Chap.3 誘拐
「お前は私が買った」
はづみは、そう言ってファルクに手を差し伸べた。後ろでは、埜流が「ほんとに物好きなんだから」と笑っていた。
傷付き、腹を空かせ、痩せ細った子供は、おそるおそるその手を取る。
彼はファルクの背中を叩いて笑む。
「住み良い場所が見つかれば、そこで自由にしてやるさ」
助けてくれた。
地獄のような日々から救い出してくれたその人を、なんと呼ぶべきか、考えるより先に知っていた。
「オレは…あなたの忠実な召使いだ。ご主人」
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しくじった。
このあたりの治安が悪いことは聞いていたし、船を出る時には『外宇宙から来た人間は特に犯罪の標的にされるらしいから、急ぐ用でないならやめておけ』という、実に丁寧な忠告までもらっていた。
だが人間というものは、自分だけは大丈夫と思うように出来ている。
そして事態が起こってしまってから後悔するのだ。ちょうど今、手足に錠をかけられて床に転がされているアルのように。
部屋はがらんとして、天井が高くてドーム状になっていて梁が剥き出しで、カビくさい湿った匂いがする。アルの目から見える範囲はそう広くはないが、寝返りが打てないから背後にどのくらいの空間があるのか判らない。窓や出入り口の類は視界にはなく、印象としては倉庫のような場所だ。肌に触れる冷たい樹脂は、明らかに居住空間の床ではない。
どうやら自分は誘拐されたらしい、とアルは理解しかけていた。
逃げよう、と思った時には遅かった。
一日に何万人という人の行き来する宇宙航空機の乗り入れ場、いわゆるステーションの中を歩いていたアルは、眼前に二人の男が立ちふさがったと同時に、背後にも人の気配があることに気付いた。すでに逃げ道はなく、アルは内心、己の迂闊さを呪った。
来い、と身振りで示されたので、大人しく従った。
人気のない場所に向かっていると知っても、まだアルは金を脅し取るのだろうぐらいにしか考えていなかった。とりあえず、身ぐるみを剥がれれば終わりだと思っていたのだ。
だが、実際には角を曲がった途端に当て身を食らわされて、目覚めたらこの恰好。
腕は後ろに回され、手首同士を留められており、足同士も同様に金具で繋がれている。自分では立つことも出来ない。いかにも虜囚といった様子だ。
ふと、アルはその他の雑音に混じって響いてくる靴音を聞き取った。
それは徐々に大きく近くなり、アルの背中側、こちらへ向かって歩いてくる。
「どうだ、牙」
足音が止まって、割れたような低い声が頭上に響いた。「起きたか」
「ああ」
別の声が応えたので、アルはぎょっとなった。
自分が今まで見るともなく眺めていた壁際の暗がりに、一人の男が片膝を立てて座っていたのだ。
まったく、気が付かなかった。
アルが目覚めてから二十分は経過していただろうか。他の方へは顔を向けることができなかったし、音には普段の倍以も敏感になっていた。それも片耳は地面に張り付いている。少しでも動いていたなら、絶対にその存在に気が付いていただろうに。
二歩分、背後の足が動いた。
踵で肩を引っかけられ、ごろりと逆に向かされる。背中に敷く形になり腕が痛んだ。
「よう」
しゃがみ込んで、覆い被さるように覗き込む、ヒゲの濃い顔。
周囲の肌は黒いくせに厚ぼったい唇が嫌に生々しいピンクをしていて、見上げていると下唇の端がいくらか白っぽいのに気が付いた。体色を染めている手合いだ。肌は白いより黒い方が箔が付くとでも思っているのだろう。
「状況は解ってるな?」
口で返事をするのは得策でないように思えて、咄嗟に少し目を逸らした。見なかったが、にやりと相手が笑った気がした。
「お前の船の、連絡コードは解るか」
「F‥X、3、8、A‥」
喋る口元に小型の機材をあてがわれている。最初は録音のためのマイクかと思ったが、どうやら通信機らしく、アルが言い終わると相手は自分の口に近づけて何か指示を出していた。
「プロテクション? 馬鹿野郎、それを破るのがてめえの仕事だろう、さっさとしろ」
番号から船の情報をハッキングしているようだった。
ぼんやり男を見上げていると、不意にこちらを向いて「お前の名前は」と言う。
「アル」
「名字は」
「ない。それで‥通じる」
黒々と縮れた男の眉がわずかに歪んだ。何か考えたような間があって、「出身」と短く問われた。
「プラサ、アスル」
そう告げると、今度はあからさまに嫌な顔をして、ちっ、と舌打ちする。
アルの暮らしていたプラサ・アスルは、このあたりの銀河系と較べても、決して裕福と言える土地ではない。身代金の支払い能力を懸念しているのだろう。
「おい、まだかかるのか」
苛々とマイクに向かって尋ねている。
暫時の間があって、瞬間、奇妙に素早く男の目が動く。さっきの牙とかいう影のような男を気にしたのだとなんとなく解った。
「船長の名前は解るか」
「レイノルド‥R、アバルキン」
答えると同時に、ぴくぴくっと分厚い唇が痙攣した。笑いそうなのをこらえているのか、怒りを抑えているのか、今ひとつ判断が付かない表情だ。
「どうやら、それらしいな。そっちへ戻る。待ってろ」
腕と耳の機材を操作して通信のスイッチを切り、男はやや不機嫌な顔をしてアルの後方上部を見やる。
「はずれクジかも知んねえ」
男が言った途端、失笑が聞こえた。
「下手な芝居はいらん」
牙だ。
がさついた所のない滑らかなテナー。美声の部類に入るだろう。
「聞こえている。船籍がサ・カーンで転売の記録がなく、船主の登録名もアバルキン氏で一致するのだろう?」
沈黙があった。
月とすっぽんのたとえを地域にも使うなら、プラサ・アスルはすっぽんだろう。そしてサ・カーン銀河系は確実に月に該当する。全宇宙でもずば抜けて裕福な、世界の都。特に『中央』と呼ばれる区域は人類の経済活動の三割近くが集中しているとまで言われる大都市だ。
「私の取り分は、ベースが五千に、成功報酬として手に入った金の十五パーセント。そうだな、バロ」
あくまで冷静に確認するテノール。
この牙というのは雇われた立場で、バロと呼んだ相手へ報酬の額を誤魔化さないようにと予防線を張っているのだ。味方の盗聴をするとはまた仲の良いことである。
ちなみにバロとはこのあたりの言葉で雄牛を指す単語だ。
(冗談じゃねえ…)
アルは腹で毒づいていた。
牙の言葉は、裏を返せば二人ともサ・カーンの船に乗るような人間なら高額の支払いに耐えると考えたということだ。しかしアルはほとんど無一文で現在は収入もない。相棒のレイ――レイノルドの愛称である――もそれを承知していて、食費も燃料費も請求されたことがなかった。
そうなると頼みの綱はレイの蓄えだ。
今のところ金に困っている様子は見られず、アルが乗船することになって新しく必要になったベッドだの船外作業用の宇宙服だのといった値の張る品物も、その他の細々とした買い物とまとめてぽんと支払ってくれた。金はとアルの方から問いかけたのはこの時だけだったが、『足りなくなったら稼げばいいから』と軽い調子で返された。
稼ぐってお前がかよ?
そう笑って話題を流してしまったが、もっと詳しく聞いておくべきだったかもしれない。起こりえない冗談として笑えるぐらい懐に余裕があったのか、それともすぐ足りなくなるほどの予算しかなかったのに必要な物だと割り切って金を惜しまなかっただけなのか。
レイは所詮、十五の子供だ。
もし要求金額が支払い能力を超えたら、レイは何を考えどう出るか。万が一、金が用意できなければまず間違いなくあのお子様は自分を責める。己のせいでアルを死の淵に追いやると考えてしまう。
冗談じゃない。
本当のところ、アルにも大金を用意する方法がないではないのだ。だが、それはレイに伝えるわけにはいかないし、まして誘拐団の人間に知られるわけにもいかない。けれどもレイの心に罪悪感を深く埋め込んでからではすべてが遅い。
どうしたらいいのか。
話を終えて戻っていくバロの靴の踵を睨んで、アルはじっと考えていた。
最初は空咳だった。
少し喉がいがらっぽくて、無意識に咳払いをしたのだ。それが、長時間水分を口にしていなかったためにひどくむせるような形になり、止まらなくなったアルは咳き込んで体を折るまでになった。
激しく何度も咳をしていると、急にぐいと体を引き起こされた。
問答無用で目の前に何かを差し出されて、それが飲料ボトルの吸い口だと気付いたら、驚きで咳が止まった。一拍の後、襟首を掴まれたまま遠慮なく口を付ける。中身はぬるくなった水で、妙な匂いも感じられたが、それでも今は甘露の味だ。
存分に飲んだ後、口で少し押し返す動きをして合図を送る。相手はボトルを引き、首を掴んでいた手を離した。その時に決して優しい手つきではないながらも、軽く背中を壁にもたれるような姿勢にしてもらえて、相手に興味を覚えたアルはかすかに顔を上げる。
牙、と呼ばれていたその男も、ちょうどこちらを見下ろしたところだった。
視線が交錯したらしい一瞬があって。
わずかに、アルは眉を寄せた。
(こいつ…誰かに、似てる‥‥?)
そう感じたというのも奇妙な話だった。その人物の顔は風変わりな防具で覆われていて、アルには見えないのである。覆面と言うよりは面鎧と表した方が良さそうな、暗めの色の合成樹脂。目の部分はさすがに半透明の素材が嵌め込まれているが、これもまた一種サングラスのような着色素材で、こちらからは視線の動きや向きがうかがえない。口も完全に覆われていて、顎の形ひとつ解らなかった。
しかも話は顔だけで終わらない。
襟が高いと言うか、ぐるりと首も衣服に隠されているし、腕には肘近くまでの長い手袋を穿いていて、足元にももちろん隙はない。幾分奇異に見えるぐらい、肌の露出が少ない風体だ。犯罪者だという事実を差し引くにしても、この恰好なら抜群の匿名性を誇る。
「何を考えている」
一瞬、自分が質問をされたと気付かなかった。だから咄嗟に、本当に考えていたことをぽろりと答えてしまった。
「あ、いや、肌が自然光に弱いのかなって」
相手は沈黙した。
戸惑ったような空気だとアルは思った。図星という感じではないが、それまでその男を取り巻いていた静かな威圧感がいくらか和らいでいる。
「妙な奴だ」
「そう、すか?」
「今までこの姿を見てそんなことを言った奴はいない」
それはそうだろう。
アルもちょうど惚けていたあの瞬間でなければ、きっとああ無防備に言葉をこぼすことはなかった。牙には少々迫力がありすぎる。
またしばらく黙っていてから、彼は律儀に言い添えた。
「肌が弱い、わけではない」
「…そっすか」
酒場で仕事をしていた経験から、アルは人を第一印象で素早く判断する癖がついている。
たとえばさっきのバロという黒い肌の大男。
あれは『乱暴者』だ。
下町で生活していたアルの周辺には常に存在していたタイプで、自分を必要以上に強く見せたがる手合いである。己より弱い者を弄んで強さを誇示する者も多く、何をされても逃げるすべのない現在の立場では長時間一緒にいたくない系統だが、馴染みのある人種なだけに、どんな手順で物を考えるかも比較的予想がしやすい。
対して牙の印象は、『触るな危険』だ。
存在が殺気を帯びている。
バロを吠える音量と体格で相手を脅す犬にたとえるなら、牙は音を立てずに突然獲物へ襲いかかる狼だ。自らの力を喧伝するような真似はしないが、明確な境界線で区切られた縄張りを持ち、その線を一歩でも越えた相手には容赦しない。
敵に回したくないことはもちろんだが、何かの拍子に触れてはならない場所をつついてしまわないよう、なるべく距離を取っておきたいタイプだ。
だから。
妙に普通に会話が成立してしまうと、アルの方も調子が狂う。
「お前は、金のあてはあるのか」
「あて‥って言われても、額が解らないと」
返事までにはまた間があいた。
その様子を見ていたアルは、どうして自分が質問に即時では反応できなかったかに気が付いた。動かないのだ。この牙という男は、話をする時にも沈黙の間にも、ほとんど体を動かさない。顔や口の筋肉が隠されているからなおさら、声がどこか別の場所から降ってきているような錯覚を呼ぶ。
「五万」
「はい?」
「金額だ。五万で、固まったようだ」
今の時間に仲間の会話の盗聴をしていたらしい。
五万、とぼんやり頭の中で繰り返した後、急にその意味を理解したアルは喉の奥に何か詰め込まれたように言葉を失った。
地方通貨で身代金を要求するような誘拐団などないだろう。ならば連邦の通貨で五万。プラサなら土地と召使いつきで豪邸が買えてしまう。
絶句したアルを、牙は眺めていたようだった。
「こう言ってもいい。アバルキンが、お前のために船を手放すという自信があるかとな」
「…え?」
きっとその時、本当にアルは間の抜けた顔をしたに違いない。
「船、を?」
宇宙船を売って金を用立てる。
アルが夢にも考えなかった手段だった。だが確かに、言われてみれば宇宙船というのはそれ自体かなりの財産であるはずだ。
「奴らは」
と、自分の仲間を指して牙は言った。
「根気は欠けるが仕事には堅い。払えない額なら最初から請求しない。お前の乗ってきた船は船長の持ち船だ。査定をして五万は出せる船だと見たから、その額に決めたはずだ。奴らは基本的に船主と交渉する。お前が払えるかより、お前と船長との関係を考えた方がいい」
ずるり、と。
呆然となったままアルは背中を完全に後ろの壁へ預けた。
「それは、望み薄という意味か」
「逆」
返事の言葉さえ惜しみ、くしゃりと悔しさに顔を歪めて、アルはうつむいた。安堵してしまった自分が許せなかった。
「あんた、船、乗る人?」
「いや」
「そっか」
操縦はしないという牙の声に、呟く。
アルは船乗りを相手に商売をしてきた。彼らの自慢話を聞くのも仕事だった。持ち船というのがどれほど特別なのかも、嫌というほど聞かされてきた。
「体の一部、って、言いますよね」
「何がだ」
「船。あいつフリーの船乗りで。俺が船のこと全然解らないから、あんま、そういうこと言ったことないけど、やっぱり意味が違うらしいんですわ。自分の船ってのは」
簡単に、捨ててしまうだろう。
何も言わないだろう。
そして自分は、それがどんな痛みを伴うものなのか、想像する以上には感じられない。それに見合うだけのものを返すことは可能なのに、そこまでの覚悟はない。
どれくらい時間が過ぎただろう。
不意に、牙の手がアルの頭を押した。勝手に顔が上を向く。
「なんすか」
「ずいぶんな自信だ」
「ってーと?」
「その船乗りが、お前のために船を捨てると」
「仕方ないんですよ」
バーテンの頃の、どこか物悲しいような微笑になってアルは言った。
「あの船長はそういう性格なんです。とっつかまったのが俺じゃなくて誰か他の人でも、見ず知らずの…例えばあんたでも、自分に身代金の要求がきたら払っちまう」
あれは、『はづみ』だから。
確信以上の確信がアルにはあった。あれは己のために他の者が傷付くのを何より恐れる生き物だ。
金を用意する手段があって、それを講じないことなどありえない。
「船を、捨てさせたくないか」
「だけど払ってもらわないことには、俺が殺されますから」
再び、空白があった。
そして突然。
「気に食わんな」
言葉の内容からすると甘い響きに思えるほど、穏やかな声で低くささやかれた。
ぱちり、と、アルは瞬きをする。
「私が嫌いなのは、他力本願というやつだ」
見下ろされている。
真正面に立たれたのを下から見ているのを差し引いても、牙は背が高かった。動く時に動いたことを感じさせない、不思議な身のこなしをする。
「人間は、自分が危機にあることを認めたがらない。刃を喉元に突きつけても、本当には殺さないだろうと考える。絶望的な状況でも、漠然と誰かが助けてくれるだろうと考えている」
するり、と、牙の指が――正確には手袋の先が、アルの喉を触れる。
何か大切なものが麻痺してしまったというわけでもないだろうに、恐怖はほとんど感じなかった。牙の言うように、認めたくないだけなのか。
「誰か、とは誰だ? いつか、とはいつ来る。ここでお前を殺しても、身代金を払う者はそれを知ることはできない。金を受け取った後には生かしてお前を返す理由もない。誰もお前を本当に助けることはできない。自分の身を守れるのは、自分だけだ」
不思議なほど冷静だった。
心臓はネズミのように素早く脈打ち、体は硬く強張って、緊張は最高に達していたが、視界には一片の曇りもなく、中央にくっきりと相手の姿を捉えて反応をうかがっている。
高音の耳鳴りを感じた。
ピアノ線のごとくピンと張った緊張が、不意に、少しだけ、緩んだ。
「だが」
ほとんど感情の揺れを映さない声に、ほんのかすかな困惑。
「お前は、それにしても‥奇妙だ」
再度、ぱちりとアルは瞬きをした。
ゴーグルの嵌め込まれた部分をじっと見つめる。
やがて牙が口を開いて、少しの間、アルは彼の話を聞いた。そして最後に、牙は言った。試しに、逃げてみろと。