Chap.2 白雪
店で客引きをしないように言わんとならんな、と、あの後、店長は呟いた。
大目に見てあげてください、と言おうかと思ったが、そこまでの義理もないような気がしてアルは結局黙っていた。
カイゼルの話の途中で、何度か、それっぽい人なら見ましたよと言おうか考えた。
隣の星のステーションでとんでもない美形と目が合ったのだと。
怖いほどの黒い目に、耳よりちょっと伸びた漆黒の髪がやけに色っぽい青年を見たと。
けれどやっぱり黙っていたのは、客は別に相手の話を聞きたくてバーテンに話しかけるわけではないからだ。仕事中にこちらが話していては意味がない。
それ以上の理由はない。
「見たぜ」
一人の常連が、椅子に着くか着かないかでそう言った。
奇妙な緊張が店の中に走る。アルはスコッチのソーダ割りを作りながら、目だけで先を促した。
「白雪だ」
確認するような声に、不思議なため息が小さな店内に広がった。
あの後『白雪姫』の話は徐々に常連客の間に広まっていった。アルがオリジナルの酒を出したからではない。あの晩の話で『彼』を運んだのがカイゼルだということが明らかになると、そんな人物を自分も見たという人間がちらほらと現れだしたのである。
こうなると、我もと思うのが人情である。
ちょっとでもそれらしい黒髪を見かけた者は、まるで何か、手柄でも立てたかのようにこの店のカウンターで報告をするようになっていった。
話が客を呼び、客が新しい話を持ってくる。
おかげでこの店は近年なかったほどに繁盛していた。ありがたいことであるが、店長はそれをあまり歓迎していなかった。一時の客が店の雰囲気を壊すと、常連の足が離れる。
「いつだよ?」
「今日の昼ごろだ。ここからちょっと行ったところに質屋があるだろ」
「質屋ぁ?」
それは違うだろう、というような微妙な空気が流れる。
浮世離れした『白雪姫』の都市伝説に、質屋はあまりにも俗っぽい舞台である。しかもこれまでは目撃情報がすべて周辺の惑星だったのに対して、
「質屋っていったら、そこの角だぞ?」
「俺だってまさかと思ったさ。だけどな、これが‥なんて言うのかな、無茶苦茶な綺麗な奴で」
「お前んとこの婆みたいにか」
「黙ってろ、くそガキ。こうぐるっとバイザーつけてて、黒い髪が肩近くまで伸びてた。耳に通信用のピアスが見えたぜ」
「おいおい、そりゃどっかの船乗りだろ」
たちまち周囲から野次が飛んだ。
船乗りは通常、船にホストコンピュータを持っているため、親機と連動した通信器具がひとつあれば大体の用が足りる。
通信用のピアスと、操縦に使うバイザーは、船乗りの必需品だ。
「船乗れるんならカイゼル雇う必要ないじゃねぇか」
「バイザーあったんじゃ、顔見えなかったんだろ」
「黙ってろ、つってんだろ! 食らわすぞ」
アルが酒を出す。男はそれを半分ほど一気に空けて、じろりと周りを見渡した。
「いいか」
指先で二回、机を叩く。「顔なんざ、関係ないんだよ」
当然、ブーイングが起こった。
「お前たちも実物見りゃ解るってもんだ。賭けてもいい、あれが白雪だ。立ってるだけで目を引く美形なんてのはそういるもんじゃない。政府の公園でも歩いてるみたいに、棚の間を物色してまわってた。ボウガンの棚の前ですれ違った時には喉が干上がるかと思ったぜ。行き過ぎそうになったのが、ちょっと足を止めて振り向くんだ。驚くだろう? なんのことはない。手を出して、棚から時刻版を取って、ちらっと裏を見た後また元に戻した。それで奴は行っちまったよ」
ほんの一瞬、沈黙があった。
「話になんねえな」
一人が言った途端に、まわりがどっと笑い出す。そして同時に奇妙な安堵感が広がった。それはアルには、複雑な事態に自分では判断がつかなくなったところに、他人から答えが与えられて安心した姿のようにも思えた。
情報提供者は明らかにむっとした顔をして、二杯目の酒をアルにせかす。
「どんな色でしたか」
「んあ?」
「ピアスです」
話が別の場所で盛り上がっていた時、何気ない素振りでアルは男に尋ねた。
「ああ、白雪のか? そうだな、青だったと思うけど」
「銀色じゃないんですね。どうして通信用だと?」
「そういや…なんでだろうな?」
男が首をひねっていた。
彼がどうしてそう考えたのか、アルは知っている。形のせいだ。アルがしているような多機能のものはリング型をしているのが多いのに対して、通信機能だけのピアスは小さな粒状の型がほとんどだ。
ピアスのことは、カイゼルの話には出てこなかった。
アルが見た『白雪』の特徴である。
本物だろうとアルは思った。だが、それを口に出すことはなかった。
その必要はなかったから。
一番、人の多い時間だった。
ドアチャイムを鳴らして、ピンク色の髪をした女性が上機嫌で入ってきた。
「連れて来ちゃったー!」
大きな声に眉をひそめて顔を上げたスキンヘッドの店長が、動きを止める。それを見て、他の客もわずかに入り口を振り向いた。
「ここ、ここ。ね、入って」
顔など関係ないと言った男の真実が、今こそ人々に伝わっただろう。
誰もが呆然となって、そちらに向けた顔を動かせなくなった。女に腕を取られて、引きずられるように入ってきた男は、それほど、美しかった。
漆黒の髪、乳白色の肌、顔の半分をバイザーに隠されていながら、その美貌は隠しようがない。
「いらっしゃいませ」
穏やかに、いつもと変わらない声でアルが言った。
男は少し顔を上げる。
それから、正面に空いていた席に腰掛けた。アルは材料を取ってブルームーンの調合にかかる。
「ね、レッド。この子」
「白雪さんですね」
女の期待に満ちた声に応えて、アルがにっこりとする。周囲はそれどころではない。
「お飲み物は、いかがなさいますか」
尋ねられてしばらくして、男が自分に問われたのだと気付いた。
耳元に、青いピアスが宝石のように輝く。
「まかせる」
短く、それ以上の問いかけを拒むように相手は答えた。
手元にブルームーンを用意してから、アルはクリームをシェイクする。ステアした黒い酒の上にそれを流し、ナツメグを振り入れた。『白雪姫』の完成形だ。
二人の前に、酒を出す。
女が乾杯を求める前に、黒髪の美青年はグラスに口を付けていた。
話しかけにくい空気だった。
いつしか、小さな店内が完全な沈黙の中に沈む。
「お味は」
アルが尋ねた。
「甘い」
客が応える。
「お気に召しませんでしたか」
「いや」
会話を楽しもうという意志がまったく見られない。彼を引っ張り込んできた娼婦さえ、居心地の悪いものを感じているらしく、困った顔でグラスを揺らしている。
それにしても、凄まじい存在感だった。
どうしてもそちらを見ずにいられない。体から漂うものが、人を引きつけずにいない。手が止まり、彼のバイザーの下の容貌が気になり、声を確認したくなる。
「それ、じゃあ‥私、用があるから、これで」
あまりにばつが悪かったのだろう。グラスを干した女が立ち上がり、鞄を開けた。
逃げるのか、と非難じみた気配が店内にじわりと湧いた時に、財布を出そうとする手を止めて男が硬貨を一枚カウンターに置く。
女が瞬きをした。
「いいの?」
「行け」
振り向きもせずに答える。
一度、そのまま元の席に戻ってしまいたいような顔をしたが、結局引っ込みがつかずに彼女は去っていった。
しゃらん、と、ドアチャイムが鳴る。
男はただ静かに酒を飲んだ。大して度の強い酒ではないのだが、ゆっくりと、味わって飲んでいるらしく、なかなか中身が減らない。
人々はちらちらと彼の方をうかがったが、不躾な視線には慣れているのか、さして気にしている様子もなかった。
「レッド・アイ」
一人が呼んだ。
アルはグラスを洗っていた手を止め、注文を聞くと酒を用意した。つまみの追加が入って、店長に視線を送る。
「レッド・アイ?」
聞き逃してしまいそうな小さな声で呟いて、男が顔を上げる。
アルの目を見ているのだな、と、誰もが理解した。
しばらく待って相手が口を開かなかったので、アルが質問の前に答えてやることにした。
「目の色じゃないですよ。お酒の名前です。必ず仕事の前に飲むので、いつの間にかそう呼ばれるようになりました」
なるほど、とか、そうか、とか、そんな感じの言葉を呟いたようだった。
「飲みますか」
「?」
「二杯目、レッド・アイでもお作りしましょうか」
グラスの中身は残りわずかになっていた。ふちに軽く指をかける、その手には、光沢を放つ黒い手袋がはかれている。
少しの沈黙があって、男は頷いた。
トマトジュースに手を伸ばすアルの前で、残っていたカクテルを煽る。仰け反った白い首が店内のライトになまめかしく光を放った。
縦長のコップに、オレンジ色の飲料。目を凝らすと微細な泡が立っているのが見える。
「いかがですか」
「苦い」
口数は少ないくせに、文句の多い客だ。アルが苦笑する。
「ビールとトマトジュースで、甘くはなりません」
「ああ。ビールの苦みか」
珍しくまともな相づちが返った。
「酒という感じがしない」
「二日酔いの時、迎え酒に飲まれたそうです。酔い覚ましですよ」
その言葉に頷いたのを最後に、また青年は沈黙した。
今度はアルコール度数がかなり低かったせいか、先程よりは早く酒がなくなっていく。
「どなたか、お探しだとか」
不意にアルが尋ねた途端、店内の空気が変わった。バイザーに隠された青年の瞳が鋭く光ったような錯覚があったのだ。緊張を察して先にアルが謝罪する。
「余計なことをお尋ねしました」
「いや」
「ここは人の集まる場所。差し支えなければ、何かお力に」
「結構だ」
アルが言葉を言い終えないうちに、冷たい拒絶が刃のように空気を切り裂いた。
自分の声の鋭さに、本人が一番驚いたらしく、バイザーを触れる仕草で沈黙を紛らすと、男は顔を背けた。
「差し出がましいことを申し上げました。ご容赦ください」
アルが頭を下げる。
店中の者たちが全身を耳にしてこちらの様子をうかがっていた。青年はため息をついて、コップの底に残ったレッド・アイをあおる。
「探す必要がなくなった」
低く呟いて、青年は立ち上がった。「いくらだ」
アルは値段を言う。そこそこのチップを加算して彼は金を払い、背を向け、ドアに手をかける。チャイムが鳴った。
しゃららん、と、音の余韻が店内にたゆたう。
「…探す必要が、なくなった?」
「あ?」
ぽつりと言ったバーテンに、客が一人、顔を上げる。
その目の前で、アルはすでにエプロンを脱ぎにかかっている。彼はスキンヘッドを振り向いて、「店長」と声をかけた。
「俺、辞めます」
「………なんだって?」
「今まで、どうも」
綺麗に折り上げた袖を払い、ポケットから紐を出すと襟足の伸びてきた髪を縛る。
カウンターを出て、「おい」と焦ったような声を背にドアを開き、屈んで靴をいじった。重力調整がなされ、軽く地を蹴るとかすかに体が浮かぶ。
「RE!」
だが、靴を使うまでもなかった。
通りのすぐそこ、三十メートルと行かないところで、バイザーをした青年が驚いたように振り返るのが見えたのだ。
が、走り出していたから具合が悪かった。
「!」
ほとんど正面衝突しそうになったのを、相手が上手く体を交わして、逆に片腕でアルを抱き留めるようにする。
「お前…」
「すかしてんじゃねえよ、ボケ!」
きっちり狙い澄まして顔へ繰り出した拳は、簡単によけられて空を切る。腹が立って、右足を蹴り上げると、そちらは軽く手で力の向きを変えられた。
店から野次馬が飛び出してこちらを見ている。
「おい」
「ざけんなよ!」
たしなめようとするところへアルが吠えた。「俺を探してたんだろうがッ」
店の前の男たちに衝撃が走る。
駆け寄ろうとしていた店長も足を止めた。その間にもアルは次々と攻撃を繰り出して、いちいち綺麗にいなされている。
「お前、思い出して」
「俺を探してたなら、俺にそう言えよ! 店の客ばっかに接触して、挙げ句はろくに話もしないで『探す必要がなくなった』てのはどういう了見だ、アァッ」
「だって、見つかった以上、探すことは」
「屁理屈こねてんじゃねえ! 見つけたならそこで俺に言うことがあるだろうっつってんだよ。ここまで来て、他人みたいな顔して帰っていくか!?」
「でも」
左手を押さえようとした途端、右腕からスピードのある肘鉄を繰り出され、黒髪の青年はガードに左腕を上げた。ガッと鈍い音がする。
「覚えてないと、思って」
「ならいいのかよ? ああそうですかっつって帰ってくのか。今度は自分が探す番だとか言ったんじゃねぇのかよ、この口は。覚えてなけりゃ思い出させればいいだろう。俺は、記憶がない俺じゃ、意味がないのか?」
「そうじゃないけど、ささめの匂いもしないし、お前には新しい生活が」
「うるっせぇ! ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよッ」
「あ」
青年が呟く。力一杯振り上げられた足を、かわす暇がなくて咄嗟に掴んでしまったのだ。慌てて放して逆の手を出すが、遅い。片足を高い位置で止められたアルは当然バランスを崩して後ろに倒れる。
「…っ」
どさり、と尻餅をついて、アルは顔をゆがめた。
「悪い、大丈夫か」
少しだけ慌てた声。
嫌味でないのだから余計に嫌味だ。
「顔」
「え?」
「顔! いつまで隠してんだ」
びっくりしたように立ちつくした後、黒髪の青年は急いで両手を上げ、言われたとおりバイザーをはずした。野次馬をしていた客たちが息を呑む。
空気の色が変わったようだった。
やや治安の悪い路地裏には、異様なほどの綺麗な青年。その顔立ちは整いすぎていて、恐ろしいほどだ。ひんやりと冷たいオブジェのようでさえある。
くしゃり、と、見上げるアルの顔が笑み崩れた。
バーテンをしていた時には一度も見せたことのない、純粋で、子供っぽい、可愛らしいほどの笑顔。
「変わんねえよなぁ、全然」
「…ノル」
「ああ、そんな名前だったっけ。なんか違った気もするけど、そうだな、懐かしい」
呼ばれる感じを覚えている。
からりと笑ったアルに、『白雪』は目を瞠っていた。
「思い出したんじゃ」
「覚えてるぜ。あんたの名前はな」
それに声。
顔と、表情の癖、体つき、性格、愛した女。
ひとつひとつ胸の中で列挙してみて、ほとんどなんでも覚えているようだと思った。
「はづみ、だ」
呟いてみて、その響きに満足して、アルは相手の目を悪戯っぽく見つめる。「そうだろ」
子供が得意になっているような顔だった。
「昔もしてたよな、青いピアス。まんまじゃん、卑怯者。その顔見たら思い出さないわけにいかない」
「お前が変わりすぎなんだ。こっちまで顔を変えていたら収拾がつかない」
「俺らしいだろ。外側ころころ変えてるぐらいの方が」
にっと笑ってみせると、相手が苦笑した。
「レッド・アイ‥か」
「アルでいい」
「…アル」
「本名はそのうち教えてやるよ。ちょっと手ぇ貸せ」
靴のスイッチを切った後で、遠慮なく要求して手を借り、立ち上がり、服の埃を払ったアルは、おや、という顔をする。
「あんた、俺より背が低い?」
「そうか? 同じぐらいだと思うけど」
「俺の方が高いって。目の高さかなり違うじゃん。それに、ステーションじゃ気が付かなかったけど、なんかガキっぽいっつーか、乳臭いっつーか。お前今いくつだよ」
「十‥六」
「嘘っ」
年下かと叫びかけたアルに、青年は目を逸らして追い打ちをかけた。
「その、嘘じゃないんだが」
「あ?」
「実質的には、十五なんだ。一年半、コールドスリープしていたから」
「げ」
バイザーと型の気取ったコートは年齢を高く見せるための小道具なのだろう。大人びた喋り方をしている分には、とてもその年には見えない。
「アル、は?」
「俺は十七ぐらいだけど。妙な感じだな。年もだけど、お前より背が高いなんて、初めてなんじゃねえ?」
「そんなに嬉しいのか」
にやにや見下ろしてくるアルに、眉をひそめて問い返す。可愛くない子供だ。
「うるせえよ、ガキ」
「いや、そうじゃなくて…」
首を傾げ、問う。「差があった方がいいなら、もう二、三年、寝てこようか?」
さすがにアルも唖然となった。
「お前、馬鹿だろ」
「どうして」
「ああ、もういい。忘れろ」
首を振って苦笑いをし、ぐしゃぐしゃと頭を撫でる。「今、宿とかは?」
「取ってない」
「じゃ、とりあえずうち行くか」
歩き出し、ふとアルは自分の店を振り返る。見慣れた顔が並んでいた。店長に向かってにこりと仕事用の顔で笑ってみせた。
「今日までの給料、振り込んでおいてくださいね」
常連たちに会釈して、再び背を向ける。辞めたのか、と隣の黒髪が聞いていた。お前のせいだぜ、と軽口で応えている。
「そういや、はづみ、お前の今の名前は?」
何か答えたのだろうが、その返事までは店の者たちには聞き取れなかった。