第55話 全てはここから
シャヨーカの主要な街に降り立つのは、エイデンにとって久しぶりだった。お忍びで訪れた前回とは異なり、今度は存分に耳目を集めている。住民のほとんどが初対面と言って差し支えない。
「諸君。私が魔王エイデンである」
壇上から見下ろす大通りは人で溢れ返っていた。それでも水を打った様に静かなのは、活気が底冷え近くまでに落ち込んでいるからだ。
「既に聞き及んでいるだろうが、シャヨーカを統治する者は居ない。私が武力にて追い出したからだ」
言わずもがなの前置きである。息を飲む数は極めて少ない。
「そのような大業を為したからには、当然責任が伴う。私には、諸君らに幸福をもたらすプランがある。その手始めとして用意したのが、税制などに触れた先日の布告だ」
人々の顔は、眼はどこまでも重たい。物言わぬ聴衆の恐怖が重なりあう事で膨らみ、侮りがたい気配が充満する。まるで、一個の巨大な魔物の幻影を見るようだ。今ばかりは気が抜けぬと、エイデンの心が引き締しまる。
そこでふと、胸元に抱くニコラの反応が気になり、軽く眼を向けた。娘は気圧されたようではない。それどころか、何かを判別しようとする、探究心に溢れた瞳を群衆に向けていた。
演説はこのまま続行すべき。そう確信した。
「この新法には疑う者も多いだろう。いつか人々を喰らい尽くす為の方便であると、警鐘を鳴らす者も散見された。だが聞いて欲しい。まず私が言いたいのは、魔人はニンゲンなど食わぬという事だ」
これには衝撃を覚えたらしい。あちこちから、どよめきが起こる。
「ニンゲンを食らう魔族も居るには居る。だが、そやつらは魔人も同様に喰らう。そんな危なっかしい連中と共に暮らす訳があるか。魔界でも僻地に追いやられるような扱いだぞ」
エイデンは一度口をつぐんだ。数多の視線が寄せられるのが分かる。そうして頃合いを腹で測ると、一際明瞭な調子で叫んだ。
「すなわち、お前達を食い殺す者は、この地上に存在しない事になる!」
エイデンの口は滑らかだった。討論が苦手な訳では無いのだ。
群衆の騒ぎはさらに大きくなり、波紋の様に伝わった。通りの空気も序盤とは打って変わってざわめきに満ちていく。ここが機であると睨み、叩き込んでいく。
「良いか、私は人魔が続けた争いを終わらせたい。数千年にも及ぶ戦に幕を引きたいのだ。その前途を占うのが、このシャヨーカ統治である!」
熱の籠る言葉がざわめきを吹き飛ばした。人々は驚愕の色をもってして、エイデンの語る未来を聞いた。
「もう止めにしよう。殺し殺され、奪い合う日々を! このシャヨーカの地から、我ら手を取り合い、平和の軌跡を紡いでいこうではないか!」
「騙されるな! 魔族なんか信用するな!」
エイデンの声を遮って、反論が飛んだ。それを追いかけるようにして、そうだそうだと、いくつかの同調が見られた。
声の主は人垣に埋もれている。それでも目ざとく特定したエイデンは、散策でもするような素振りで宙を飛んだ。周囲を威圧しない為だが、それでも確かな恐怖を誘発し、行く先々で群衆が割れた。
着地し、壮年の男と向き合った。人垣は身を隠すのに好都合だが、同時に逃げ道も塞がれるのだ。
「先程の声、貴様のものだな?」
大柄で筋肉質な男だった。風体は鍛冶職人。しかし図体に似合わず青ざめた顔で、足も凍えたように震えさせている。そんな男が吐き出した言葉は、酷く掠れたものだった。
「見たか。ちょっと反発したくらいで、この有り様だ。屈したらおしまいだ、すぐに死人の山が出来るぞ!」
その言葉に周囲が強い恐怖心を抱いた。ついさっきまで順調であった説得も、振り出しに戻されたような気分になる。
「どうしたよ、ホラ。オレっちが邪魔臭いだろ。だったら殺しゃあいいだろう、惨たらしくよぉ!?」
男が頬を痙攣させながら叫ぶ。敵意と恐れの入り雑じる独特な表情だ。エイデンは思わず見とれ、感心してしまう。
実に精度の高い演技だと感じたからだ。
「中々の芝居だ。きっと訓練の賜物なのだろう。しかし、肝心である心の根までは怯えていないな。むしろ無感情なほどに冷静だ」
「急に何を……」
「両手から鉄の臭いがする。鍛冶職人であれば当然だ。しかし、その性根に染み付いた血の臭いまでは隠せていない」
「妙な言いがかりはよせ。オレっちはこの街で長らく鍛冶屋を営んでるだけの、つまんねぇ男だよ」
エイデンは男の言葉を最後まで聞かず、両目を大きく見開いた。そして青みがかる瞳を一瞬だけ赤黒く光らせると、得心したように頷いた。
「そもそもだ。皮膚にまで魔力が通っていない。何らかの手段で全身を覆い隠しているからだ」
「なっ。何を根拠に……」
「貴様、何者だ?」
エイデンが正体を改めようとして手を伸ばす。しかし、虚しく空を掴むだけで、服の袖すら触れられなかった。
眼前の男はどうしたか。彼は一般人とは思えぬ跳躍をし、一息で屋根まで昇ってみせた。ただ突っ立っているだけの姿からも、極めて過酷な訓練を積んだ後が窺えるようだ。
「上から失礼、エイデン殿。私はセントラル王に仕える者にございます」
「やはり只者では無かったか。名を名乗れ」
「敗者にそれを尋ねるとは。どうか、ご容赦いただきたい」
恭しく頭を下げる男は、随分と細身であった。歳も老齢に差し掛かった頃で、装いも暗い色の燕尾服である。この姿の人物が、筋骨隆々な鍛冶屋に化けていたのかと思うと、エイデンは拍手したくなる衝動に駆られてしまった。
しかし、状況がそれを許そうとはしない。
「シャヨーカの民よ。我がセントラル王の命を伝えておく」
セントラルは縁もゆかりも無い異国である。本来であれば命令する権利など無いのだが、それを押し通せるだけの権力が、かの国にはあった。人族の頂点に立つ覇権国家だからこそ為せる業なのだ。
「即刻武装を解き、セントラルに降伏せよ。間違っても魔族の配下に甘んじてはならぬ。もし、この警告に従わねば……」
男は声を落とし、途中で言葉を切った。人々の意識をより強く引き付ける為だ。
「皆殺しにするぞ! 総勢100万の軍勢が街をひと呑みにし、老人から赤子に至る全ての民を、1人として余さず殺し尽くすだろう!」
辺りは不気味な程の静寂が訪れた。咳払いすらも聞こえないほどに。
「しかと、申し伝えた。くれぐれも道を違えず、賢き選択を」
そう言い残すと、男は風のように消えた。おぞましい程の殺意だけを残して。
「聞け、皆のもの。我が軍はセントラルなどに遅れを取らん。先日の戦も魔族の完勝であったのだぞ! 必ずや、この国を守り通してみせる!」
エイデンが約束するも、反応は鈍かった。誰もが、先程の男が放った強烈な殺意に、心底怯えてしまったのだ。今は何を伝えても無駄でしかない。敵の企みを看破したまでは良かったが、相手の方が一枚上手だったらしい。
理知は恐怖に劣る。統治を為すのは畏怖の念。そんな言葉がよぎるのを、慌てて打ち消した。
ーーその手法では、近い未来に頓挫するのが目に見えている。
ではどうすれば良いのか。何をもってして、この場を治めるべきか。エイデンに答えの持ち合わせは無い。打開策は、思い付き程度の物さえ浮かばないのだ。
無策にも押し黙っていると、突如として、この大通りに歌声が響き渡った。舌っ足らずの、たどたどしい調子だ。
「さいたー、あかと、しろが、おそらにさいたー」
ニコラの声である。旋律と呼べる程の起伏はなく、リズムだけでようやく音楽だと判別できるものだった。しかし素っ頓狂とも言える遊戯が、事態を全くの別物に変えてしまった。
「あぁ、なんだろう。心が安らぐようだ」
「綺麗な声。いつまでも聞いていたいわぁ……」
これは単なる歌ではない。魔力の込められた、歴とした魔法だ。しかしレーネの得意とする魔唱術とも、どこか違っていた。それどころか、エイデンにとって初めて目にするものであった。
ニコラが伸びやかに歌い上げる。すると声に乗って、金色の粒子が舞い散り、辺りを包み込むようにして広がった。生まれては飛んで、消える事を延々と繰り返したのだ。
立て続けに数曲を歌い終えた頃、群衆は熱を帯びていた。割れんばかりの拍手と歓声が、にわかに通りを激しく震わせる。先程までの沈鬱な空気は影も形も消え失せていた。
「なんて尊い。なんて素晴らしい少女だろうか」
「ねぇ見た? 歌声に乗せて光の粒が飛んでいたのよ」
「きっとこの御子様は、光の精霊様が遣わした救世主に違いない」
「ありがたや。ありがたや。死んだ爺様にも聞かせてやりたかったぁ」
群衆は口々に、いや好き勝手にニコラを持て囃しだした。そうして出来たのはエイデン親子を中心に据えた人の輪だった。皆が一様に跪き、神聖なものを奉るかのような動きをみせた。
「やめないか! ウチの娘を無闇に崇めるな!」
「ありがたや、ありがたや」
「光の御子様。救世主様」
「と、ともかくだ。この地は私が治める。いずれ人を寄越すから、その時は協力するように!」
「歌を、もう一度歌を聴かせてぇ」
「触るな! 今日は終いだ!」
ニコラに伸ばされた手を振り払うようにして、エイデンは即座に飛翔し、帰城した。正直なところ腑に落ちない。しかし、彼の望む平和の一里塚は、確かに打ち立てられたのだ。
この地より、エイデンによる人魔終戦は始まる。奇しくも同じ時同じ場所で、ニコラの崇拝伝説も幕を開けるのだった。




