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Chap.6 レイノルド

 非常識もいいところだと、アルは絶句した。

 明らかに治安の悪そうな区画の、狭いごみごみした路地。それを、おそらく搭載された小型ビーム砲で焼き払ったのだろう。ぽかりと場所が空いていて、建物を出た目の前に、一台の黒い小型戦闘機が横付けされていた。

 シェイドという、レイが所有する宇宙遊泳用の戦闘機だ。

 それが『乗れ』とばかりに口を開いて――正確には上部の搭乗口だが――待っていた。小型と言っても曲がりなりにも航空機だ。ずいぶんな図体があるから、地上に降りようとするならそれなりのスペースが必要なのは理解できるが、普通、それが街の一角をつぶす言い訳になるものだろうか。

 だがそれでも非常事態である。

 文句をつけるにも相手がいないこともあり、アルは靴を使って中へと乗り込んだ。

 さっと青いライトが降り注いで、個体識別が実行される。同時に搭乗口が閉じて機体が浮き上がるのを感じた。勝手にシートベルトが縦横にアルの体を座席へ縛り付ける。

『おかえりなさい、アル』

「お前、子ギツネか?」

『そうです。レイノルドから、あなたの送迎に関して一切の責任を任せられました』

「あいつ…俺が逃げると知ってたのか?」

 子ギツネから返事はない。独り言と受け取って無視したのかも知れない。

 リトル・フォックス。

 レイの宇宙船を管理している人工知能だ。

 すでに彼女の操縦によってシェイドは大気の中を時速二百キロ程度の低速で突っ切っていた。船着き場までは五キロ。ほとんど会話を交わす時間もなくアルは懐かしい宇宙船の中にシェイドごと放り込まれていた。

『格納庫に着きました。降りてください』

「ん。レイはブリッジ?」

『いいえ』

「…は?」

『アルはまずシャワーを浴びてください。それから体に治療を必要とする外傷がいくつか見られます。その治療をしましょう』

「ちょっと待て、レイはどこだ」

『機を降りてください。彼は船内にはいません』

「じゃあどこだよ」

『質問にはお答えしますが、先に機を降りてシャワーを』

「子ギツネ!」

『浴室でお話ししますのでアルはシェイドから降りてください』



 盛大な爆発だった。

 耳がやられそうになるぐらいの爆音が折り重なって数回。暫時があって、連鎖的に何かが崩落する音が響き、建物内から吹き出した煙があたりを包んだ。

「何が、崩壊する『かも知れない』だ」

 走りながら牙が毒づいた。

 あれで建物内に残っていたパペットは綺麗に全滅した。最初からそれを見込んで爆弾を仕掛けていたのだ、この子供は。

「パペットに俺が爆破するって宣言したら意味がない。あいつらを倒すには、誰が被害を与えたか判断できたらまずいんだ。爆弾が一番手っ取り早い。一時の方向から三体」

 言われた時には、牙の銃が前方から襲ってきたパペットを片付けていた。

 足取りひとつ乱さない彼に、かすかにレイが笑う。その様子を牙が見咎めた。

「いいご身分だな」

「逃がそうとしてる人間に斬りかかって、自分から攻撃対象になったのはあなただぞ」

 お前を狙って攻撃してくるんだとうそぶくレイを、ターゲットの分際で何を言うと牙は応戦する。レイが右へ飛んだ。走り込んできたパペットを牙が砕く。はじめて行動を共にしているとは思えないぐらい息が合うのを二人とも感じていた。

 レイはパペットに攻撃するわけにはいかない。

 彼は『目標』ではあるが、まだ攻撃の標的ではないのだ。レイまで暗殺の対象になってしまえば、いざという時に交渉するという切り札を捨てることになる。

「その時には俺はあなたに脅されて引っ張り回されていたと言い訳するから、そのつもりで口裏を合わせてくれ」

「誰に物を言っている。その時など来るか」

「言ってくれるな」

 笑顔と同時に、ガンッ、とレイの握った銃が火を噴いた。

 道の看板が落ちて、下でパペットが潰される。音から判断して、そう火力の強い銃ではない。相当な腕だ。素朴な疑問を抱いた。

「貴様、何者だ?」

「今は話してる暇がない。こっちだ」

「…なんだこれは」

「先に乗れ!」

 たぶん、牙を襲ったのはアルが受けたのと同じ衝撃だ。

 スラムの一角に戦闘機。

 つばめが翼をたたんで滑空する時の形にも似たフォルムは美しく引き締まっているが、それでも小さな家ぐらいの大きさはある。飛行場にあれば豆粒だが、雑多な通りでは小山のごとくそびえて見えた。

 足がかりを頼りに戦闘機へよじ登って乗り込んだ牙の上に、遠慮なく少年の体が降ってくる。ボブスレーの選手のように、腹の上にすっぽりと抱える形になった。

「なっ」

「これは一人乗りだ。閉めるぞ」

 迷いなく操縦桿を掴むと搭乗口が閉じきってもいないうちにレイは機体を発進させた。慌てたようにシートベルトが伸びてきて重なった二人の腹をくくりつける。

「心配するな」

 なんだか嫌な予感がした牙に、レイが朗らかに請け負う。操縦用のバイザーをしていた。

「この体勢なら、先に腹がちぎれるのは俺の方だ」

 ぎょっとして聞き返すより先に、小型機は一気に加速して成層圏へ突っ込んだ。見事に宇宙航空法をぶっちぎり、弾丸のごとく黒い船は宇宙へ飛び出した。

 しばらく、口が利けなかった。

 成層圏突破の際の凄まじい加重と振動と、それから心労がその気力を奪っていた。別に荒っぽいことに慣れていないわけでもないし、様々ないきさつから無謀な操縦をする船に乗り合わせた経験も両手の指では足りない。

 だが、通常の船舶と、戦闘機ではサイズが違う。

 同じ時化の海でも大型船と小舟では揺れ方が違うように、振動のレベルが違った。

 自分はともかく、よく腕の中のこの華奢な体が内臓を吐かずに済んだものだとぼんやり考えていると。

「大丈夫か?」

 気遣われてしまった。

「どこへ向かっている?」

「人質が帰ったところで宇宙に出るように船には指示を出してあるんだ。それを追いかけている」

「船に? 他に操縦が出来る人間は、お前の船にはいないのか」

「いない。アルは…」

 言いかけて少し考えるようにレイは口をつぐんだ。初対面の牙を相手にどこまで話していいのかを考えたのだろう。

「まあ、いいか。アルってのはさっきまで人質になってた奴だけど、あいつは船のことはまったく解らないんだ。俺の船は、あいつと俺の二人だけだから。そうだ、俺はあなたをなんて呼べばいい?」

「…牙」

 微妙な面持ちを見られないだけが救いだ。

 二人だけ。

 そういえば、アルは船長のことをフリーの船乗りだと言っていた。それは厳密に言えば固定の仕事を持たない船乗りのことだが、一人で自分以外の乗員を持たない船乗りを指す場合もある。

 しかしそうなると、ますます無駄なクルーを乗せていることは奇妙である。

「奴は‥お前の船で何をしているんだ?」

「家事一般、かな。大体の用は船の人工知能で事足りるし、料理は俺の方が得意だけど」

「ふざけるな」

 牙は左手の袖からナイフを抜いて、レイの首に当てた。

 右手の手袋の仕込み刃はこの少年との格闘で折られてしまっている。

 しばらく、静寂が落ちた。

 牙が口を開くのを待っているらしく喋ることはしなかったが、レイの操縦の手に動揺は見られない。銀河の闇を泳ぐように滑らかに進んでいく。

「お前は何者だ。奴には何もない。力も金もない上、乗組員としての価値もないのなら、なぜ貴様は危険を冒して直接乗り込んできた。その理由はなんだ。奴には何がある」

「俺よりも、アルが気になるみたいだ」

 レイは茶化す。

 違う、と牙は胸の中で叫んだ。アルが気になるのではない。彼だからだ。彼がそこまでする価値がどこにあるのかを知りたかった。

 認めなければならない。自分は嫉妬している。彼に無条件に守られるあの青年を。

 腕の中で少年は、くつくつと笑いをこぼした。

「あなたは、俺に似ているかも知れない」

「何だと?」

「そのナイフで、俺を殺しますか」

 返答に詰まった。

 殺せるはずがないと頭のどこかが言っている。

「操縦者の脳波が途切れると、船の制御は自動的にホストコンピューターに切り替わる。この機は俺以外の操縦者を完全に排除するよう条件付けをしてあるから、自動制御時にはあなたを船外に放り出すはずだ。今はやめた方がいい」

 脅している声ではなかった。

 牙は刃を引く。

「さあ、見えてきた。子ギツネ、こちらシェイドだ。応答しろ」

 レイの言葉に前方を見上げると、なんの変哲もない量販型の小型宇宙船が一台ぽかりと宇宙に浮いていた。



「レイ!」

 弾かれたようにアルが立ち上がった。

 薄汚れた衣服は洗濯された綺麗なものに変わっていて、半袖のシャツから伸びた腕には包帯が巻かれている。

 一方のレイは、まだ埃まみれの上に随所にすり切れが入って破れた服。しかもかなりの量の血液に布地の元の色も判別できなくなっていた。シェイドから降りたそのままの足で直にブリッジまで歩いてきたその顔にはまだバイザーが載っていた。

 戦場帰りと墨汁で書いてあるようなその出で立ちに、アルは一度色をなくし、それからさっと怒りに頬を紅潮させた。

「レイてめえ、子ギツネに聞いたぞ。なんだって直接乗り込んでくるんだよ!」

「こっちの台詞だ馬鹿! 体術ひとつ使えないくせに、武装した犯罪者集団から逃げ出す奴があるか!? 人質は人質らしく寝転がって助けを待ってろ」

「十五のガキのくせして、こんな、血まみれになりやがって…」

『お前が生きて帰れなきゃ意味ないだろ!』

 ぴったりと、声が揃った。

 アルはむっと黙り込んで肩をすくめ、レイは感情を抑えるように目を閉じた後、後ろを振り向く素振りをした。

 つられてそちらを眺めたアルは、瞬きを繰り返した後、突然その姿を見つけてぎくりとする。部屋の入り口近く、影に紛れるような一人の男。

 本当に心臓に悪い奴だと思ったら、勝手に口元がほころんだ。

「よう」

 声をかけてみる。「来るだろうと思ったぜ」

「それはどういう意味だ」

「さあね」

 意味ありげに笑ってみせたら、横でレイがきょとんとしていた。気付かなかったのかとアルはちょっと自分の唇を触れた。『はづみ』そっくりなこの顔を見ても牙が何も反応しなかったのだとすれば、過去の記憶を掘り起こすのは無理かも知れない。

 それは別に構うことではないのだが、そうするとレイは初対面の『牙』を船にまで連れてきたということだ。何か癪である。

「アル、彼と何か?」

「助けられたと言うか、いいように遊ばれたって言うか。俺を逃がしたのはそいつだよ。逃げたら身代金の支払いを待つより絶対的に俺の生存確率が下がるのを承知で。だけど、パペットを殴りそうになった俺の身代わりになってくれたのもそいつだ」

 レイが目を丸くした。

 呆気にとられた様子で二人を交互に見比べて、やがて呻いて額を押さえる。

「それで、あんなに壊れたパペットが散乱していたのか」

 牙は返事をしない。

 黙って動かずにいると、本当に石のようで、生き物の気配を感じさせなかった。

「とにかく、色々話さなくてはいけないことがある。隣へ行こう。あそこにはテーブルがあるから座って話せる。子ギツネ」

『はい』

 正面スクリーンの右下に、美しい金色の狐の映像が姿を現す。

「警戒態勢は継続。速度一定を保って、妙に目立たないように。接近する船舶があれば、種類や不審な行動の有無を問わず、すべて私に連絡してこい」

『了解しました』

「それから、隣にコーヒーを三人分」

「私はいらん」

 切って捨てるような牙の声に、レイよりもむしろアルの方が気分を害した。しかしすぐこの覆面をしていては飲み食いは辛そうだと思い当たって考えを変える。

「では、二人分。アルの好きな豆でいい。それと、約束を忘れるなよ、子ギツネ」

 機械脳のくせをして、狐は画面の中で目を逸らすような仕草をした。

「子ギツネ」

『機械が約束を破ると考えるのはあなたぐらいです、レイノルド』

「お前は特別だ。意図的に誤解を操作するし、言い逃れや、最近は嘘も使うからな」

『不本意な内容ではありますが、一度了承したことは実行いたします』

「その言葉を覚えておく。信頼しているよ、リトル」

 軽く笑って、レイはきびすを返した。

 ブリッジを出るあたりでアルが走り寄ってきて耳打ちする。

「約束ってなんだ?」

「牙を敵視しないように言っただけだよ。この船にとって牙はまだ侵入者だから」

 そういうものなのかとアルは瞬きをした。

 アルは、当然のようにこの船に迎え入れられた。美しい狐ははじめましてと優しい声を出して、ものぐさなレイに変わって船内を案内してくれたりした。その時とは、ずいぶん対応が違う。

 部屋の扉を開けると覚えのある香りがして、アルは自分の体が緊張するのを感じた。

 アルと違ってレイは滅多にコーヒーを飲まない。飲みたいと言い出すのは、何か遠慮のある話をする時や、臨戦態勢に入った時だ。

「かけてくれ」

 レイがバイザーを取って机に置き、椅子を勧める。

 ぞっとしないなと牙は呟いた。同じ言葉で誘拐団を脅していた。

「まず、そうだな、本題から話そうか。牙、あなたは俺に雇われる気があるか」

「仕事内容は」

「用心棒だ。俺とアルを守って欲しい」

「期間」

「始末をつけるまで、無期限」

「報酬は」

「あなたの思う相場を教えてくれ」

 牙は答えなかった。

 自分でも俄には信じられないような葛藤が彼の中に渦巻いている。今考えていることを言ったら、相手はどんな顔をするのかと。十万でも安いが、本当は無償でも構わないのだと告げたら、この美しい子供は、少しは喜んだ顔をするのだろうかと。

「ここに、小切手がある」

 ぱちりと乾いた音で、薄く堅いカードをレイは机の上に置いた。その指が縁をなぞると三つの三角形と五つの円とが立体的に組み合わさったホログラムが四隅の上空に浮かぶ。サ・カーンにある中央銀行の印章だ。

「アルの身代金として、現金化の手続きを済ませたものだ。額面は、五万」

「お前っ…」

 金を用意していたのかとアルは驚愕に息を呑んだ。お前が逃げ出したりするから、事が音便に済ませられなくなったんだとレイは言った。

「手付けに」

 カードを前へ滑らせる。牙は手袋をした指でそれをつまみ、光にかざした。

「本物だな。あの短時間で、これを用意したのか」

 呟くように言って机の上に戻すと、手品のようにどこからか小さなカプセルを取り出し小切手の上に重ねた。あ、とアルが小さく叫ぶ。

「こんなものをそいつに持たせていたのも、お前だな」

「そうだ」

「パペットに、狙われている」

「ああ」

「あれは金持ちのおもちゃだ。桁違いの財力がなければパペットの使用は依頼できない。数があってはじめて用をなすものだからな」

 レイは頷いた。

 話の成り行きが見えなくて、アルは二人を見比べた。

「お前は、何者だ」

 覚悟は決めていたことだろうに、レイは一瞬、ためらいを口元に滲ませた。目を伏せてコーヒーを口に含み、また顔を上げる。

「確認したいんだが、牙、俺の名前が言えるか?」

「名前?」

 問われて記憶を探る。「レイノルド・R・アバルキン、と言ったか」

「ライニーの名前を聞いたことが?」

「ない方がおかしい」

 牙の言葉にアルも頷いた。

 知っているかと問うのも常識はずれなぐらいの、巨大な財閥である。アルの住んでいたプラサ・アスルはそれでも辺境に位置するためその支配をそれほど受けていなかったが、それでも情報機器のほとんどにはライニー社のロゴマークが入っていた。

「俺の名前の、真ん中のRは、ライネイだ」

「……は?」

 アルの口から素っ頓狂な声が出た。

「レイノルド・ライネイ・アバルキン。ライニー二代目当主のジェシカ・F・ライネイは俺の母親なんだ」

 一瞬、言葉が出なかった。

 隣に座ったレイの横顔をまじまじと眺める。正面の牙からも殺気立ったものが消えて、動揺が揺らいだのがうかがえた。アルは口を押さえて瞬きを繰り返した。

「ちょっと待て、グランJFRって、確かもう」

「うん、死んでいる。四年前に事故で。六十歳だった」

「年がだいぶ離れてないか」

「俺は、母が四十七の時の子供だ」

 御曹司。

 頭に浮かんだのはそんな間の抜けた単語だ。信じないというわけではないが、つるりと顔の綺麗なこの少年と、全宇宙でも他を寄せ付けないほどの繁栄を誇る大財閥の名とは、どうしても結びつかなかった。

「実子か?」

 遠慮なく牙がずばりと尋ねる。その途端、あまりに華やかにレイは美貌をほころばせて、二人をぎくりとさせた。

「それは確実だ。俺の生い立ちを証明する書類を印刷して積んだら、この部屋がいっぱいになる。誰かが『親子にあらず』の証明をできれば、話は楽だったのに」

 アルでも言葉をかけるのが憚られた。

 それほど冷たく優美な笑みが彼の口にはたたえられていた。

「世襲はしない、相続権も放棄する。何回言っても信じてはもらえなかった。本当は俺を跡継ぎにさせたくてやってるんじゃないかと思うぐらい、あの手この手で脅され続けた。パペットも刺客も四つか五つの頃から遊び友達だ」

 なるほどと牙は胸の中で唸った。

 パペットのあしらいが堂に入っているのも、この年齢で卓越した戦闘能力と驚嘆すべき胆力を身につけているのも、その話を信じるなら納得がいく。

 そして何より、レイには人を従わせる力があった。

 生まれ持ったものか、傅かれて育つ中で培われたものかは判らないが、人を思い通りに動かそうとすることにためらいがないのだ。誘拐団と対峙した時も、牙を説得した時も、完全に主導権を手にしていた。

 上に立つ者の揺るぎない傲慢さは人を魅了する。

 そしてそれが、レイにはある。決して強引そうな顔はしていないくせに、ここぞという時に譲らず、強い意志を帯びた瞳が、野蛮なまでに人の心を略奪する。

 パペットを従えて現れ、牙の胸を食い破ったあの時のように。

「よく知らなくて悪いんだけど、お前、兄弟は?」

 アルが尋ねていた。

 いないとレイは答える。しばらくの時間を置いて、「今は」と言葉が足された。やがて牙の意識が思考の海から抜け出す。

「遺産相続は、放棄したのか」

「ああ」

「では、なぜ今も狙われている」

 その問いかけに、レイは深いため息をついて頭を押さえた。じらしているわけではなく、どうも本当に気が重いらしい。

「ジェシカが‥、つまり母が死ぬまで知らなかったんだけど」

「うん?」

「あのくそ婆、死ぬ前の年に、贈与手続きと税金の支払い済ませてやがった」

 レイの口からいきなり綺麗とはいえない言葉が飛び出して、アルはぎょっと目を見開く。普段は過ぎるほどにしつけの良いレイだから、こういう不意打ちは衝撃も大きかった。

「えと、それって、つまり?」

「生きている間に財産を譲り渡せば贈与、死んで自動的に子供に行くのが相続だ」

 牙が親切な注釈を入れる。

 その言葉を頭の中で繰り返して、意味を理解したアルが泡を食う。

「じゃ、相続放棄しても実質何も変わんなかったのか?」

「そうじゃ、ないけど」

「どういうことだ」

「贈与分は、財産の全部だったわけじゃない。ほとんどが株券だった。ただの憶測だけど、重役たちが馬鹿をやって彼女を怒らせたんだと思う。俺に財産を遺したいなら、地所とか金とか、いくらでも贈与できたんだ。なのに、よりによって株券なのは、会社の連中への嫌味か牽制か嫌がらせだ」

「レイ、悪い、よく解んねえ」

「つまり知らない間に、俺はライニーの筆頭株主になってたんだ」

 げほっ、とアルがむせた。

 筆頭株主といったら、問答無用にオーナーだ。

「嘘だろ…?」

「俺も、同じことを思った。株券って何か解るか。ただの電子書類だぞ。それもやたらと金を食う書類だ。事実が明らかになる前の段階で遺産は相続放棄してたから、俺には金がほとんどない。株券の管理業務を委託しただけで破産してしまう。だからといって株自体をばら売りしたら、一気に重役どもに会社を食いつぶされる。それじゃ母の遺志に反する。こっちの気も知らずに脅迫の類は絶えないし、放り出すわけにもいかない」

 八方塞がりだと呻くレイに、もはやアルはコメントが付けられない。世界が違いすぎて理解が追いつかないというのが本当のところだった。大量の株を持っているから金に困る。そんなことがあるのだろうか。

「始末をつけると言ったな。どうするつもりだ」

「今、俺の株券の管理を任せている人がいる。母はそもそも奴を養子にして後を継がせるつもりだったんだ。節税の面で少しずつ贈与をしているんだが、このままじゃ俺が百まで生きても譲渡が終わらない。負担が出てもあちらと折半して全権の移譲をする」

「なるほど」

 特に感慨もない声で牙が言う。

「レイ‥さあ」

「なんだ」

「お前、大金持ちのくせに、金がないとか節税とか折半とか、なんか話が」けちくさい。

「実際に金がないんだから仕方ないだろう。一定額を超えると贈与関連は八割近く税金に持って行かれるんだ。株券を人に渡しただけで、億兆の単位で消失する。もったいない」

「も」

 モッタイナイ。それは確かにソウデスネ。

「だが、この百倍を受け取っても、懐には余裕がありそうだ」

 ささやき合っていた二人は顔を上げた。

 牙が、片手の人差し指と中指に小切手を挟んで眺めている。弛緩しかけた空気が一気に緊迫したものに戻った。

「そんな余裕はないが」

 確かめる声でゆっくりと言って、レイは大人のように顎に手を当て視線を牙へ向ける。

「余録として、事態が収まったらあなたをパペットの標的からはずすよう手を打つことはできる」

「なるほど」

 と、もう一度、牙は言った。

「それが本当の報酬か」

「ああ」

 切り込むようにまっすぐにレイは牙を見つめていた。ゴーグルがあるのに視線を逸らすことができない。

「あなたがどこで何をするにしても、この先、パペットの相手をしなければならないのは一緒だろう。さっきみたいに、俺がいれば交渉もできる。もし交渉が失敗しても、俺ならあなたと同じぐらいには戦えるぞ。手を組んでおいて損はない」

 かすかな笑み。匂い立つような色気を持つ唇だ。

 黒々と、瞳が光を帯びている。

 交渉の前にバイザーを取ったのは誠意を表すためだろうが、自分の武器を本能的に理解しているのかも知れない。

「その小切手のために本国の口座を動かしたことで、こちらの位置が知られた。追っ手の配置も変わるだろう。ただでさえ今からは逃げるんじゃなくて向かっていくことになる。船での追いかけっこならまだしも、肉弾戦では俺だけ頑張ればなんとかなるという話じゃなくなってきた。だけど食料や燃料のことを考えると、サ・カーンまでどこにも降りずに行くなんて土台から無理だ。だから、あなたが欲しい」

 震えがきた。

 一片の迷いも照れもなく、喉元に刃先を突きつけるように直接的な表現を使う。

「あなたは強い。俺が今まで出会った誰より。あなたは、本気になれば俺を殺せるだけの力を持った人だ。だから俺の味方について欲しい。俺は助けを必要としている。あなたは俺を助けることができる。助けて欲しい。そのためにあなたは俺と来たはずだ」

 大人びた、自信に満ちた口調。こちらが手中に落ちかかっていることを嗅ぎ取っているのだろう。言葉と視線は更に強引さを増した。

「俺を助けてみせろ、牙」

 あけすけに、俺のものになれと誘う声。

 この誘惑をいつまででも受けていたいという衝動を押さえるために、牙はゴーグルの下そっとまぶたを閉ざした。



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