殺人刀活人剣
たしかに夕美の矢は魔蝶を射抜いた。
衝撃で二つに千切れたそれは、舞い落ちたはずだ。
だが、いま目の前には、まったく同じ見た目をした魔蝶が二匹いる。
ちょうど元の大きさの半分ほどだ。
地面にあったはずの死体はなくなっている。
「反則だろ、そんなの」
二匹の魔蝶から矢の異能が放たれる。
計四本。
身に迫るそれを、俺は避けることが出来ない。
背後には美佳と夕美がいるからだ。
「面倒な」
悪態をついて、地面を蹴る。
矢に向かって前進し、そのすべてを打ち落とす。
そのまま魔蝶を間合いに捕らえ、二匹を一度に斬り裂いた。
しかし。
「――くっ」
散り際にまたしても分裂し、四匹となる。
おまけに下方から突き上げるように矢を放ってきた。
その数、計八本。
至近距離からの攻撃に対し、咄嗟に退避を選んだ。
地面を蹴って大きく後退し、安全な距離を取る。
「四季っ!」
「平気だ。掠りもしてない。美佳についてろ」
後退した先で、近づいてくる夕美をそう制する。
「かなり厄介だぞ。攻撃した数だけ分裂して増えやがる」
物理的な攻撃は、ほぼ通じない。
むしろ、数を増やすだけ状況が悪化する。
「なら、どうするの。私たちに有効打はないわよ」
「さぁな。とりあえず、防御に徹するしかない」
再び、魔蝶から矢が放たれる。
数は、先ほどと同じ八本だけ。
一匹から二本ずつ矢が放たれている。
その半分は夕美に射抜かれ、もう半分は刀身で斬り裂いた。
「しばらくすれば詩織がくるはずだ」
空想なら、あの魔蝶を倒せる。
燃やすなりして、分裂を無効化できるはず。
「それまで迂闊に攻撃するな」
更に、畳み掛けるように矢が射られる。
それを二人で対処し、時間を稼ぐ。
「それしか、ないようね」
気がかりなのは魔蝶の気まぐれだ。
いまはこの屋上に引き付けているからいい。
だが、もし魔蝶が獲物の対象を移したら、そちらへ飛んでいくかも知れない。
屋上を離れられたが最後、何をしてもそれを止めることが叶わない。
だから、なんとしてでも詩織には間に合ってもらわないと。
「――なんだ?」
繰り出される矢を打ち落とし続けていると、魔蝶の動きに変化が現れる。
互いに向かい合い、そして異能で矢を放ち合う。
一見して、訳のわからない行為だった。
それぞれの矢は向かい合った魔蝶を射抜いてしまう。
「同士……討ち……」
いや、違う。
あれは。
「自力で数を増やしやがったっ」
魔蝶は増える。
増え続ける。
この屋上にあるたった一つの出入り口の前で。
現状、魔蝶の同士討ちを防ぐ術がない。
俺たちは、それとただ見ていることしか出来なかった。
増える。増える。
何匹にも、何十匹にも、何百匹にも。
無数の魔蝶となって宙に浮かび、規則正しく配列される。
それはあたかも、元の大きさを象るように。
「どうするよ、あれ」
「どうするもこうするもないわよ」
異能の矢は、そして番えられる。
幾百幾千の鏃が、こちらに向かう。
「凌ぎ切るしか――ない」
一斉掃射される異能の矢。
それに対して、こちらも異能で迎え打つ。
放たれる異能の矢は無数にあった。
だが、威力では流星が勝っている。
放たれた流星は数でこそ劣るものの。
その威力を持って、後続の異能の矢ごと射落とした。
けれど、当然ながらそれだけでは、すべてに対処し切れない。
だから、撃ち漏らした異能の矢は、俺のほうで始末を付ける。
必要最低限の動きで最短を描いて最適解を振るう。
一振りで複数の異能の矢を打ち落とし、背後の夕美と美佳を守り切る。
「――くっ」
だが、放たれる異能の矢は止めどなく、途切れる気配がしない。
俺と夕美で凌ぎ切れてはいるが、それもいつまで続くかわからない。
いずれどちらかが必ず崩れ、矢の雨に打たれてしまう。
いつになるかわからない詩織の到着を、もはや待ってはいられない。
「夕美っ! 蝶を狙えっ!」
矢を捌きながら、そう叫ぶ。
「無理よ――矢を相殺するので手一杯ッ」
「なら、そいつはしなくていいっ」
防御一辺倒じゃ状況は変えられない。
「俺がすべての矢を捌いてやるっ! だからっ!」
魔蝶を射抜けば、奴は更に分裂するかも知れない。
だが、命を繋ぐには攻撃を加えて隙を造るほかにない。
抗う術がないのなら、せめて今できる最善を。
「……出来るの?」
「言ったろ、守るって」
正直、かなりキツい。
だが、やるしかない。
「わかったわ。あなたを信じる」
そして、夕美はつぎにこう言った。
「だから、あなたも私を信じて」
夕美は屋上にくる直前に、狙いを外している。
もしここでまた狙いを外せば、恐らく俺たちは助からない。
だからこそ出た言葉だったのだろう。
ゆえに、俺もこう答えた。
「そいつも言ったはずだ。信じてるって」
「――そう、わかった」
覚悟を決め、行動に移す。
「行くわよ!」
「あぁ!」
瞬間、夕美による相殺はなくなった。
障害をなくして怒濤の如く押し寄せる異能の矢。
波のようにも、壁のようにも、幕のようにも感じられる猛襲。
幾百、幾千の矢の群れを前に、神経を研ぎ澄ます。
「――」
捌くのは、正面だけでいい。
数は数え切れないほど多いが、そのすべてが俺たちを狙っている訳じゃない。
獲物を逃がさないように、魔蝶はあえて広範囲に矢を射ることで逃げ道を塞いでいる。
だから、俺が捌くべき数は見た目よりも遥かに少ない。
それでも圧倒的な物量を前にしていることに変わりはないけれど。
全身全霊を賭せば、夕美が魔蝶を射抜く時間くらいは稼げる。
「――っ」
刀の軌道は一度として途切れることなく、すべてが繋がっている。
最短の動きで最適を描く。
だが、それでも捌けない矢は出てくる。
肩に、胴に、足に、腕に、矢が掠め、突き刺さる。
生じる痛みは凄まじく、声を漏らしそうになった。
けれど、それでも剣速を落とさず、冴えを鈍らせず、刃を研ぎ澄ます。
この後ろに、矢を通さないために。
「――これでっ!」
激痛の中で、そして希望を見た。
展開される幾つもの流星が、残光を引いて馳せる。
込められた願いが形となり、無数に分かれた流星群。
それが魔蝶のすべてを射抜いて見せた。
「――」
残す矢はあと僅か。
最後の気力を振り絞り、矢の雨を捌く。
斬り裂き、断ち斬り、斬り落とす。
そうして最後の一矢まで、捌き切った。
「……守り、切ったぞ」
思わず膝をついて、ほっと安堵する。
けれど、すぐに視線を正面へと持ち上げた。
「まだ……死んでくれない、か」
流星群によって粉々になった魔蝶は、それでもまだ生きていた。
しかし、今度は様子がおかしい。
分裂してバラバラになるのではなく、一つになろうとしているように見える。
考えて見れば、そうだった。
分裂できるということは、元に戻ることも出来るということ。
魔蝶は虹色の鱗粉を巻き上げ、一つの旋風となる。
肉体の再構築を開始した。
「そんな……」
「……こいつは、しようがないな」
元の姿に戻った魔蝶は、再び自身を射って分裂するだろう。
次はもう、捌き切れない。
「夕美……美佳は歩けるのか?」
「……えぇ、歩行は問題ないと思うけど」
なら、よかった。
「美佳を連れて逃げろ、夕美」
「え?」
「俺はここで、あいつを引き付けるから」
刀を杖代わりにして立ち上がる。
「そんなことっ! あなたを置いてなんて」
「俺はもうダメだ。見りゃわかるだろ」
矢傷は、思ったよりも深い。
この負傷具合だと、走って逃げることもままならない。
なら、俺に合わせることもない。
「優先順位を考えろ! いまこの場で助けなくちゃいけないのは誰だっ!」
「――っ」
反論は、来ない。
夕美もわかっているんだ。
いまは美佳の安全を最優先に考えなくてはならないことを。
「……わかっ――」
その時、魔蝶の再構築が終わる。
虹色の旋風は掻き消え、その中から魔蝶が現れる。
「もう……だが、あの姿ならまだ逃げられる」
奴から飛んでくる異能の矢は二本だけ。
それだけなら、美佳を連れた夕美を送り出せる。
「来るぞっ」
魔蝶から異能の矢が放たれる。
狂いなく迫るそれに、刀身を構えた。
けれど。
「――迫り上がれ!」
その矢がこの身に届くまえに、それは壁に阻まれる。
屋上を構成する校舎の地面から、高い壁が迫り上がったことで。
このメチャクチャな異能は。
「詩織っ!」
「お待たせしました!」
背に一対の翼を生やした詩織が、空を飛んでいた。
なによりも心強い援軍。
俺たちの目には、詩織が天使ように映っていた。
「詩織! 奴は分裂の異能を持ってる! 物理攻撃は意味がない!」
「なるほど、では」
詩織は空中にて、両の手に焔を灯す。
二つを一つにして膨張した紅蓮。
それを天に掲げる様子は、極小の太陽を使役しているかのようだった。
「こうすれば良いんですね!」
燃え盛る紅蓮の焔が、詩織の手から放たれる。
それに対して、魔蝶は異能の矢を放つが焼け石に水だ。
矢は焔に燃やし尽くされ、魔蝶自身もまた紅蓮に呑まれる。
さしもの魔蝶も焼かれ、焦がされては分裂できない。
詩織の異能は、魔蝶のすべてを灰燼に帰した。
「終わりましたよっ。四季くん! 夕美ちゃん!」
「はっ、ははっ。あれだけ苦労したってのによ……」
こんなにあっさりと、倒されるなんてな。
「安心したけど、ちょっと複雑ね」
呆気のない終わりに、胸をなで下ろすと共に複雑な気持ちが宿る。
異能の相性と言うのは、大事なんだな。
「よっと」
詩織は屋上に降り立つと、せり上げた壁をもとの地面に戻した。
本当に、なんでもありな異能だな。
空想。
「わっ、四季くん、大丈夫ですか? 傷だらけですけど」
「まぁ、なんとかな」
なにはともあれ、全員が無事だったのだから、それでいい。
これくらいの負傷で済んだのなら儲けものだ。
「さっ、長居は無用ですよ。四季くんの治療もしないと。あっ、肩を貸しますよ」
「悪いな。正直、立ってるのも辛いんだ」
詩織の肩を借りて、かなり楽に立てるようになる。
階段が億劫だが、まぁなんとかなるだろう。
「美佳、私たちも移動するわよ……美佳?」
すべてが終わった。
うまく行った。
そう思っていた。
確信した。
信じて、疑わなかった。
魔蝶は灰となって消え去ったのだから。
「――う……ぁ……アァァァアアアアァアアアアアっ!」
しかし、現実は無慈悲に俺たちの見落としを突きつけてくる。
魔蝶はなぜ、美佳の側にいただけなのか。
異能の矢で射ることもせず、ただ見ていたのか。
その理由が、いま顕現する。
小さな背に、ステンドグラスのような大きな翅を生やして。
「――寄生」
詩織が絶望の一言を呟く。
「……うそ、だろ」
魔物が人間に寄生する。
例は少ないが、たしかにあることだ。
そして、そうなった場合、寄生された人間の生存率は限りなく、ゼロに近い。
「そんな、うそでしょ……美佳っ!」
翅を生やして立ち尽くす美佳を、夕美は抱き締める。
強く強く、願うように。
「どうして、こんなっ……お願い、お願いだから」
悲痛な声が、透き通るような青空に吸い込まれて消えていく。
「なにか、なにか方法はないのか」
「……一応、抑制剤が開発されていますが……進行がここまで進んでいるとなると……あとは、せめて人であるうちに終わらせてあげることくらいです」
魔物に成り果てるまえに、せめて人間として。
「――そうか、わかった」
「四季くん?」
詩織から離れて、夕美のもとへと向かう。
刀を携えたまま。
「夕美。そこを退いてくれ」
「四季……あなた、なにをする気なの」
夕美の視線は、携えた刀に向かう。
「ダメよ、待って! まだなにか、なにか方法があるはずだから!」
「いや、ない。もう、こいつで斬るしかないんだ」
「お願い、お願いだから……それだけは」
縋るように、懇願される。
「妹を、美佳を殺さないで」
「……保証はできない」
「え?」
俺の返答が、予想外のものだったのか。
夕美は思わず、きょとんとした。
「俺は美佳を殺してしまうかも知れない。でも、助けられるかも知れない」
「それは、どういう――まさか」
「あぁ、俺の異能なら、それが叶うかも知れない」
とても勝算の薄い、賭けではあるが。
「殺人刀活人剣。斬る対象を選択できる能力。それで美佳ちゃんに寄生した魔物だけを斬る。そういうことですか? 四季くん」
「あぁ、うまく行けば美佳を助けられる。でも、失敗すれば」
魔物を斬ったとして、それで助かるとは限らない。
最後の抵抗として、美佳の身体をズタズタにするかも知れない。
魔物が死んだことで、美佳の命も潰えるかも知れない。
「俺は美佳を殺すことになる」
どの道、選択肢がないことに変わりはないが。
「俺に託してくれるか? 美佳の命を」
「……えぇ、えぇ! お願い。すこしでも美佳が助かる可能性があるならっ」
涙ながらに、夕美は言う。
「お願い、します」
「わかった」
夕美は道を譲り、俺は美佳の前に立つ。
もう人間として、まともな反応は返ってこない。
目の前に立ち、刀を振り上げても、無反応。
完全な魔物に転じるまで、美佳はなんの反応もしないのだろう。
「すー……はー……」
深呼吸をして、息を整える。
殺人刀活人剣。
活かすも殺すも、俺次第。
今から振るうこの一刀が殺人刀となるか、活人剣となるか。
選択するのが俺だと言うのなら。
「――」
一刀を振るう。
頭の天辺から、身体の正中線上を通り、真っ直ぐに振り下ろす。
刀身は美佳の身体を素通りし、その体内に潜む魔物だけを斬り裂いた。
鋒が地に落ちた時、同時に美佳の背に生えていた翅が散る。
色取り取りのステンドグラスが割れるように、風に乗って流されていく。
そして、美佳は力なく崩れ落ちた。
「美佳っ!」
地に落ちる直前に、夕美がその身体を抱え込む。
姉の腕の中に収まった美佳には、未だ反応がない。
「美佳っ、美佳っ、お願い、返事をして」
何度も何度も、夕美は美佳に呼びかける。
けれど、美佳はなにも応えない。
「美佳……」
俺には、もうなにもできない。
刀をオドに帰し、空になった拳を握りしめる。
結局、俺はなにも守れはしなかった。
「――おねえ、ちゃん」
「美佳っ!」
すべてを諦めかけていた。
けれど、そうするにはまだ早かったようだ。
「えへへ……なんだか、からだが痛いや」
「よかった……本当に、よかった」
泣き崩れる夕美を見て、実感が湧く。
守り切れたのだと、守り通せたのだと。
「よかったですね、四季くん」
詩織の目にも、涙が浮かんでいた。
それは俺も同じで。
だから、視線を明後日の方へと向けた。
「あぁ」
空に架かる虹は、もうない。