昭和最後の日
私の記憶の中で昭和に関して一番古い記憶は、声の出る絵本です。子供用の絵本に、薄い半透明のレコードが付いているものです。私が病気で保育園を休んでいても、母は畑に出て行ってしまいます。私は一人でレコードプレーヤーに声の出る絵本のレコードをのせて、聞いていた記憶があります。今でいえば、CD付の絵本といったところになるのでしょうか。
ちなみに私の年齢は、レコードプレーヤーが使えるか使えないかの境目の年齢だそうです。勤めていたころそんなことを耳にして、会社の5年下の子の聞いてみました。するとその子は、レコードの記憶がないとのことでした。
レコードプレーヤーには回転数を調節できるポッチがあって、わざと違う回転数にして変な曲と言って騒いでいたのは、私が最後の年代になるようです。
昭和の終わりが感じられるようになったのは、昭和63年ころからでしょうか。前年昭和天皇が入院され、再入院されるようになると世の中全体の雰囲気が沈んでいきました。天皇陛下が大変な時期に国民が浮かれていていいのか、といった風潮が全国的に広まりました。市民祭や花火大会なども、天皇陛下のご体調不良を理由に中止されるようになりました。
昭和64年1月7日。自分がどうやって天皇陛下の崩御を知ったのか覚えていません。その頃学生会館に入居していて、テレビは持っていなかったような気がします。部屋にあったラジオから知ったのかどうだったのか、まったく記憶がありません。
それよりも、冬山合宿前の打ち合わせに時間通りに集まらなかったと先輩に怒られていた記憶があります。時間通りに先輩の部屋に行ったのに先輩はおらず、1時間間違えたのかと思って自分の部屋に帰ってしまったのです。
「待ってろって貼り紙しておいただろ」と言われても、男の先輩の部屋に女の子一人で何をして待ってろと言うのか。他のメンバーは、なんで来なかったんだろう。散々怒られてからの、打ち合わせになりました。
そこに別の先輩が、
「平らになるぞ。みんな平になるぞ。大雪山も雪崩が起きて真平になるぞ」と乱入してきました。初めての本格的は冬山縦走の前に不吉なこと言わないでほしいのですが、それよりも何のことやらです。ポカーンとしているメンバーに向かって、
「平らに成って、今度は平成だそうだ」というのでした。
この乱入してきた先輩は不思議な先輩でした。人文学部で入試を受けて落ちた後、経済学部を再び受けて入学した先輩です。経済学部なのに、人文学部の私よりも心理学の本読み、学芸員資格の講座を受講していました。当時は、道内の博物館を落ちまくって自暴自棄になっていたようです。
ちなみにこの時のリーダーの先輩も不思議な人でした。当時はまだ、半ドンという言葉が残っていました。1年で履修するはずの外国語は、土曜日に講義がありました。1年2年3年と、土日に山ばかり行っていて4年生になって外国語を履修していた先輩でした。
合宿の打ち合わせが終わった後、何故か先輩の部屋で飲むことになりました。部員みんなで集まって、テレビから流れる昭和を振り返る映像や昭和最後の1日のドキュメントを見ていました。その時に、当時の小渕官房長官の『平成』と書かれた額を持ち上げる姿を見たのです。
ふと先輩が
「なんだかこうやっていると、年越しみたいだなぁ。誰かコンビに行ってそば買ってこいや」と言い出し、みんなでそばを食べながら昭和を送ったのでした。
冬山合宿は大きなトラブルもなく下山してきました。初めての雪山縦走が嬉しくて、帰りの切符を改札口でもらってきました。そこには『平成1年1月11日』と印字されていました。それに気が付いたのは、大学時代のものを処分した時です。その時にその切符も処分してしまいました。
平成は30年で終わる予定だそうです。何事もなく平成最後の日を迎えたいものです。