プロローグ2 水の女神
目が覚めると目の前に尻があった。女の尻だ。
なぜ女の尻と思ったのか。答えは簡単だ。この尻は黒い女性用のパンツを履き、黒いフリルのミニスカートが周囲を覆っていたから。華奢な白いふとももが小刻みに揺れている。
なぜ目の前に女の尻があるのか。俺は、俺の体は透明な棺桶のようなものに収容されていた。
正確にはショーウインドウのような長方形のガラスケースと言ったほうがいいだろう。俺は仰向けに寝かされ、その周囲を透明のケースで囲われている。ケース内部は俺のサイズよりほんの少し大きい程度で、起き上がることはおろか、寝返りをうつのも無理そうだった。
つまり俺の収納ケース?を椅子がわりに使い、眼前でパンツ直座りしている人物がいる、ということだ。
当然ここから顔は確認できず、尻と太もも裏程度の情報しか得られない。俺は息を殺し尻を眺める。
小さな尻に華奢なふともも、想像するに女性というよりは少女というほうがより近しいかもしれない。
仮に少女だとしても油断はできない。尻のインパクトで忘れていたがここに俺を閉じ込めた奴らの仲間、あるいは張本人かもしれないのだ。
(……どこかに行ってくれればここから逃げ出すチャンスもあるんだがな)
収納されているケースの中はひどく暑い。それにひどく臭う。そう長い間大人しくしていられる自信はない。
そもそも何のにおいだ? 不快ではあるが、俺は、いや俺だけはそれを許すことができそうなにおい。それに尻や靴の中が濡れてて少し暖かい……。
何かが思い出せそうな気がする。なぜここに、どうしてここに、そんな疑問が解決できそうな……。
俺は意を決して、自分の尻を弄る。そして指に付着した液体のにおいを嗅いだ。
「くっさああああああああああああああああああああああああああ」
――咆哮、想定外のにおいの反射的行為だろうか、俺は咄嗟に上体を起こそうとしてしまい頭上の尻と、正確には尻が腰掛けているケースと激しくぶつかってしまった。
「……がっ」
「にゃあああああ! な、なんじゃあああああ?」
俺は額を激しくぶつけ元の位置に戻される。頭上の尻は下からの衝撃で情けない声を上げながらケースから飛び退いた。
「なんじゃあお前! に、人間の分もわきまえず、なんじゃあお前!」
死角からの衝撃に相当テンパっているようだ。相変わらず俺は動くことはできない。仰向けのままだ。
ガンガンとケースを叩く音が煩い。しばらくの暴言と共にケースへの暴力が続く。
神に向かってだの不敬だの一頻り大声を張り上げたあと落ち着いたのだろう。静寂が訪れた。
……頃合か。俺は尻の主に語りかける。
「おい、キミ。すまないがここから出してはもらえないだろうか?」
返答は、ない。
「さっき驚かせてしまったことは本当に申し訳ない。謝罪する!」
「家に帰してくれればそれでいい。警察にも言わない。だから……」
ブラック企業に務める俺だ。これがたとえ誘拐だとしても警察にいうことはない。葬式ですら半休で出社しろという会社が事件の聴取や調書を取る時間なんてくれるはずがないのだ。
はじめから事件なんてなかった。それでいい。だから家に帰して欲しい。
あとズボンとパンツ、靴下とか洗いたいから早くここから出して欲しい。
俺は目を閉じ、返答を待つ。
どすん、と胸のあたりで何かが乗ったような音がした。途端、目の前に金髪の少女の顔が現れる。
少女はケースに馬乗りになりこちらを見ている。というよりは見下している。
黒、黒、黒。全身黒のゴシックドレスなんだろうか。所々赤や金色の装飾は施してあるが総じて黒い。
相反するような白い肌により、黒が一層際立っているようにも思える。黄金の髪がさらりと揺れた。少女が身をよじりながこちらに寄ってくる。そして顔を近づけてまじまじと俺を見るのだった。
およそ人の美しさではない。美しいというよりもかわいいといった印象だが、幼いがゆえのことだ。吸い込まれそうな黄金の目がこちらを見ている。
「……助けてくれるのか?」
少女はクククッと小さく笑い答えた。
「助ける? お前を閉じ込めたのはこの我じゃ。寝言は寝て言えよこの罪人が」
「ざ、罪人? 俺が何の罪を犯したというんだ!」
人間、大なり小なり罪は犯すものだ。だがこんな初対面の少女に罪人扱いされるほどの罪を犯した記憶などない。それに罪だのなんだのいうのならここに俺を軟禁していることのほうがよっぽどの罪だ。
「罪か罪でないかは神である『我』が決めることじゃ。のう、御手洗和式?」
「なんで俺の名前……神? まってくれ、キミは一体? それに俺は……」
「脱糞」
「なっ」
俺は言葉に詰まる。脱糞? 何を言ってイル? 段々と何かが鮮明になってゆく。俺を見下す黄金の二つの眼の光がどんどん強くなる。
そうだ、俺はあの後、……脱糞をした後、トラックに……。
「思い出したか?」
「あ、ああ、あああ」
自分でも理解できる。顔面蒼白とはまさに現在の俺のことだ。俺は死、死んだんだ。死んだ先からどうやって会社に通おう。電話繋がるかな……。
「ここは死後の世界。そしてお前を裁く審判の場でもある」
「我の名は水の女神ウンディーネ。お前を裁く神の名じゃ夢々忘れるでないぞ」
「公衆の面前での脱糞。……というかお前、うんこを大勢の前で漏らしたのか?しかも外で?」
「まあ、いいか。汝の死を持ってしてもその罪、許すことはできぬ……」
許せ、水の神ウンディーネと名乗る少女が最後に小さく呟いた。
「待、待ってくれ。おかしい! どう考えてもおかしい! 脱糞は罪なんかじゃない! 誰でも普段から行う行為だ、生理現象だ」
「脱糞が罪だというのなら、なんで、なんで俺だけ……」
「動物なら外でだって脱糞するだろう? 群れで暮らす動物なら大勢の前で……」
言いかけて止まる。神はニヤニヤと嘲笑いながら、透明の文字通り棺桶の中にいる俺のことを外から見続けていた。俺の必死なリアクションを見てたのしんでいるかのようだった。
「なんじゃ、もう終わりか? もっと必死に抵抗してみよ、そうすれば」
「……いや、どうにもならんか。」
「そ、んな」
「お前の脱糞、それに罪はない、こともないかもしれんがー」
「慈悲じゃ、許す」
「じゃがお前が脱糞により別の大罪を引き起こしたことに変わりはない」
「ま、待って」
俺は必死に抵抗しようとする。許されたと思ったら大罪?どうやら脱糞が原因でなにかとんでもないことをしでかしてしまったらしい。本命はそれだ。なんとかしないと裁きが……どんな裁きか分からないが下されてしまう。
「うーん、天獄収監……いち、うーん2億年くらいでいいか」
ざ、雑すぎる。なんとなくで億単位の罪が増えるとかたまったもんじゃない。神だけに単位のスケールもやばい。
か、神様。助けてください。三十年くらいしか生きてないのに、億単位の懲役刑はつらすぎます。
目の前に神がいるというのに、俺は他のみたこともない神に祈り助けを求める。
「うんちゃーん、待ってぇー。執行しちゃだめぇー」
祈りが通じたのだろうか、遠くから聞こえた。棺桶の中からは姿を見ることができない。女神ウンディーネの顔がみるみる赤くなる。羞恥の顔だ。
ひょっとして、うんちゃんって女神ウンディーネのことか?
「うんちゃーん、うんちゃーん。ハァハァ、うんちゃーーーん」
「うるっさいんじゃ! ニーク、お前その呼び方やめろって何回言ったらわかるんじゃああああ」
「えへへ、ごめんなさい。でも小さい時からずっとこの呼び名だし、急には変えられないよぉ」
「それで? 刑の執行を待てとはどういうことじゃ?」
ウンディーネは棺桶の上で馬乗りのまま、腕を組み声のほうを睨みつけている。馬乗りの足が小刻みに震えている。どうやらイライラすると貧乏ゆすりをする癖があるようだ。よっぽどこの声の主が苦手なんだろうか。
「う、うん。それがね」
「あっ、そういえば、のじゃのじゃーって、うんちゃんなんでそんな変な言葉、普段はむぐぅ……」
「ああああああああああああああああああああ! もう、帰れよおまえええええええええええ」
瞬きをするより速くここから飛びかかり、ウンディーネが口を塞いだのだろう。なんにせよ助かった。
俺はふっと肩の力を抜く。言い合いというかウンディーネの暴言はまだ続いている。
俺を救った女性、ニークとウンディーネは言っていた。別の神だろうか。なんにせよ感謝せずにはいられない。争いが終わるまでの間、俺は一人心の中でまだ見ぬニークという神に祈りを捧げ続けた。