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Chap.4 牙

 五万、と感情のない声で聞き返す。

『三時間後にまた連絡する。その時に金が揃ってなかったら、奴の左耳を落とす。次は右、その次は左腕だ。一時間遅れるごとにパーツを一つだ』

 そう彼らは脅した。

 しばらく交渉があった後で、いいだろう、と凪いだ海のように静かな声で彼は言った。時間内に必ず、指定の金額を用意すると。

 ブリッジの大型スクリーンには、磁気嵐の吹き乱れる荒れた宇宙が広がっていた。


* * *


 牙は、必要のない嘘はつかない男だった。

 だから彼がアルに語ったことは、基本的にほとんどが真実である。彼ら誘拐団が手堅い仕事をするというのも、他力本願な人間が嫌いだというのも、アルを奇妙だというのも、すべて偽らざる彼の本心からの見解である。

 お前が生き残るために必死になっているところを見てみたい。

 その言葉を、アルは言葉通りに受け取って良い。

「お前は一度も抵抗していない」

 と、牙は言った。

 どこからか、目覚めた時には没収されていたアルの靴を取り出してきて、ぽんと地面に放った。重力調整装置がついていて、自動車ぐらいとなら張り合えるスピードが出せる。ただし自動車は外壁と安全装置があるが、靴にそこまでは求められない。自動車の速度でどこかを引っかけたら片腕ぐらい簡単にちぎれてしまう。

「昔から、私は白馬の騎士というものが嫌いだ」

 アルは聞き返しそうになった。

 白馬の、騎士?

 それはつまり、あれのことだろうか。白馬に乗った王子様。夢見る少女の理想としての男性像。

「救世主伝説というものもな。それを待ち望む人間の気が知れない。自分では何もせず、いつかを待っている」

 そういうことかと思った。

「つまり、『誰かがきっと助けに来てくれる』ってのが駄目なわけですか」

「そうだ」

「で、俺が今、それだと」

 救世主の方はともかく、白馬の王子とは面白いたとえを使う。

 牙が嫌悪したのは王子ではなくてそれを待つお姫様の方だ。普通の感覚では、囚われの美女を助ける若者の方に自己同一化を図るものではないだろうか。

「違うか?」

「違いませんね」

「いや、違う」

 妙な問答になった。否定して欲しかったのかとアルは眉を寄せた。

「お前は、違う。何かおかしい。やけに…自信に満ちている。平然としていて、冷静で、異様だ。幻想にすがりつく顔をしていない。癪に障るが興味が尽きない。だから」

 結論として、彼は言った。

「試しに逃げてみろ」

「逃げろ?」

「鬼ごっこだ。二時間以内にお前が自分の船に着けばお前の勝ち。逃げ切れなかったら、お前の負け。さっき言ったように、お前が死んでも奴らは船長から金を取れるからな」

「あんた、仲間を裏切る気か」

「仲間じゃない。雇われの身だ。この仕事ひとつ落としたところでどうという事もない。それよりも、お前が生き残るために必死になっているところを見てみたい。お前が必死になるのかを見てみたい」

 なんとも欲望に忠実なことだ。

 その刹那、どうしてそんなことを言い出したのかアルにも解らなかった。だが気付いた時には口が動いていた。

「じゃあその前にひとつ、いいか」

「何?」

「あんたの顔が見てみたい」

 沈黙があった。

 きっと困惑していたのではないかと思う。

「俺が死んでも逃げ延びても、ここであんたとはお別れだろう。目だけでもいい。見れるものなら見ておきたい」

 やがて、ふっと、苦笑したらしい声が聞こえた。

「一分一秒を争うのは、お前の方だろう」

「構わない」

「お前の靴はここだ。監視カメラには細工をしてあるが、手錠がはずれれば奴らの部屋に警報が鳴る。ここは地上四階で、船着き場はまっすぐ西へ五キロの場所だ」

「待てよ、牙」

 アルの声を聞かず、牙は屈んで足を拘束する金属の輪を砕いた。そしてその手で自分の顔を触れる。彼がこちらを見上げた時、そこにゴーグルはなかった。

 紺碧の瞳だった。

 わずか一瞬。

 目を見開き硬直したアルの腕を乱暴に掴んで後ろを向かせ、手錠に取りかかる。

「お前」

「ゲーム開始だ」

 手錠が地面に落ちて、アルが振り返った時には牙の姿はなかった。



 牙の要望通り、必死で逃げた。

 曲がり角で背中を壁に押しつけ、アルは荒くなった息をなだめる。警報と銃声、足音。今のところ見つかってはいないが逃亡者を追いかける物音が聞こえている。

 武器はない。

 あったとしてもどうせ使いこなせなかっただろう。足というか、靴を駆使して逃げ回るほか手段がなかった。

 体中で周囲の気配を探る。近付いてくる足音がある。咄嗟に少し影になった部分へ体を寄せた。大して効果はあるまいと思ったのだが、意外にもそれで曲がり角をのぞきこんだ追っ手はすぐに去っていった。

(あの野郎…)

 最後に見た牙の両眼が脳裏に浮かぶ。

 なぜゴーグルをはずすまで気が付かなかったのか、悔やまれて仕方なかった。あの男をアルは知っている。正確には、あの男が『誰だったか』を知っていた。

(あれは、ファルだ)

 正しい発音をなんと言ったか。ファルクルク。そんな感じだった。

 彼を見て、誰かに似ていると思ったはずだ。

 あれはあまりに、『はづみ』に似ている。体から漂うものが、物腰が、理屈っぽい考え方や喋り方まで、喋っている言語そのものが違うはずなのにそっくりに思えてくる。

 はづみ。

 アルが一番最初に出会った『彼』の名前だ。レイ、つまり白雪のことである。

 彼が死ぬたびに別の命に生まれ変わることを知った時、『埜流』と呼ばれていた存在はどこまででも追いかけて転生することを己の魂に義務づけた。

 その『埜流』の、現在の姿がアルだ。

 二人がレイとアルではなく、はづみと埜流であった頃、一人の子供にはづみが手を差し伸べたことがあった。はづみを主と定めて付き従い、その忠誠ぶりで二人を振り回すほどだった。

 それが『ファルク』。

 埜流とは徹底的に合わなかった。いや、むしろ合いすぎたのかも知れない。最後まで、仲違いをしてばかりだったような気がする。二人ではづみを取り合った。

(何の因果だってんだか)

 こんなところで彼と再会し、こんな奇妙な交わりを果たすとは。

 アルは隠れていた場所を飛び出して、靴を使い床の上を滑って移動した。とにかく敵を避けながら、ひとつの方角に進むようにだけ心がける。

 階段を目指しているつもりだった。

 普通、フロアの両端には必ず階段がある。火災などの非常事態に絶対に必要になるからだ。建物の構造が解らなくても、それだけはかなりの確率で見込める。

 無論、そこで敵が待ちかまえている可能性もそれ以上に高いのではあるが。

「…っ!」

 すっと深く息を腹に落とした時、咳き込みそうになって慌ててアルは口に腕をあてた。さっきから白煙がじわじわと天井を伝ってきている。少し肺に入った。

 いぶり出す気か、とアルは奥歯を噛む。

 目を凝らし、どちらから流れてくるか方向を見定める。階段を求めて向かっていた方角だと知ったアルの唇には、不敵な笑みが刻まれた。どうせなら煙の方へ突っ込んでやろう。警戒も手薄なはずだ。

 降りる。そして逃げる。

 することはそれしかないのだ。

(見てろよ、牙)

 必死で生き残ろうとあがいてやる。



 牙が二時間というリミットを切ったのは、意味のないことではない。

 ずいぶんな自信だ、と言った時にはすでに、レイはバロを相手に金を用意すると確約をした後だった。そしてその際に、バロが提示した制限時間が三時間。話をする間に過ぎた時間を加味した上で、余裕を見て二時間と告げた。

 牙がアルの手の戒めを解いてすぐ、当然の流れとして騒ぎになった。

 この建物は、元が地上五階、地下二階の倉庫だったのが、持ち主の倒産によって廃墟となっていたものだ。そこをガラの悪い連中が入れ替わり立ち替わり利用している。

 元がジャンクの施設である。

 後付けのトラップやセンサーこそ多いものの、建物全体を統括するような制御システムは存在しない。特に、逃亡者を捕獲するのはこの立体倉庫の仕事ではなかった。感知器で居場所は割り出せても、実際に捕まえに向かうのは人間だ。誘拐団は、牙を除けば五人。追われる側さえ健闘すれば、結構いい勝負になる。

『ネズミが南に向かった! 戻れ!』

『南ぃ? 自分から煙に突っ込んだってのか、あの野郎』

 牙の耳元で怒声が入り乱れる。

 アルは、存外巧く追っ手を交わしていた。勘がいい。そして足が速い。

『牙の野郎ォッ』

 それを言われると耳が痛いと、牙は悪びれもせずに胸の中で呟いた。

 なぜこんな遊びをしているのか自分でもよく解らない。無駄なことはしない主義だが、思いついた時には実行しないわけにはいかない気分になっていた。

 不思議な若者だった。

 ステーションの益体もない土産物屋の品物を、仲間たちが焦れてくるぐらいじっくりと眺めて動かなかった。このあたりで採れる鉱石をチェーンに加工した安っぽい品を何度か手に取り、とっとと買えと一人が呟いた時、元に戻して店を出た。

 取り囲んだ時、牙は背後をふさぐ役だった。

 一瞬肩が強張ったのが見えたが、それだけだった。まったく抵抗せず、自分たちの手に落ちた。

 顔をしっかりと見たのは、見張りになってからである。

 柔らかな栗毛に銀のメッシュを入れた髪、緑色の瞳。衣服はすべて安物の割に、やけにこざっぱりした印象があった。気絶していたのが目覚めた時、彼は驚くほど冷静に自分の立場を理解していた。

 うめき声ひとつ出さずに眼を開き、目だけであたりをゆっくりと見回した。

 その視線が自分の上を、その存在には気付かないまま横切っていくのを見ながら、牙は奇妙に胸が騒ぐのを感じていた。生意気にも顔つきには怯えがほとんどなく、それなのに脱走や意趣返しを考える人間の不穏な気配もなかった。

 ざらついた興奮があった。

 こんな人間を見たことがないと思った。そして同時に、ひどく懐かしいとも思った。

『充満する前に追いつめろ、煙で見失うぞ!』

『冗談言うな、このビルは箱だ。空調がないんだぞ。俺たちを殺す気か』

 正論だ。

 特別製の牙の衣服なら、頭を覆ってしまえば服の中の空気で数十メートルは移動できるように作られているが、他の者たちはビニール袋ひとつ持っていない。煙がある程度以上立ちこめたところに飛び込んでいったら酸欠を起こしてしまう。

 だがそれは、アルにしても同じことだ。

『どうせこっちで待ってりゃ出てくるんだろう!?』

 苦しくなれば飛び出してくる。

 そうでなければ、煙に巻かれて失神、もしくは死亡する。

 牙はゆるりと体を起こし、アルの逃げ込んだ方へ移動をはじめた。助けてやろうというわけではない。ただ、死亡したなら確認したかった。

 いや、ひょっとしたら、彼が死ぬところに立ち合いたいのかもしれない。

 白煙の中であの青年がのたうち回っていたなら、それを自分が最後まで観察するのではないかという気がした。

 トラップとセンサーの位置を頭の中で照合して、その場所までの最短ルートを考える。

 取るべき道が決まって走り出した時だ。

 ぐぅっ、と、唸るような声が耳元に届いた。

『おい、何があった!』

『応答しろッ』

 叫んでいるのはどちらも、アルを追って駆けずり回っていた二人だ。ならば異常発生は指令を与えていた「本部」の方ということになる。三階だ。

 一瞬、どちらへ行くか牙は迷った。

 その時。

『お‥い、お前ら』

 奇妙に上擦った声がした。今まで指示を飛ばしていた、機械類の操作を担当している男ではない。バロだ。

『それ以上、追うな。戻って、こい』

『なんだって?』

『ボス?』

『いいから戻れッ!』

 同時に、ぶつりとプラグを引き抜いたような音がした。

 四六時中がなりたてていた耳元の金具が沈黙する。親機の電源が切られたようだ。牙は無線通信の傍受から、本部に仕掛けてある盗聴器にチャンネルを切り替えた。

 聞こえてきたのはノイズ音だけだった。

 機器の唸りや様々な反響の具合はいつも通りだ。盗聴器は正常に働いている。かすかに息づかいのようなものが聞こえた。どうやら部屋の全員が沈黙しているらしかった。

『荒っぽい真似をして、すまなかったな?』

 牙でさえ。

 ぞくりと背筋に粟を生じた。

 柔らかく、穏やかで、幼いほどの涼しい声。言葉の内容は優しいものだ。それなのに、その全ての要素を凌駕してあまりある、凄まじい冷徹さがそこにはあった。

 本能的に、そこへ近付いてはならないと知った。

 牙は軽く床を蹴って走り出す。何度も死線をくぐり抜けてきた牙には、ある種の嗅覚がある。何が危険で、何が触れてはならないかを瞬間的に嗅ぎ分ける能力だ。その力が今、あれは関わってはならないものだと最大のボリュームで警鐘を鳴らしている。

 あの部屋へ向かってはいけない。

 目指すのは煙の方向だ。あの青年が死んだか確認したら、なるべく早くここを出た方がいい。

『かけてくれ。特にあなたは、楽にした方がいい』

 人の動く気配があって、そんな親切な言葉が耳元に響く。

『その爆弾は水にも反応する。汗でも起爆してしまうことがあるから』

 爆弾。

 汗でも起爆。

 それだけの情報で、牙は状況を理解した。

 侵入者はたった数十秒の時間でバロの身柄を拘束し、その体に爆弾を取り付けたのだ。はずそうとして線を切ってしまえば爆発する。相手に起爆装置を握られていれば従うほか道がない。このあたりの銀河系ではあまり耳にしない脅迫方法だったが、遠方では類似の手口で身代金を脅し取るケースがあると聞く。

『これで、煙は全部、止まりました』

『ああ、ありがとう』

 報告を聞いて侵入者が優しく返事をしている。

 盗聴の具合なのか耳元にささやかれているような錯覚があって、牙は一度まぶたを閉じそれを振り払う。この声を聞くとなぜだか落ち着けない。こめかみがどくどくと脈打っていた。

 足音がして、止まり、また足音。

『下がれ』

 命令があった後で、ドンッ、と、やや小規模な爆音。

『おい、何を!』

『計器壊しちまったらあんただって奴の動きが――』

 叫び声が静まる。

 銃か何かをそちらへ向けたのだろう。

『こちらも、あまり時間がないんだ。あなた方に教えてもらわなくても、彼が外へ出れば私には解るようにしてある。これは邪魔なだけだ』

 あたりに煙幕がたちこめてきて、牙は襟のスイッチを操作した。柔らかく透明な素材でできたヘルメットが彼の頭部をすっぽりと覆う。視界はまだ比較的明瞭だ。服の中の空気だけでは長くは持たないが、服までが煙を吸った後では遅いため仕方がなかった。

 最後にアルが確認された地点に来ている。

 牙はかがんで、煙の薄い床近くを道の先まで透かし見た。しかし、これと言ったものは見あたらず彼は中腰で走りながらゴーグルに仕込んだセンサーを起動させる。

『人質が無事にこの建物を出られるといいな。私にとっても、あなた方にとっても』

 煙が濃くなってきた頃、前方に、熱反応が見つかった。



 またひとつ角を折れたら、真っ白だった。

 煙の充満した区画に正面から突っ込んだのだ。咄嗟に目をつぶったが遅く、どっと涙が溢れ出る。これほど煙が目に痛いとは予想していなかった。

 立ち止まり、アルは背中を壁に押しつけて痛みをやり過ごす。

 右手はずっと口を覆ったままだ。息を止めているわけではない。以前レイにもらった、小さなカプセルを前歯と唇で挟んでくわえている。どういう仕組みなのかは知らないが、そうしていると少しずつだが呼吸が出来るのだ。

「鼻で空気を吸わないように、気を付けて」

 渡された時にわざわざ使用法を練習させられたのだが、そのお節介が今は染みるほどにありがたい。使ったことがなければ、カプセルだけを持たされていてもこんな風に即座に利用できたか解らなかった。

「なるべくゆっくり。急いで吸いすぎると空気が出てこない」

 レイの注意を頭の中で繰り返し、目をつぶったまま身をかがめて、うっすらとまぶたを上げる。予想通りいくらか煙が薄い。やはり涙は出るし痛くて堪らなかったが、息がある間は動くことができる。

 煙の中、壁を手探りで伝い、なるべく静かに歩く。

 重力装置を使って体をわずかに浮かして、足音を立てないようにしていた。

 靴を使えば突き当たりまで飛び込むこともできたが、見えない壁にいきなり激突するのは少し無鉄砲が過ぎる。この状況でコントロールできるか不安でもあり、走らないことにした。

 先程までは時折、追っ手の足音や叫び交わす声が聞こえていたが、今は静かだ。

 アルが服の中に酸素のカプセルを隠していることを、敵は予想していなかったのだろうか。レイは船乗りなら誰でも持っているものだと言っていたが。

 それにしても、煙が目に痛い。

 息ができるのは掛け値なしにありがたいのだが、どうも思い切り肺に空気を入れることができず、常に息苦しい感じがする。

 と。

 肌が何かを感じて、アルは素早く体を壁に押しつけた。

(…いる)

 一人だろうか。言葉を交わしていないだけで複数人が待ち受けているのだろうか。煙が揺らめいた気配があった。こちらに武器はない。二つ目のカプセルを手の中に握り込み、逆の手でその拳を包む。体が浮いた状態で蹴りは危険だ。ならば、肘鉄が一番強い。

(一人であってくれ!)

 馬鹿ッ、パペットを攻撃するな!

 攻撃の体制に入ったところを、怒鳴られた気がした。えっと目を見開くが、体の動きはもう止まらない。動揺でバランスが崩れた。

 その背中をドッと衝撃が襲い、倒れた拍子に口からカプセルが落ちる。肩を強く打っていて、痛みに思わず叫んで空気を吸っていた。とどめる間もなく深呼吸になり、容赦なく煙が喉と肺を焼いた。

 悲鳴で息を吐き、一度むせてしまえば、後は煙を吸い込むだけの悪循環。

 苦しさでのたうちまわりながら、霞のかかった頭で手の中に新しいカプセルがあることを思い出す。手のひらを唇に近づけたら、前歯で噛まずに口の中へ入れてしまった。だがちょうど犬歯がカプセルを捉え、偶然ながらも空気の出る穴を開いた。無意識に口と鼻を両手で覆う。

 わずかに、思考と視界が戻った。

 上から何かが崩れ落ちる。がしゃんと派手に倒れてアルの眼前をふさいだのは、人型のロボットの、髪のない頭部だった。

 それを追いかけるように、隣から手が伸びてきて体を起こされる。

「…牙」

 目が丸くなった。

 後で思えば、よく歯にカプセルをくわえたまま喋るなんて器用な真似ができたものだ。

 その後は一言を発する暇もなかった。ぐいとウエストに腕を回され、荷物のように小脇に抱えられて、煙の中を抜けていく。アルだって軽くはないだろうに結構なスピードだ。そして煙の切れた場所、階段の踊り場でどさりと床へ放り出される。

 むしり取るように、牙は頭を覆った透明の袋を取った。口の覆いまではずす。薄い唇が深く息を吸い込んだのが見えた。

「この階段を、一階まで、降りろ。邪魔は入らない」

「牙、お前」

 すごい息切れだ。顎から汗が滴っている。

「パペットに出会っても、絶対に手を出すな。一度攻撃すれば、死ぬまで狙われる」

 言い終わるか終わらないかの内に、牙は背後へ大きく腕を突き出した。煙を纏って飛び込んできたロボットが一台、的確に首の認識タグを貫かれ、がらくたとなって地面に崩れ落ちる。牙の手袋の、甲の側から、ちょうど中指だけを立てた時のような感じで、細身の刀身が伸びていた。その向こうに新たな影が揺らぎ、牙へと一打を繰り出してくる。

 理解した。

 あの瞬間にアルを庇ってしまったために、牙が標的として認識されてしまったのだ。

「降りろ!」

 再び牙が叫んだ。

 アルは最後のカプセルを取り出してそちらへ駆け寄り、牙の手に握らせた。牙が驚きの素振りを見せたような気がしたが、確認する暇はない。ただ一声、叫んだ。

「生き延びろよ、同郷ッ!」

 最大にしてあった靴の加速で、勢いよくターンを決める。アルはほとんど宙を滑空するように階段へと身を躍らせた。




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