Chap.23 鬼が怖くて行かれない
絵のように美しい光景だった。
二人は互いを認めた瞬間に相手の名を呼んで駆け寄り、かたく抱き合った。数秒間を、言葉もなく制止し、すべての感覚でその無事を確認することに費やす。
「心配、したよ」
「ごめん…ありがとう」
ようやく絞り出すのはそんな言葉。
今はもう、レイの方がわずかだが背が高かった。この一年で驚くほど背が伸びたものである。
「ターリャ」
「何?」
少しだけナターシャが顔を引く。万感の思いをこめてレイは微笑んだ。
「大好き」
もちろん、そこで牙が二人を引きはがした。乱暴に肩をつかまれてレイは眉をひそめ、抗議の意味でその男を軽く睨みつける。牙はそれを無視してナターシャを睨む。
「なぜお前がここに」
「一時間」
ガシャ、という音と共に銃口が牙の額に向けられる。
牙やレイは絶対に使わないような、馬鹿でかいランチャーだ。大きさは彼女の腕の長さを超え、重量はどう軽く見積もっても七キロはある。五十六ミリ口径の無反動砲。普通、対人で用いる武器のサイズではない。小型なら戦闘機が落とせる。
「一時間、連絡が取れなかったら、私の好きにしていいと言いませんでしたか」
ナターシャは怒っていた。
かなり激烈に。
「どうして、レニーが血まみれなんです?」
体に傷は見えないが、医療用の薬品の匂いがする。
「あの、ターリャ。これは返り血なんだ。俺、間違えてイワンを攻撃しちゃって」
「間違えて?」
「あんまり深く追求しないで。自分でも恥ずかしいんだ。それより、ちょうど良かった。ターリャはコネクターの調整できない?」
「接続器?」
さしものナターシャでも、それが不随者用の脳波の中継装置を示すとは理解しかねた。こっちと引っ張られて、ソファに横たわるイワンと対面させられる。
一拍。
「…どうも」
「はじめまして」
間が悪い。
「レーニャ。これは私の手には負えないよ」
動かない左半身を見せられて、やっとナターシャは話を飲み込んだ。デザート用の食器一本でこれをすべてやったのだと言うから、感嘆するほかない。
「大体の構造は解るけど、無理」
「子ギツネから指示もらってやれないかな。医療関係は得意分野だ。他のならともかく、ヴァーニャに関しては調べてあるはずだからきっと」
「レニー」
聞いていたナターシャの顔に影が差す。
背後を振り向いて牙とアルを見、話していないのかと問う。何をとレイが聞き返した。
「子ギツネは使えない」
「……何って?」
「止まってるの。電源供給や他の条件に問題はないんだけど‥うんともすんとも」
「どうして」
呆然とレイが呟いた。
ナターシャから視線を受けて、アルが言いにくそうに口元をこすり、寄りかかっていた机から体を起こす。
「俺が、取っちまったんだ」
「何を」
「ささめだよ」
説明を聞き終わった後も、レイは少しの間、口を利かなかった。
イワンがその顔を見ようと身じろぎをしていた。
「黒を使おう」
「え?」
「あれは、元々、子ギツネのコピーだ。レクサーンスを飛ばす能力はある。シェイドからフォックスを管制すればいい。どうにかして接続を確立してしまえば、船は使える」
「レイ」
「喋らないでくれ、アル」
レイは目を逸らす。「お門違いだって解ってても、責めたくなる」
その電子脳を喪失するレイの痛みを、より深く理解してやれたのはイワンだったのかもしれない。彼はあのアシスタントと操縦者の繋がりを、最も長い期間見てきた。
他のアシスタントなら、新品にデータを引き継がせれば話は済む。
だが、子ギツネは無理だ。
「嫌な話だ」
「え?」
「子ギツネが、ささめなんて」
レイが呟いた途端だ。アルに異変が起こった。いきなり背後から殴られたような衝撃が走り、立っていられなくなって床に膝を突く。
「アルっ」
「どうした」
「く…」
体が薄ぼんやりと水色に光っているのを、それが己のことであったために、アルだけが見なかった。
「ささめを‥呼ぶ、な、レイ」
強すぎる。
ささめは『はつみ』への思慕だけでできているような化け物だ。レイの声で呼ばれると、勝手に出てこようとしてしまう。アルの中に押さえられない。
(…出て?)
はっとした。
ならば、チャンスのはずだ。
「戻れ‥戻れ、ささめ。お前のいた場所に帰るんだ。『はつみ』は、お前にそれを望んでいる。出るんだ。子ギツネに帰れ、ささめ!」
さっと、アルの視界が青に染まった。
周囲の人間には、逆に、彼を包んでいた光が消えたのが見えた。
「アル‥アルっ」
土下座のような姿勢から動かなくなったアルの名を、レイが必死に叫ぶ。
「……く」
「なに」
「すげ…効く‥‥」
呟いてずるりとレイの体にもたれかかる。相手は慌てて支えようと腕を回してくれた。
「おい」
「なんつーか、も、陸に上がったクラゲ状態」
立ってらんねえとアルは呻いた。
すさまじい疲労感が体中を包んでいた。重力が大きすぎる。これが正常な人間としての感覚だと解ってはいるが、それにしても体が重い。続いていた浮遊感が全部切られた。
レイの体温がある。
ああ、二人とも生きているんだと思った。
「大丈夫?」
「一応な」苦笑する。「けど、ちょっと休ませてくれ」浮力が足りなすぎる。
「うん。解った」
「――はい?」
一体、どんな勘違いをしてくれたのか。
首を引き寄せられたと思うと、それにつれて空間の出来ていた膝の裏に腕が差し入れられた。「んっ」と、可愛らしい声ひとつで、ぐらりと体が浮き上がって、アルは、レイの肩に担ぎ上げられていた。
「お」
おい、と抗議する暇もなく、つかつかとレイは部屋を突っ切り、「降ろすよ」と言う。世界がまた反転して、気付いたら、ソファに座っていた。
こちらを見る牙が装備の下で呆然としているのが解る。ナターシャは笑っていた。
気配を感じて横を見下ろすと、イワンの頭がそこにあった。
目が合う。
「……どうも」
「おう」
間が悪い。
「どうなったの?」
聞かれて瞬きすると、レイが正面でしゃがんで下からこちらを見上げていた。
「子ギツネに帰れって言ったよね。戻った?」
「さあな」
出て行ったみたいではあるがと続けようとした時、ナターシャが「もしもし」と小さく叫んだ。皆、そちらを見る。
「大丈夫。レニーは無事だよ。あなたのことを心配してる。繰り返します。船長は無事。黒にも伝えてあげて」
レイの顔に光が差した。
子ギツネだ。
「アル、頼む、それ貸して」
口ではそう言っておきながら、レイは了承も待たずに手を伸ばしアルのイヤーカーフを片耳からもぎ取った。アルは笑って逆の耳のものもはずす。
「ひとつじゃ役に立たねえよ。こっちのがマイクだ。子ギツネなら、そこのくぼみを二回押してやれ」
「ありがとう」
いつもと違う操作法に戸惑いながらも、レイは接続を確立して子ギツネを呼ぶ。
応答があったのは、レイの表情を見ていれば判った。
「うん。お前も無事で良かった。起き抜けを悪いが、急いでイワンのカルテを探してくれ。最新のやつだ。ハッキングしてたろう? 俺が壊してしまったんだ。応急処置をしたい。破損部位を伝えるから、お前からターリャに指示を出せ」
アルはふと、イワンを見た。
彼は、静かに微笑んでその視線に応えた。
「じゃあ」
レイが言った。今はガウンを脱ぎ、ズボンとシャツにジャケットを羽織っている。
「ああ」
イワンが頷く。
左手も左足も、元のようになめらかに動いていた。傷には包帯が巻かれている。生体の治療は後回しにしろと、彼自身が望んだのだ。ナターシャのような技師がいなくても済むことだからと。
「イワン」
「何?」
「どうして、俺がサ・カーンに入るのを足止めした?」
問われてイワンは苦笑いをする。
フォックスまで送るための車の中に、ナターシャとアルはすでに乗り込んでいる。牙はドアの近くに立って、こちらを監視していた。
「ライニーの重役に根回しが済んでるって本当なんだろう。そっち系のトラブルは一度もなかった。なんでわざわざ時間稼ぎしたんだ」
「俺としては、もう二日、止めておきたかったんだけどな」
「どういうこと」
「誕生日だろ」
レイの黒い髪をなでて、そっと頬に触れる。彼女はイワンの言葉に驚いて、目を瞠っていた。耳でイヤーカーフが光る。
「そのまま婚姻届出す計画だったんだぜ」
サ・カーンでは、結婚が認められるのは十八からだ。
「プレゼントはさっきフォックスに送っておいた。気に入らなかったら処分すればいい」
「気に入らないなんて」
「おい、殊勝なこと言うなよ。レイらしくない」
「ヴァーニャ」
「愛してる」
はっとレイが目を見開く。
その目を見つめて、同じ言葉を繰り返し、体を引き寄せて唇にキスを落とした。触れるだけで済ますはずがレイがまったく抵抗をしなくて、ほとんど無意識に深いキスになった。
「は」
空気を求めてレイの首が反る。
抱きしめた。
首の近くから、ふわりと女の匂いがした。
「いつでも、帰ってこいよ。二人きりの兄弟なんだ」
「うん…」
涙の滲んだ目を伏せ、レイはぎゅっとイワンの首にすがった。
「ありがとう」
さすがに、帰りの車は針のむしろだった。
牙とアルが冷え切った顔で一言も口を利こうとせず、イワンに襲いかかろうとした牙を止めてくれたナターシャも、そこまでは面倒を見きれないという感じで無視を決め込んでしまった。
自業自得とは解っているのだが、非常に、きつかった。
だから、子ギツネに
『お帰りなさい』
と、いつもの声を出してもらえたことが本当にありがたかった。たとえこの後でどんな話をしなくてはいけないとしても。
「ただいま、リトル」
『お体は大丈夫ですか、レイノルド。よろしければあなたをスキャンしたいのですが』
「いいよ」
薄紫の光が照射されて、その体のデータを取った子ギツネの声が強張った。
『レイノルド』
「なんだ」
『あの建物への攻撃許可をいただけませんか』
「洒落た言い回しをするようになったな。ちょっとターリャのやり方に似てる。彼女から学んだか」
『レイノルド、冗談を申し上げているつもりはありません』
「駄目だ。許可するわけないだろう」
「何の話だ」
とうとう牙が口を挟んだ。抗議に黙りとおすことを諦めたらしい。
「俺が女になってしまったからね。子ギツネが怒ってる」
「おい」
「なんだって」
アルと牙が目の色を変えた。ナターシャは目を瞠っている。レイはきょとんとなって、首をかしげると「見ただろう?」と男二人へ尋ねた。
「俺、男性器のできそこないを持ってたって、皆にも話してなかったっけ。それの切除を受けたんだ。ヴァーニャはいつも、あれを取るように言ってたんだよ」
「男性器切除?」
ナターシャが厳しい顔で問う。
「うん。ずっと便宜性の変更申請に有利だからそうしろって言ってるんだと思ってたんだけど、本気で心配しててくれたらしくて。女性器が生きてるのに入り口が閉じてると色々衛生的に良くないから。これが本当に最後の条件だって言うし、それもそうだなって」
レイの口元に複雑な微笑が浮かぶ。
甘えるなと言われたのだ。
フォックスは最新設備の整った医療施設だし、子ギツネはとびきり有能な医者だ。
レイが本当にライニーを捨てるなら、この先、経済的に余裕があるとは言えなくなる。フォックスのような金のかかる船を維持できるかも確実ではないのだ。だから医療機器がなくても困難が少ないよう、きちんとしておくべきだとイワンは言った。
ライニーを捨てて生きていくつもりなら、この条件は必須だ。その意味が解るだろう。
頭が下がる思いだった。
「だからこれは納得して受けた手術なんだ、子ギツネ。解るな。防止には意味があっても報復は無意味だ。攻撃は認めない。今さらヴァーニャを殺されては困るよ。これだけ苦労して捨てたものが戻ってきてしまう」
人だとするなら、ため息をついたような一拍があった。
『承知しました』
「物わかりが良くて助かるよ」
『確認させていただきたいのですが、イワノフ氏は、本当にあなたからのライニー譲渡を承諾したのですか』
レイがまとった空気の色が変わった。すべての感情を切り落としたように、黒い双眸が冴える。
それから。
ふっと、彼女は笑った。
「ああ」
噛みしめるように呟いた。喉をそっと触れるような仕草をしたのは、果たして、どんな感慨の表れだったのか。
「俺は、自由だ」
ナターシャ、アル、牙。三人はやわらかな眼差しで、レイが気付かないほどさりげなく互いの顔を見て、そして、かすかに頷き合った。
アルが飛び出してレイの肩を抱く。
「レイ」
乾杯しなくてはいけない。約束なのだから。ここへ戻ったらアルのカクテルで祝おうと。
「突っ立ってんなよ。行こうぜ」
「あ‥うん」
レイは一度、奇妙なくらい鈍い反応をした。
「じゃあ、子ギツネ」
『はい』
やっぱり迷ってしまって、言えなかった。「牙に、何か飲み物を作ってくれないか」
『承りました』
四人はバーカウンターのある部屋に入る。
今回だけは、アルも各人の好みに合わせるような真似はしなかった。甘い酒は好まないナターシャにも、最初はレッド・アイから入る自分にも、同じレシピで白雪を用意する。子ギツネが見た目だけはそっくりの得体の知れない飲み物を牙に用意した。
レイがグラスを掲げた。
何か言おうとしたが、言葉が出なくて、ただ「乾杯」と呟くように唇に載せた。
感無量というレイの顔に、三人は――装備を解いた牙も含めて――思わず表情をゆるめ、笑顔で頷いてグラスを合わせる。
飲み干したら、涙が落ちた。
「レーニャ」
隣に立っていたナターシャが肩を抱き寄せてくれた。その暖かい手の優しさに、何かが弾けてしまって、ぼろぼろと涙は尽きるともなく溢れて床に落ちた。
「…っ、‥‥」
「頑張ったね。よく頑張った」
声もなく泣いた。
嗚咽がおさまるまで、長い間、三人は黙ってレイに付き合ってくれた。
「も‥大丈夫」
「座る?」
「そう、だね。みんなも良かったら」
珍しく、牙が座ってアルが立つという形になった。どうしてもカウンターの内側の方に入って立っていないと落ち着かないのだとアルは笑った。普段はスツールを使っていても人数がそろうと自分の位置は中だという気がする。
「ありがとう」
二杯目に出されたダイキリのグラスを両手で包むように触れて、レイは言った。
誰にともなく、「本当に、ありがとう」と。
アルの前にはラスティ・ネイル、ナターシャにはB&B、牙の手元にはチェリーという合法ドラッグの赤い粒が皿に盛られていた。奥歯で潰して酩酊を味わう。
「なあ、気になってたんだけど」
レイが黙っているので、話題を探してアルが言った。
「うん?」
「子ギツネにささめが入ってたって話したら、お前、嫌な話だって言っただろ。あれってどういう意味」
レイは苦いものを舐めたような顔をして、目を逸らす。
「別に、ちょっと情けなかっただけだよ」
「あ?」
「俺のまわりには、はづみを好きだった人しかいない」
本人が意図したよりも、ずっと固い声になったせいだろう。三人は胸を突かれたように動きを凍らせてレイを見た。
酔いがまわってきているのだろうか。
頬杖を突き、ぼんやりした目で、レイはカウンターの奥を眺めている。
「べつに、構わないけど」
少しもそうは思っていない声にアルが笑った。「はづみに妬くなよ、お前は」
「だって」
「…ごめんな」
「え?」
聞き返したレイは、アルの目を見ると虚を突かれたように黙ってしまった。どんな顔をしていたのか自分では判らないが、きっとずいぶん情けない顔だったのだろう。
(ごめんな‥‥)
一度ささめを取り戻した今はよく解る。
なぜ、同じ過去を持つ人間ばかりがフォックスに会してしまっているのか。
ささめのせいだ。
今回、ささめは『埜流』を見失った。だから必死で探したらしい。同じ時代に転生している命をたぐりよせた。埜流とささめをつなぐものは、はづみへの思慕以外には何もない。それで、『はづみ』と同じ時間を過ごして、ことさら彼に入れ込んだ二人――ファルクと未九――が網にかかった。
「子ギツネは、お前に惚れてたから、ささめを喰ったんだよ。ささめの方から目をつけて取り込んだんじゃないんだ。順番が逆」
「そう、なの?」
「冗談きついよな。まったく、とんでもない機械だぜ。メモリ増設するみたいな気構えで思念体を喰らいやがった。妖かしは部品じゃねーっての」
「ふうん‥」
幼少の牙にアプローチをかけていた頃、ささめは子ギツネに出会い、喰われてしまった。体を手に入れたささめは存在が安定してしまい、記憶の掘り起こしだけして、牙のことは放置してしまった。ナターシャの方は年齢が足りずにその段階まで至らなかっただけだ。彼女が牙と繋がっていたのも、牙の誘拐にアルがターゲットに選ばれたのも、おそらく、互いの中のささめが呼び合ったことが影響している。
そして、それ以外の人間は、子ギツネが排除してしまった。
レイは知らないし、気付かないだろう。
子ギツネがどれだけ巧妙にレイを『守って』いたか。あの電子脳は、守るという言葉を免罪符に、小さな子供を他者から遠ざけ続けてきた。あの船だけが安心できる場所なのだと幼いレイに思いこませた。あんな病的な独占欲にさらされて、これだけ健やかに素直な性格に育ったのは僥倖である。もちろん多少の人間不信は残ったが。
独占欲は、そもそも埜流が持っていたものだ。
恐ろしいことに、その部分が、子ギツネと最も強く共鳴してしまった。
怖い機械だ。
人間でなかったことをありがたいと感じるぐらい、レイに執着し、その身を自らの力で守ることにすべてを捧げている。それとも、機械だからこそひとつの目的にすべてを投げ出すのだろうか。だとすれば彼らは、人よりも気持ちが純粋で、欲望に忠実だ。
「じゃあ、子ギツネは、基本的に、普通のアシスタントなんだな」
「…お前さ、あれを普通って言うか?」
「アル。きちんと答えてほしんだ。子ギツネは、ささめっていう何かが中にいるとしても普通の機械であることは変わらないんだよね」
だから、何をもって『普通』と言うのか。
アルが返事をためらっている間に、レイは大きくひとつ息を吐き出す。
「誰か時間わかる?」
「午前四時、二十五分」答えたのは牙だ。
「ありがとう」
ほとんど独り言のように呟いて、「やっぱり、はっきりさせておかないと」と続ける。
三人が眉をひそめる前で、レイは背筋を伸ばして凛と前を向いた。無意識らしい仕草で片手を持ち上げる。
「子ギツネ、おいで」
『はい』
狐のホログラムの姿で、ひょいと子ギツネはテーブルに上がった。
美しい金色の毛並みに濡れたようなつぶらな黒い瞳、ぴんぴんと跳ねたヒゲ。サイズがやけに小さくてグレープフルーツぐらいになっているのは、机の上のスペースに遠慮したものらしい。いきなりテーブルの上に投射すればいいものを誰にも見えない位置から飛び上がる動作を入れるあたり、芸が細かい。大きさ以外はいつもとまったく変わらない姿にレイが微笑んだ。
「私は、ライニーの筆頭株主じゃなくなった」
『おめでとうございます』
「お前がお前である理由を聞こう。お前が私を第一に考えていたのは、何のためだ?」
『レイノルド? それはすでにご存知かと思いますが』
「確認したい。なんという、どういうプログラムのためなのか」
愛らしい狐のホログラムはちょいと小首をかしげるような仕草をした。だが大人しく、持ち主の望む返答をする。
『初期型レクサーンスのアシスタントに必ず搭載されていた、基本原則のプログラムで、名称はシークレット。あなたを、何よりも優先することを規定するプログラムです』
「私を?」
『正確には、ライネイの人間を、でしたが』
「そうだな。私はこれから、二度とライネイ姓を名乗らない。ヴァーニャの所で、名前も一緒に捨ててきた。役所が開いて書類が受理されたら、私はレイノルド・S・アバルキンになる。Sはつまり、セルゴヴィチだ」
狐は行儀良く前足を揃え、賢そうな瞳をじっとレイに向けている。
「お前に聞きたい。これからお前はどうしたい? 私は、今日の九時から、ライネイじゃなくなる。お前の存在意義ではなくなるんだ」
『レイノルド。私の「気持ち」を尊重してくださるのなら、どうぞ、どう「したい」かとお尋ねになるのはやめてください。私は、したい・したくないという意志を特定しそれを明示することに非常な抵抗を感じます。快不快の感情を表すようになるだけでも、私には大変なエネルギー消費とプログラム補正が必要でした』
「じゃあ、聞き直そう」
人間に向き合う時のように真摯に、レイは狐の立体画像を見つめた。
「ライネイでない私は、お前の、何だ?」
『レイノルド』
人間だったら、微笑を浮かべていたのかもしれない。
狐はゆらゆらと尾を揺らしていた。
『あなたはお気付きでなかったのかも知れませんが、その演算と問題処理は、もう何年も前に済ませてあります』
テーブルのぎりぎり端まで歩いて、レイに近付く。
『私は、シークレットが本来的に持つ不確定要素を排除するため、定義付けの書き換えを行いました』
「何?」
『もっと早くに聞いてくだされば良かったのです。私がその決断を下したのは、あなたの信頼を揺るぎないものとする必要があると判断したからなのですから』
「子ギツネ。結論を出し惜しみするな。書き換えというのは…なんだ?」
『ライネイ家の人員を第一とする、という定義を、あなたという個体に入れ替えました。名前や法律上でその位置づけがどう変化したとしても、あなただけが、フォックスと私の最重要人物です』
テーブルの上に置かれていた、黒い手袋を穿いたレイの手にそっと狐は体をすり寄せるような動作をした。ちょうど猫が気まぐれに人間に甘える時の仕草だ。レイの方は呆然とそれを見下ろしている。
「待て……、お前、自分の原則を、書き換えたのか」
『ジェシカ様から絶縁状が届いただけで私が敵になるのではと警戒することは、あなたの精神衛生上良くないと判断しました。あなたからの叱責をおそれて、書き換えをお知らせしそびれたのは私の落ち度です。現在まで、あなたの不安を払拭するという当初の目的を達成しませんでした』
「そんな、むちゃくちゃな…」
レイは呻いた。
アルから視線を送られて、ナターシャもいやにぎこちなく首を横に振る。信じられないことだった。原則であるレイの保護のために、原則そのものを変更する。それでは原則の意義が堂々巡りに陥ってしまい、消失してしまう。
原則とは、変更不可能だから原則なのだ。
『私は、欠陥品です』
「子ギツネ」
『あなたはそれでも良いと言いました。完全なものはないと。私自身はその誤差の範囲は広すぎると思いましたが、私には、あなたが絶対です。ですから私も、私自身の欠陥面を許容することにしています』
機械が。
自己欺瞞を行い、それを持ち主に責任転嫁している。この人工知能は無自覚にさえ嘘をつけるのだ。
「リトル、自分の言ってることが解ってるのか? それならお前は、私以外の人間でも、自由に最優先の人員に据えることができるということだろう。本末転倒だ。そっちの方が私を不安にする」
『いいえ。できません』
「できません?」
『あなた以外を最優先にすることはできません。私が私にそれを禁じているのです』
悲鳴を上げたいとナターシャは思った。
なんというか、そう。
常識を返せ。
叫べない代わりに、度数のきついカクテル――せいぜいエスプレッソ一杯程度の分量が、その強さを視覚的に表している――を、思い切りよく一口であおった。こんな船に乗っている自分が、つくづく命知らずだと思う。
「子ギツネ……」
『はい、ナターシャ』
「あなたは、自分のアイデンティティの矛盾にフリーズしてしまいそうになることは?」
『それを実行すると、実害を被るのはレイノルドです』
だからやらない。
平然と電子脳は答えた。
ナターシャがちらりと視線を動かせば、牙とレイは、よく似た姿勢で片手をテーブルに突き、自分の眉間を押さえていた。そうして苦悩の表情を浮かべて並んでいると、まるで兄弟のようだと場違いなことを思う。思考が現実逃避したがっていた。
「お前さ」
『はい、アル』
「ささめとか、絶対、いらないだろ。もう一度、返してもらったっていいんだぜ」
映像の狐の首をちょっと傾けさせるだけで、子ギツネは、それには返事をしなかった。彼女にとって『ささめ』は、まだ処理しきれない話題であるらしい。
「とにかく」
レイはそれ以外の一切の情報を切り捨てて、結論だけを受け取った。
「それじゃあ、お前やフォックスは、これからも、私だけのものなんだな?」
『はい、レイノルド』
答えた狐は、自発的に言葉を継いだ。『あなたに今そう断言できることを、私は、大変幸福だと感じています』
深く息を吐いて、レイはダイキリの杯を空けた。アルはそのグラスを下げる。
今日は全員ペースが速い。
「私も、たぶん、嬉しいんじゃないかと思うよ、リトル」
『そうですか』
「かなりの確率で、この先お前は使えないだろうと踏んでたんだ。他のレクサーンスなら所有者であるということで充分だろうが、お前はシークレットだけで存在しているようなアシスタントだからな。私がライニーじゃなくなったら、クラッシュを起こすんじゃないかと思ってた」
『あなたは私にいつも「信用してるよ」とおっしゃるのに、実際は違いますね』
「怒るな。言う時には本当に信用してる」
『それではそろそろ、黒との接続を切っていただけませんか』
「…気付いてたのか」
肩をすくめて、レイは握っていた片方のイヤーカーフを口に近づけ「おやすみ、黒」とささやいた。アルの持ち物なのに、レイは我が物顔でその道具を使っている。
「どういうこと?」
「何かあったら、シェイドの砲台で入り口を開けようと思って」
自分たちの乗っているフォックスが言うことを聞かなくなったら、格納庫の中から別の船で攻撃を仕掛けようと考えていたわけである。なんとも無鉄砲な操縦者だ。
今回、やけに奥まで乗り込むのにぐずぐずしていた理由を知って牙は眉をしかめた。
「子ギツネが使えないなら、黒も同じだろう」
「黒は最初っから、『俺の』アシスタントなんだ。後から作ったから、ライニーとかじゃなくて、最優先を俺だけに…って、そうか。やけに頑固にあのプランを推したのは、そういうことだったのか。リトル、お前、黒で試したな?」
『はい。私のコピーにそれが許容できるかを実験しました』
「シェイドに載せるまで、何十台試作機を壊したと思ってる? あれだけ屍累々で、よく自分に試す気になったな」
『五十一台です。あれらの失敗の中から、シークレットをどう調整すれば、特定の一人を最重要命令者に設定し直せるのかが明らかになりました』
どうも、すべてがレイの財力に端を発しているようだった。
子ギツネという突然変異が自分の望むままに進化できたのは、それを許すだけの財布があったからだ。ただし、こんな異常な人工知能が一代で進化を成し遂げたのを幸とするか不幸とするかは個人の判断である。
「解った。参ったよ。お前の勝ちだ、子ギツネ。しばらく警戒遊泳」
『了解しました。警戒態勢での遊泳は既に実施しております。あなたに新しいバイザーと通信機をお持ちしてもよろしいですか』
正面に立つアルには、レイの顔が引きつるのがよく見えた。
子ギツネとの情報の共有には絶対に必要となるその二つの道具を、用意するかと今まで問わなかったというのは、つまり、子ギツネが、レイの危惧を正確に把握していたということに他ならない。普段のレイなら船に乗った途端に持ってこいと言うはずのものだ。
「ほんとに、いい性格に育ったな」
レイが呻く。手のひらの上で遊ばれているような気分がしたのだろう。
「いいよ。持ってこい。お前はもう消えろ」
『失礼いたします』
出てきた時と同じように、全員から死角になる場所へ小さな狐は飛び込んで消える。
レイはぐったりと、カウンターテーブルの上に突っ伏した。
「……疲れた」
実感のこもった一言に、周囲の面々が吹き出す。
「レ‥」
『レイノルド』
「うわっ!?」
誰かが呼ぼうとした声に重なって、再び子ギツネの声が響いた。レイが飛び起きる。
「どうした、子ギツネ」
『驚かせて申し訳ありません。通信機ですが、耳の穴は、もう一度開けますか?』
「え? ああ、ふさがってしまったのか。うん、開けてくれ」
『それから、先ほどお伝えしそびれたのですが、イワノフ氏から贈り物が届いています。こちらはどうしますか』
「贈り物」
ぱちっと瞬きをして、そういえばそんなことを言っていたなとレイは呟いた。
見る間にアルと牙が不機嫌な顔になる。
「そうだな、置いておいてくれ」
『と、おっしゃいますと?』
聞き返されてレイはにっこりと笑った。ようやく屈託の消えた、晴れた笑顔だ。
「せっかくだから、誕生日に開けるよ」




