隠恋慕
黄色い菊がありました。それはそれは大輪の黄色い菊でした。
それを後生大事に抱える少女がおりました。そう、少女。たった一輪を抱える少女です。そこに大切なものがあるかというように。
学ランとセーラー服ばかりの放課後の教室で、少年はそれをちら、と見やりました。少年は少女の隣の席でした。少女は大切に大切に菊を愛でる少女に言います。
「それ、花瓶に挿したら? ほっとくと枯れるよ」
少年の指摘は至極真っ当なものでした。花は水がないと枯れてしまいます。もっとも、手折られたその瞬間から、花の命はなくなり、水に活けるのはただの延命処置にしか過ぎませんが。
しかし、少女は首を横に振りました。
「枯れないわ」
と言って聞きません。
大事に抱えている割に、変なことを言うやつだなぁ、と少年は思いました。花は水をやらなければ枯れるのは常識です。
けれど、と少年は考えてみました。少女が黄色い菊の花を大事そうにしているように見えるのは、もしかしたら少年の気のせい、思い込みなのかもしれません。外見がそう見えるだけで、少女はその花が枯れようが萎れようが、どうでもいいと思っているのかもしれません。
──いや、そう考えると、おかしなことがあります。
先程、花が枯れるぞ、と言った少年に対して、少女は何と答えたでしょう? ──そう、枯れないと答えました。枯れてもかまわない、なら別に不思議ではありませんが、枯れないというのはおかしな言動です。
形あるものがいつか壊れるように命という形あるものは死という形で壊れていく定めになっております。花が枯れないというのはつまり、その理に逆らっているとも言えるのです。
少年は放課後の人気のなくなってきた教室の中で自分の席に座ったまま、頬杖を突きます。視線の先には少女と黄色い菊。
隣に座る少女は帰り支度どころか、そこから動こうという様子すら見られませんでした。ただじっと愛しげに、慈しみのこもった目で黄色い菊を見つめていました。
それを見ながら、少年は暇潰しにつまらない憶測を並べ立て始めます。
そういえば、女という生き物は花を綺麗だ可愛いと言って愛でる習性があったな。もしかして、少女が黄色い菊に抱いているのはそういう幻想のようなものではないか。手折ってしまえばすぐになくなる儚さをいとおしんでいるだけなのではないか。
それはそれはつまらない発想でした。あまりにも陳腐でありふれた憶測です。我ながら、下らないことを考える、と少年は卑屈に笑いました。
そういえば、何故、少年は帰ろうとしないのでしょうか。ここは学校、既に放課。日も傾き始め、夕陽が煌々と教室をオレンジ色に染め上げています。教室に生徒の姿は少年と少女の他にはもうありません。みんな帰ったか、部活に向かったのでしょう。
少女にも言えることですが、部活に所属していないのでしょうか。もし、所謂帰宅部だとして、二人は何故さっさと帰宅してしまわないのでしょうか。
少年はここでまた、下らないことを考えます。下らない言い訳です。
少年は確かに帰宅部です。けれど、今、帰らないのは、なんとなく、少女の一挙手一投足が気になるからです。とは言っても、少年と少女はクラスメイトで、席が隣同士である以外に接点などありません。さっきかけた声ですら、席替えで隣の席になってから初めて交わした言葉であるかもしれないのです。
それくらい、希薄な関係だというのに、何が一挙手一投足が気になる、だ、と少年はまた卑屈に笑いました。いちいち卑屈なときに笑うのは、少年の癖なのでしょうか。
今度は少女がじっと少年の方を向きました。菊は大事に抱えたままでしたが、その存在をふと気にしなくなったかのように、じっと少年を見つめたのです。
「な、何」
無愛想な声だとは思いましたが、少年はいきなりこちらを見つめ始めた少女に問いかけます。仕方のないことでしょう。誰だって、いきなりじろじろ見つめられたら、不審に思うでしょう。しかも、それまでこちらにさして興味も示していなかったような人物に見られたら。
それに、少年は見つめられることに慣れていませんでした。少年はごくごく普通の家庭です。父が会社員で、母がパートをやっていて、今時珍しくもない一人っ子。家族とはそこそこに会話もしているし、内容によっては朗らかに笑ってだってみせます。
けれど、こうしてまじまじと目を見て話すことはありません。ただの軽い会話です。俯きながら、テレビを見ながら、手元で作業をしながらだって、会話はできます。ある意味希薄かもしれませんが、一般家庭の枠組みから外れるほど異常というわけでもありません。
そんな家庭で育ってきたからこそ、あまりじろじろ見られるのは得意ではありませんでした。故に、なんとなく、少女から目を逸らして、視線をさまよわせます。がらんとした教室の中に整列する机と椅子。緑色の黒板に、床から一段高く据えられた雛壇。雛壇の前、黒板の中央に教卓。黒板の脇、窓側には棚。色々な本が置かれています。廊下側は掲示板になっていて、時間割などが貼られています。その上方には校内放送を流すスピーカー。窓際に目を戻すと、ベランダの出入口の辺りに斜めに置かれた机があり、そこには名前もわからないピンク色の花が挿してあります。
ふと、少年は思いました。少女が菊を活けようとしないのは、もしかしたら、あの花瓶に花があるからかもしれません。
そう思い至ると、少年はがたりと音を立てて立ち上がりました。少女の目は疑問を持ちながら、少年の挙動を追いました。少年はそんな少女の目を気にしないためか、ずいずいと前の席へと乱雑に足を進めました。乱雑な割に、机にぶつかる様子はありません。
そのまま、机の方に向かい、花瓶に手を伸ばします。がっと豪快にピンクの花の茎を掴み、花瓶から引っこ抜きます。
すると、今度は少女ががたん、と立ち上がりました。少年が振り向くと、少女は愕然とした表情で、立ち尽くしておりました。それでも黄色い菊の花を握りしめていましたが。
「なんで……なんでそんなひどいことをするの!?」
少女の一言に、今度は少年が呆気に取られる番でした。少年は別にひどいことをしたつもりはありません。ただ、少女が花を活けないのは花瓶が塞がっているからだと思って、花を替えようと思っただけです。少年としては親切心のつもりでした。
それをひどいとはあんまりです。少年は言い返しました。
「何がひどいんだよ」
「だって、そのお花、綺麗に活けてあったのに」
少女の返答に、少年はやれやれ、と思いました。これははたまた面倒なやつに出会した、と。
きっと、少女は花瓶に花を活けたかったのでしょう。けれど、花瓶は塞がっていて、しかも、活けられている花は綺麗です。だから、除けるのは勿体ないと思って、所在のない菊の花を抱えているのだ、と少年は見ました。
すると、奇妙なことに気がつきます。少女は一体、いつからその黄色い菊の花を持っていたんでしょうか。
今は放課後です。夕陽がオレンジ色に教室を照らしています。そんな頃合いに、花を入れ替える、そもそも花を持っているというのはおかしな話です。そもそも、花瓶の花を入れ替えるなら、朝にやるのが普通でしょう。少なくとも、花を持ってきたなら、朝にあの独特な草の匂いがしてみんな気づくはずです。ですが、少女が菊を持っているのは今、放課後。いつの間にか、さっきまでそこにはなかったのに、さっきからそこにあったかのように、菊は少女の手中にあります。
花壇から取ってきたのだろうか、と思いましたが、よくよく考えるとそれもおかしいです。菊は国花とされるほど高価な花であり、スーパーマーケットで売っていても、せいぜい仏花程度です。そんな仏花でも、一束買うと結構値が張るような代物が、学校に植わっているのはおかしいです。少女が買ってきたのだとしても、やはりおかしいです。何故なら、学校で買えないような代物を、一介の生徒が自費で買えるというのもおかしな話です。
いや、そもそも、と少年はスピーカーの横にかかった時計を見ました。時刻は六時に向かおうとしています。窓の外、日は傾いていますが、沈んではいません。この時間でまだ日がある。少年はポケットから携帯電話を取り出して、日付を確認しました。制服が二人共冬服であるため、うっかり忘れていましたが、まだ九月です。そういえば、まだ夏服の生徒もちらほらいたはず。衣替え期間なのです。
まだ九月、衣替えも始まったばかり、となれば、そこに菊があること自体がおかしいのです。旧暦であれば、九月は確かに菊の盛りです。しかし、現在で言うところの旧暦九月といえば、十月です。つまり、菊の盛りは十月。造花という可能性も考えましたが、それにしてはあまりにも生々しく、その菊は露を孕んでいました。
では、少女はどうやってその菊を手に入れ、何故菊を手にしているのでしょう。飾る気もないように思えてきました。ただ、抱えることを大切にしているように見えます。
「とにかく、その花を戻して」
「あ、ああ」
あまりもの異常に、少年はただただ頷くことしかできず、ピンクの花を花瓶に戻しました。それはそれは丁寧に。
少年が花を戻すと、ぽつり、少女は言いました。
「ピンクっていいな。わかりやすくて」
「愛の象徴ってか」
少年が茶化すと、少女はそうね、とくすくす笑いました。
「菊にはピンクがないの」
「あるだろ、白っぽいピンクの」
「それは白い彼岸花。またの名をアルビフロラという」
「へぇ」
一つ賢くなった、と少年はまた茶化します。
「じゃあ俺は今、狐にでも化かされてるのかな」
少年が彼岸花を揶揄して言います。彼岸花の別称には狐松明、狐簪、狐扇、狐花、と狐に関連する名前があるのです。少女も当然それを知っているのでしょう。何故そうと? と問いました。
「この時期に菊の花が咲いてるのはおかしい」
「なるほど。なら私が狐なのかもしれない」
「は? 何を言って……」
そのとき、風がざっと教室を抜けました。おかしな話です。窓は開いていないというのに。
けれど、風は確かに少年の前髪をそよがせました。そして、少女を拐っていきました。風が止むと、少女が座っていたそこには、菊が一輪だけ、残されていたのです。花瓶に活けられて。まるで、そこに座っていた人物を悼むように。
少年は思い出しました。隣の少女は亡くなっていたのです。理由は知りませんが、亡くなりました。それまで、今のような戯れ言の会話を交わしていたのを、よく覚えています。
少女は亡くなりました。代わりのように少女の死を悼んだ何人かの生徒が、その席に花を活けたのです。
それは見事な白い菊の花でした。
少女は自殺したそうです。少年は理由を知りません。ただ、遺書に、「自分の席には白い菊を飾ってほしい」と書いてあったそうです。「放課後、夕焼けに照らされて、赤く染まるだろうから」という謎の文言もあったそうです。
その意味を今、少年は夕焼けに赤く照らされた菊を見て知りました。何故先程までいた少女が抱えていたのが、黄色い菊なのかも、活けられたのが、白い菊なのかも。
「……ったく、生きてるうちに言えよな、そういうこと」
少年は悪態を吐きながらも、いとおしげに菊の花弁を撫でました。
菊の花言葉
高貴、高潔、高尚、私を信じてください、女性的な愛情、破れた恋、真の愛
黄色
僅かな愛
白
誠実、真実
赤
I love you.
彼岸花と花言葉を間違えた事実に今更ながら気づいた。その彼岸花の花言葉
悲しい思い出、あきらめ、独立、情熱、再会、思うはあなた一人、また会う日を楽しみに
黄色(実は彼岸花ではなく、ショウキズイセンという全く別の花)
悲しい思い出、追想、深い思いやり、陽気、元気な心
白
また会う日を楽しみに、想うはあなた一人
彼岸花と菊ってたまに間違えますよね? ねっ(・・;)