない事は間違いないのだ。
「それにしてもクロウの奴め。私に政務など押し付けおって」
王が頼りにする重臣達は不在である。彼らは今現在、シャヨーカの地にて粉骨砕身にアレコレしている真っ最中だ。その結果として自国の仕事にまで手が回らなくなり、エイデンが役目を肩代わりしているのである。
「工人ひとりにつき、日毎に120ルード。長時間拘束する場合は割り増しで払うべし。ディナに換算するといくらだ……?」
一覧表で細かな数字が躍り狂う。読み解くのを輪をかけて困難にしているのは、通貨の隔たりだ。魔界で流通するディナと、地上で扱われるルードでは貨幣価値が大きく異なる。慣れない概念を書面で伝えられたとて、エイデンにはピンと来ない。ただでさえ彼は経済観念が怪しいのだから。
「庁舎建設の工数はおよそ100日。休日保証法の適用で……クッ、眼が滑る!」
文字が、数字が頭に残らず、目にした傍から消えるようだ。彼は一応読書家であり、活字には日頃から親しんでいる。難解極まる魔術書すら苦もなく読み解けるのに、今はどうしたことか。全くと言って良いほど頭に入らないではないか。
そこはやはりエイデンの気質によるものか。興味の持てない分野には、とことん気持ちが向かない性質なのである。
「土台は石材。自国より供出、支払いはディナ換算。壁材はシャヨーカ近辺の森より伐採。製材も同国の業者に委ね……」
文字を追うごとに頭痛がした。こめかみより痛みを発し、やがて眉間と連なるように同期する。ちまっちまとした言葉の乱舞は、もはや暴力そのものに感じられた。
終には気力が底を尽きる。途方もない疲労感が、逃げの一択へと誘った。
「内政関連は後回しだ。防衛計画を先に進めよう……」
卓上の端に寄せた、別の紙束に視線を移そうとしたその時だ。膝上のニコラが唐突に伸びをし、机を激しく蹴飛したのだ。その弾みで無数の紙が舞い散り、床上で混ざり合う事態を招いてしまった。
「あぁ、何という事だ……」
育児と政務の相性は悪すぎた。ニコラの世話と同時進行に政策を見極められるほど、エイデンは器用ではない。
サポートだ。ともかく誰かのサポートが必要なのだ。室内を見回し、目当ての人物に向けて叫んだ。
「メイ、頼む。少しの間だけニコラと遊んでくれ!」
「すみません。今ちょっと良いところなんで」
メイは顔も上げずに断った。エイデン秘蔵の書物がよほどに面白いらしく、部屋の隅に突っ立ったまま動こうともしなかった。
ちょっと良いところ、という意味は、同じ読書家として理解できてしまった。たとえば空腹や便意が強かろうとも、次を読み進めたくなる感覚。眠たい眼を擦りながら『あと1ページだけ』を繰り返すうち、夜明けを迎えた時の独特な達成感。
恐らくメイは、似たような状況に陥りつつあるのだ。同じ愛好家として、妨げるのは無粋に他ならないと思えてくる。
「仕方ない。ならばマキーニャ!」
「あぁ御子様が楽しそう、こんなにも微笑んで。眼福、眼福」
「おのれ。すっかり骨抜きにされおって……」
状況は刻一刻と混迷を深めていく。室内を縦横無尽に駆けるニコラが、散らばる書類を気にも留めずに踏み抜く。その姿を感激したように眺めるマキーニャ。そんな騒がしさを余所に我関せずと、置物のように動かないメイ。
もはや打つ手なし。この始末をどうつけるかと考えるも、頭痛が邪魔をしてまとまらない。枯れ果てた井戸のように、名案のひとつすら浮かばず、ただ途方に暮れるばかり。
そんなエイデンの窮地を救ったのは、ニコラの溢す些細な一言であった。
「みんな、おっけー。みんな、いいこー」
その言葉に電撃のようなものを覚えた。そして閃く。キッチリ精査などしようとするから手間なのだと。あくまでも代理の仕事なのだから、真面目に務める必要はない、という暴論に想い至ってしまったのだ。
そう割り切れば楽である。エイデンは床に書類を重ね、僅かにズラして階段上にすると、上から承認印をひたすらに押していった。全部イエスのオールオッケー。イエスイエス、オッケーのゴゥアヘッド。
「よし。全部片付いたな!」
重責から解放されたエイデンの心は、かつてない程に晴れやかだった。それこそ、窓の向こうで燦然と輝く太陽に勝るとも劣らない。
こんな陽気なのに部屋に籠るとは勿体ない。スッカリ腰の軽くなったエイデンは、滑らかな口調で遠出に誘うのだった。
「ニコラ。海に行くぞ、海」
「うみ? やったぁーー!」
「聞いたかメイ。支度を急げ」
「いや、もうちょっとだけ読み進めたい……」
「良いから外出に気持ちを切り替えるんだ。続きはまた帰って来てからにしなさい」
「ああ、そんな! せめてもう少し、髄液の抽出法だけでも読ませてくださいーーッ!」
微笑むニコラを右脇に、暴れ叫ぶメイを左脇に抱え、窓から外へと飛び立った。そして北岸の水辺で戯れる。波打ち際で、白く広大な砂浜で、たまに木陰での休みを挟みつつも遊び呆ける。
この時のエイデンは常に笑顔だった。見ていて気持ちよくなる程に、晴れ晴れとした笑顔を浮かべていたとか、そうで無いとか。
そのような日々が幾日か過ぎると、クロウたちがエイデン城に帰還した。不眠不休による働きぶりにより、予定が前倒しされたのだ。そんな彼らを出迎えた光景は、変わり果てた王国は、思わず絶句してしまうものだった。
「少し見ないうちに、何があったのだ……」
居住区の一角は区画整理が始められ、何軒もの家屋を立ち退かせた上で、大劇場が建設されようとしていた。レーネが面白半分で出した企画が、王の承認を得て実行に移されたのだ。
他にも、城門前には最新鋭の兵器がズラリと並び、黒鉄の真新しい色味が出撃を迫るように輝いている。大通りの噴水は河水に代わってワインが流され、辺りは酔人で溢れる始末。
溢れるといえばタピオの店も同様だ。小さな店に収容しきれない果実が窓やカウンターから転げ落ち、通りにまで漏れ出ていた。それだけならマシなのだが、奇っ怪な果実は臭いが強烈だった。例えるなら腐敗臭で、付近の住民とちょっとした騒ぎを起こしていた。
「クロウ様。これは一体」
「私の責任だ。魔王様に内政など任せた、私の責任なの……だ」
「あっ! お気を確かに!」
クロウは思わず膝から崩れ落ち、周りに支えられる。連勤明けの体には厳しすぎる光景だったのだ。それは覚醒を昏睡へとすり替え、夢の世界へ逃避させるほどの威力を孕んでいた。
翌朝。地獄に舞い戻ったクロウは、諸々の計画に手をつけた。無謀な案件を炙り出しにし、おっつけて中断を命じた。ストップストップ急ぎ中止、ダメダメダメの要検討。そうまでして、致命的な問題の大半を解決にこぎつけた。国がひっくり返りかねない程の事態を寸前で止めたのである。
これぞまさに第一功。国の柱石クロウの面目躍如といったところか。それ程の存在感を示しても、決して鼻にかけたりはしない。ただ内心で、「王に内政を任せるのは止めよう」と決意しただけであった。




