Chap.22 あのこがほしい
なあ――レイ。
俺、今回、ささめがいないだろう?
ひょっとしたら。
はつみに『埜流』がくっつくの、俺で、最後かも知れない。
そう。
そうって、お前。
アルは俺と一緒にいるんだろう? 死ぬまで一緒に、生きてくれるんだろう? なら、いいよ。
埜流やアルには悪いけど、俺。
はづみなんていう人は―――大っ嫌いなんだ。
* * *
背徳、というのはたぶん、道徳があって生まれるのではない。
もっと本能的で、根元的な、グロテスクなものへの恐怖と嫌悪とフェティシズム。先に背徳というものがあって、それを抑えるものとして道徳や規範が生まれてくる。
だから、それが背徳的であるということは、あまりにも明白だった。
「なん…だよ」
かすれた声が口からこぼれた。
震えていた。
彼も、後ろの牙も。
「なんなんだよ、これ!?」
怒号が迸る。
透明な液体で満たされた筒状の医療機器。伏せられた睫、ごくかすかに揺らめく漆黒の髪。上下の唇の色がいつもよりさめて見えるのは溶液がうっすらと黄みを帯びているせいだろうか。
少年の人形から頭部をパキリと折って、少女の首を差し換えた。
これは、そういう背徳。
裸身のレイ。
磔刑のごとくまざまざと見せつけられる現実。くびれた腰に、平らな胸。奇跡のように完璧な美貌と、奇跡のように美しい四肢。パーツのそれぞれが完全だからこそ、絶望的に醜悪だった。
(俺は、奇形児なんだ)
あの時に、見ておくべきだったのかもしれない。ここで、こんな風に、本人の意志とは関係なく直面させられてしまうのだったら。
いや。
本当は、絶対に、服を脱がせてはいけなかった。
「邪魔をするなッ!」
ほとんど反射で両腕を広げ、背中にポッドを庇って立ちふさがったアルに、牙が吠えた。左手から白い刃が伸びている。彼の腕ならこの筒を破ることができるかもしれないが。
「…よせ」
アルは首を振った。
「こんなものに‥こんなものに入れたままにしておけと言うのか!」
見ていられない、という。
そういうものが現実にこうして存在している。
レイの体は明らかに異常だった。度が過ぎるほど美しく、禍々しい。女性的な男とか、男のような女とか、そういうレベルではない。自然でないのだ。命の形がねじ曲げられてしまっている。女で、男で、女。
細い首に喉仏はない。
腕と肩は、華奢ではあるものの、おそらく男性の骨格に近い。なのに腰は綺麗にくびれ女性的な張った感じの腰を強調する。尻は小さくて、足は男女のどちらとも言いがたい。
少年愛の向きのある彫刻家に、その欲望のすべてを吐き出させたら、こんなものが出来上がるかもしれない。
毒々しく、崇高な、レイの裸身。
倒錯的という言葉そのままの異常な美。目を覆いたくなるような、グロテスクで卑猥な姿だった。
「安全に…出してやろうぜ」
アルの視線を追って牙は自分たちの来た方向を振り向いた。
少し高くなった場所にあるのは、操作台。
以前、アルはナターシャから医療装置の基本的な使い方を教えられていた。何かの時に扱えるように知っておくべきだと。レイの体は日常的に医療の助けを必要とする。どんなシーンに直面するか判らない。そう言われた。
(浮力調整を戻さずに溶液を抜くだけで、脳に障害が残りかねないからね。医療器具は、一番簡単に人を殺す道具でもあるって理解しておいて)
アルを押しとどめているのは、ナターシャのその言葉だけだ。
台に上ってコントロールパネルに触れたアルは、自分の手が激しく震えているのを見ることになって唇を噛んだ。必死で心を落ち着かせて、ひとつひとつ、手順を確認しながら設定を解除していく。
「レイノルド」
はっとしたように呟いた牙の声に、顔を上げた。
黒い目が、むしろ、きょとんとして二人の姿をとらえている。唇がかすかに動き、手を持ち上げようとしたところで、レイは状況に気付いた。牙が横を向いたのとほぼ同時に、見る間にその表情が変わった。
勢いよく目を逸らし。
自分の体を腕で隠すように抱きしめて、両膝を引き上げ、縮こまる。
まるで胎児のようなその姿勢をレイに許すぐらいのスペースが、そのポッドにはあったのだ。
「遅くなって、ごめんな。今開けるから、もうちょい‥我慢な?」
話しかける声が勝手に上擦る。
ごめんな、と、何度もアルは謝った。謝ってはいけないと解っているのに、どうしても口からは謝罪が出た。
遅くなって。
もっと早く来てやれなくて。守ってやれなくて。
…俺たちが、来ちまって。
その姿を見て。
こんな顔をしたところを見せてしまって。
「まだだ、牙」
足を踏み出そうとした牙を、アルは止める。二メートルほど離れた場所のポッドでは、中の溶液が抜けてレイが両膝を突いていた。
咳をしているような振動が見え、口から透明な液体を吐瀉する。自然と四つ這いになる。
痛々しい。
じりじりするぐらい、ポッドの開閉作業は進まない。
早く、駆け寄ってやりたいのに。
「開きませんよ」
それはまさに『突然』。
牙さえ、目の前のレイに気を取られていて、気付かなかった。その男が立っていたのは、レイを挟んでちょうど対角線上。距離は相手の方がずっとポッドに近い。
「そっちの操作卓では、出入り口の開閉はできない」
赤い肌の男だ。
撮影に挑むファッションモデルのような、上から下まで隙のない色男。身にまとうものすべてが計算されている観がある。左肩から腕までを完全に露出してしまっているのに、さほど砕けた印象がないのは、肌の色味が暗いのと、臙脂色の手袋をはめているからだ。そんな位置で輪っかが止まるかと笑いたくなるような位置――二の腕――に数本の銀環が収まっており、手首から肘近くへのスペースにはぐるぐると蛇が巻き付いたような螺旋でやはり似た色合いの金属がからみついている。
そして、最も目を引くのは。
(……三日月)
こめかみから顎まで顔の片側を縁取る、銀色の物。こういうアクセサリーをなんと言うかアルは知らない。だが、前髪の一部が細い三つ編みで垂れ下がっているのは、確実に、その月の美しさを強調するためだ。メタリックな銀と赤い肌に、黒髪で入れた差し色が、嫌味なぐらい見事なコントラストになる。
「イワノフだ。命令者を認証」
『認証。声紋照合の結果、あなたを、イワン・イワノヴィッチ・イワノフ氏と認めます。ご命令を』
「開けてくれ」
『了解。鍵を開けます』
ポッドに歩み寄りながらの会話。アルの手元で、操作パネルが電源を断たれて消えた。男は手動で扉を開け、側にあった医療用のガウンをひっつかんで中に入る。
「あ‥‥」
彼女は、呆然と。
「レイ」
いたわりと、愛おしさと、切ない怒りを込めて、その女性を彼は見つめる。隠しきれるものでもないのに、必死で小さくなって体を覆おうとした姿勢が、まだそのままだった。
「馬鹿が」
その一言で、悲しみが決壊した。
どっと涙をあふれさせるレイを素早くガウンでくるみ、強く掻き抱く。
「離せ‥っ、はなせぇッ」
「レイ」
「さわるな」
喉を焼き、口を裂いて叫びが迸る。
「ヴァーニャだって一緒だ! 俺のこと、本当は、気味が悪いくせに」
はっと。
アルと牙が、凍った。
「レイ」
赤い肌の男は、ただ名前をささやき続ける。レイが暴れるから、腹は蹴られ、顔面にもひっかき傷ができた。あまりに首を振るので頭を鷲づかみにして自分の肩へ伏せさせる。レイが叫びながらでたらめな動きをするから、首近くが歯で傷付いていた。逆に、レイも男の身につけた金具で頬が切れた様子だった。
痛みに覚醒したのか、一瞬、抵抗がやむ。
「レイ」
「う」
「好きだよ」
「あ、ああっ‥‥ああぁぁぁぁっ…!」
レイは泣きじゃくった。いつもの気丈な姿が嘘のように、イワンの胸にすがりついて、喉を破かんばかりに叫ぶ。
やがて、疲れ果てたように嗚咽が小さくなったのを見計らい、男は静かに立ち上がる。
腕にレイを抱いて。
「行こう。服を着ないと風邪を引く」
「ヴァーニャ‥」
「見ただろう。彼らは、レイにふさわしくない」
何かを叫びかけたのは誰だったか。
牙は咄嗟に武器を取り、アルは身を乗り出した。レイは一気に正気を取り戻した顔で、昂然と目を上げる。
「それに、解ってるんだろう。何より、レイ、君が彼らにふさわしくない」
アルも牙も、非常に目が良かったから。
彼女の顔を見てしまった。
「‥‥‥」
レイがうつむく。そっと男が抱きしめる。
「俺に、レイが気色悪いはずないだろう。俺たちは同じなんだ」
ポッドから出て二歩踏み出せば、壁にはエレベーターの扉が隠れていた。乗り込んで、ドアが閉まる一瞬、レイの腕が男の首にぎゅっと抱きつくのが、アルたちにも見えた。
* * *
ねえ、アル、いい加減にしてくれないか? はづみの話はそろそろやめてくれ。
俺は他の俺なんか知らない。
他のアルなんか、俺はいらない。
俺はレイノルドで、あんたはエリエゼルだ。俺は自分で手一杯だよ。どうして次や前の俺にまで気兼ねしなくちゃならない? 他の俺のことなんか、知ったことじゃない。
俺は、俺にアルがいればいい。
あんたはまだ俺を解ろうとしない。俺は、青目のレッド・アイ、あんたがいないと駄目なんだよ。何回言ったら話が通じるんだ。
アルがいないと、俺は、息ができないんだよ。
* * *
「銃は?」
本当に長い沈黙の後で、はじめてレイが口にしたのがその言葉だった。
「ないと落ち着かない?」
問い返すイワンにレイは答えない。イワンは苦笑し、緑茶を淹れなおす。
最初に一口、飲むか飲まないかという程度に含んだ後は、レイは一切、椀に手を触れていなかった。せっかくの茶菓子も手つかずだ。
「今は駄目だ」
新しい一杯を無理やり握らせて言う。「自分を撃ちかねない」
ゆらりとレイはイワンを見た。
「今、そういう顔をしているんだよ。判らないか」
レイは答えない。
幽鬼のように、ただぼんやりと立ち尽くしている。イワンが座らせると抵抗なく椅子へかけるが、しばらくすると勝手に立つのだ。今は好きにさせている。
「通信機」
「同じ理由で却下だ」
それ以前に、彼女の耳は穴がふさがってしまっている。治療液は細かい設定を怠ると、こういう風にいらぬおせっかいをしてしまう。子ギツネは基本的に、ピアスをさせたままレイを再生装置に放り込んでいた。
「子ギツネと、話したい」
「レイはあのアシスタントを信用しすぎだ」
昔は何度も繰り返した議論で、いつでもレイは食いついてきたが、今は乗ってこない。黙って聞き流している。
俺たちは不良品だね、ヴァーニャ。
あのアシスタントも一緒なんだ。嫌わないであげてよ。
幼いレイはそんな風に言っていた。自分の実の兄を殺した機械のことを。子ギツネは、元々、彼女の異父兄弟にあたるリチャードの宇宙船に搭載されていたアシスタントだった。それが宇宙遊泳中に、操縦者を殺して港に戻ってきた。ブリッジに一酸化炭素を入れて、窒息させたのだ。これ以上ないほどの、能動的殺人である。
なぜ殺したか?
問われてアシスタントは答えた。彼は弟のレイノルドを殺そうとしていたからだと。
レイは自分に許された権力をフルに活用して――母親はレイを溺愛していた――、研究機関から『彼女』を強奪し、同型の船をその肉体として用意した。初期型レクサーンス。フォックスだ。
レイ、あの電子脳はお前を殺せるんだぜ。頼むから、あれだけはよせ。
わかんないの、ヴァーニャ?
小さな頃からレイは、子供らしさのない冷たい顔ができる子供だった。いきがっている風ではないのに、やたら小利口な物言いをした。
あの子が俺を殺すのは、ジェシカが俺を捨てる時だ。それなら俺はいいんだよ。
他に、味方なんかいないもの。
それが変わってきたのは、アシスタントに子ギツネと名前を付けた頃からだ。捨て鉢で資金ばかり潤沢で、人を人とも思っていなかった生意気な子供が、希望にきらきらと輝く目をするようになり、生きたいとはっきり言うようになった。
あのね。
美しい顔を喜びに染めて、そっと内緒話をしてくれた日をイワンは覚えている。
探したい人がいるんだ。
ひょっとしたら‥もしかしたら、俺、一人じゃないのかも知れない。
「今、何時?」
物思いにふけっていたイワンは、それがレイの声だと気付いて慌てて時計を起動させる。球形の時刻盤が彼の目の前に投影された。
「サ・カーン標準時刻で、午前一時二十一分」
答えて振り向くが、レイの視線は虚空を見つめている。
レイは会話をしない。
質問を出して、答が得られると黙ってしまう。
「お茶、飲まないか」
冷めるぞと声をかけるが反応はない。イワンは再び近寄ってレイの手からさっきの椀を取り、机に置き、小さな体を抱き寄せる。ずっと突っ立って動かなかったせいだろうが、少し体温が落ちていた。
「レイ」
トルソーを抱いているようだった。
力を込めない間は木のように立ち尽くしていて、引き寄せるとぐらりと傾いで呆気なくイワンの手に落ちる。
「シェイドに戻る」
やがてレイが言った。聞き違えた気がして、えっと問い返す。
「帰る。明日の朝、記者会見、見るよ。俺を自由にしてくれて‥ありがとう」
「おい」
ふらりと腕から出ようとした体を、肩を掴んで揺すった。
「一人で、どうする気だ」
レイは会話をしない。
「聞けよ」
「書類には全部サインしてくれたよね」
するっとレイの手がイワンの頬をなでる。正確には、頬に沿って取り付けられた銀色の三日月を。
イワンは半身不随だ。
つむじから足のつま先まで、イワンの左半身には機械が取り付けられている。見た目には洗練されたアクセサリーのようで、もちろん実際に専門のデザイナーに意匠を依頼してあるのだが、それでもその実態は補助具だ。足がなければ義肢を使うように、脳の欠損も一定の度合いまでなら機械で補うことができる。
イワンに知能障害はない。
この数々の器具は、脳波を直接筋肉へ伝達している。生き残った、本来ならば左半身を担当しないはずの部位で動かそうと『考え』、それを器具の力で実際の運動に反映させるのだ。
「俺の手術も終わった。もう、用は済んだ」
「なんだよ、その言い方?」
「これが最後の条件だったはずだ。俺は自由だ。そうだな、イワン」
お前に私をここに留め置く権利はない。
そう聞こえた。
「好きなんだよ!」
苛立ちがカッと胸を焼き、怒鳴り声になった。
「なんで認めないんだよ。俺はお前が好きなんだ。レイの支えになりたいし離したくない。こんな不安定な状態ならなおさらだ。帰るってどこにだ? お前はここで生まれて、ここで育った。サ・カーンがお前の故郷じゃないのか。行くなよ。どこにも行くな」
不随障害のリハビリは、苛酷を極める。
金があるなら、不随箇所をごっそりと機械の体に入れ替えてしまった方がよほど早い。それをしなかったのはレイと出会ってしまったからだ。
本当の手なの?
と、動かない左手をおそるおそる触れて、レイは尋ねたから。
レイの体はすべて有機的な生体だったが、生まれた時に持っていた部品はほんの一部に過ぎなかった。
骨と皮ばかりの醜い左半身を、素直にその子供は褒めた。すごいねと。
「俺を、見ろよ、レイ。側にいてくれ‥」
「はなせ」
「レイ」
「俺は、帰る」
「あいつらはレイの姿を受け止めることもできなかったんだぞ!?」
カチッ。
と、首の左側で妙な音がした。
何が起こったのかイワンには理解できなかった。レイは静かに自分の肩から男の両手を取り、左手をつかんで握手するような仕草で手首を上にさせる。手袋を抜き取って落とし、隠れていたバングルを出す。手の中に持っていた細身の洒落たフォークをくるりと指先で持ち替え、銀色の金属と肌の間に差し込んだ。
やめろと言おうとした。
変な発音になった。
首の器具は、すべての情報をいったん中継する。舌と唇と、顎と喉。発声するだけでも無数の筋肉が必要だ。舌がもつれて上手にしゃべれなかった。生まれてから二十年近くは右半身だけでなんとかやりくりしていたはずだったのに。
右手を出そうとするが、間に合わない。
接続部の金具が、皮膚を裂いて外へ突き出る。血が滴った。重要度の高い器具は、直接肉に食い込むようになっている。
「不思議だね、ヴァーニャ」
浮いた部品を指で掘り起こして、力を込める。
「いつからなんだろう。ぜんぜん気が付かなかった。どうしてかな」
「レ…ッ」
痛みはない。既に接続は断たれてしまっている。左半身は感覚を持っていない。だが、脂汗が出て体中が寒い。
茶色い肌から露出する、肉の赤、血の赤、脂肪の白、骨の白。
「ねぇ、あの二人をどうしたの?」
「‥れ‥い」
「なんで俺は、こんなに平気なんだろう」
あらためてフォークの柄を差し入れて十字の蛇口のような感じで上から握り直し、軽くひねると、パキン、と、あまりに簡単に銀の腕輪が砕ける。レイは物体に対してどう力を加えればいいかを知り尽くしていた。
右足を払ってイワンを床に倒し、見下ろす。右側に転がって受け身を取ろうとしたが、無駄だった。
「いないんだ」
足で蹴られて表向きにされる。
動けない。
左半身のコントロールを奪われたからではなく、恐怖で体が動かない。本能が『これは絶対に逆らってはいけないものだ』と告げている。
「アルがいない」
屈んだレイは呟いて、足の金具に取りかかる。フォークの先で服を破く音がする。
彼女のガウンはまだらに血染めだ。
「どこにも」
レイの目には何もない。
ただ、闇。
「なのに、なんで、こんなに、平気なんだろう?」
バキッとまた何かが折れる音がした。
「あの‥野郎ッ!」
アルが吠えた。
「牙、こいつをぶっ壊せ」
叩いたのは透明な壁。ポッドの手前、部屋をまっぷたつにする形で、見えない壁があるのだ。二人がエレベーターに消えた時に駆け寄ろうとしたアルは、手加減なくこの壁へと衝突してしたたかに体を打ち付けた。倒れて数分、気絶していたほどだ。
仕掛けは、彼らが来る前。
もとよりレイのもとへは行き着けないようになっていたと理解したアルの怒りは凄まじかった。
「はめやがって…!」
この部屋に入った途端、フォックスのナターシャとの通信が切れたことに何かを感じるべきだったのだ。レイの姿に意識を取られて気が回らなくなっていた。
「何やってんだ、牙っ」
対して、牙は静かだった。
操作台の上から一歩も動かず、アルが気を失っていた間にも姿勢ひとつ変えなかった。
「牙!」
「どうして」
「ああっ?」
「どうしたら、あいつの前に出られる?」
なんだってとアルが聞き返した。
「私は」
拳の形に握った手袋が、小刻みに震えている。
「レイノルドから、目を逸らした」
あの顔。
愕然と二人を見て、体を隠そうと身を縮めた瞬間の、あの絶望に彩られた顔。そして、最後の一瞬、イワンに抱きついた瞬間の顔。
レイは脱ぐかと尋ねた。
本当に気安く、彼らにならば己の裸を見られても構わないのだと。それなのに。
「それを読んでて、あいつは俺らをここに入れたんだ」
「そうだ」
牙は認める。
「奴は、私たちを試した」
問うた。
お前は彼女にふさわしいのかと、一番、直接的な方法で審査した。
「それをなぜ」
試験に落ちておいて。
「今さら」
のこのこと。
「ふざけんじゃねえ」
アルから返ってきたのは怒号だった。
ようやくそこで顔を上げると、ぎらぎらと燃える瞳と出会う。煮え立つような怒りが、その若い男を包んでいた。
「どうも頭あったかくなってるらしいな。三ヶ月もレイと話さなかったせいか。それとも正気で言ってんのか。俺はお前もそこそこレイに惚れてんだと思ってたぜ、イェウダー。あいつを傷付けるものは許さない。そう誓ってなかったか、あんたは」
エメックの月にかけて。
「あの男は、俺らがショック受けるのをレイに見せつけたんだ。あいつが一番傷付くことだって、判っててやりやがった」
最後のだめ押しに、『君が彼らにふさわしくない』と言った。告げられたレイの表情を思い出してアルは歯噛みをする。
レイが最も弱い場所だ。
こと、アルに関しては病気だ。ダーツの矢一本であの始末なのだから、銃を習いたいとでも言えば寝込んでしまうだろう。
(俺は‥アルが羨ましい)
一度銃を持ったら引き返せないんだ。自分を守る銃声が敵を呼び寄せる。人を傷付けずに逃げられるアルが羨ましい。
「あいつは、はめたんだ」
レイは血塗られた自身を忌み嫌っている。
心の底に、巻き込んでしまったことへの罪悪感がある。アルだけにではない。牙にも、ナターシャにも。三人ともに対してだ。
そこへ『ふさわしくない』と断言されてレイが抗えるわけがない。
「俺たちをじゃない。レイをだ」
ダン、と、アルが壁を叩いた音がひときわ大きく響いた。
牙が立ちすくむ。
策略にかけられたのは―――傷付けられ、陥れられ、誘導されたのは。
「なんで腹が立たないんだよ?」
アルが叫んでいる。
「ふさわしいとか、ふさわしくないとか、そんなの知るかよ。判ってるとしたらひとつだ。俺たちはレイじゃなきゃ駄目なんだ。レイが俺を諦めても俺はレイを諦めない。あいつは絶対譲らない。許さない。許せるかよ。惚れた女、裸に剥かれてさらし者にされて!」
閃光がひらめいた。
三メートル近くの高さから一息に跳躍して床に降り立ち、一部がはじかれたレーザーの余波からアルを庇う。さすがに、簡単に破砕できる材質ではないようだ。ゴーグルで割り出しをかけてレーザーの緩衝装置を探し出して破壊すると、あらためて壁へとレーザーを照射した。
いくらか溶けて薄くなった場所を狙って、立て続けにニードルを放つ。この物理攻撃はてきめんに効いた。ひびが入る。
「お前の言うとおりだ、エリエゼル」
小さなカプセルを取り出して、アルの手に押し込む。自分の前歯でもひとつをくわえ、フードを引き出した。亀裂を睨む牙のゴーグルの内側には、通常の空気と組成の違う気体に対する警告が表示されていた。
「壁の向こうは有毒ガスだ。口と鼻をふさいでおけ」
「了解」
「行くぞ!」
牙の仕込み刃が、壁の亀裂に突き立てられた。
ゆらり、と。
レイが振り向いた。
腰で紐を使って留めるだけの簡単なガウンを着て、肩から腰のあたりまでをべったりと血に濡らしている。いつもあれだけきっちりと服を着込んでいるのに、着付けも適当なら足下は柔らかなスリッパだ。
こちらを見て、彼女は、ふわりと笑う。
「アル」
絶句した。
よりによってレイの微笑みを前に、恐怖で足が後ろへ下がりかけた。
「‥‥レイ」
「銃がないんだ」
だらりと降ろした手の中には、血のこびりついたフォーク。
「見つからないんだ。すごく大切なものなのに」
「あれなら‥船に、ある」
「本当?」
「牙が、他のものと一緒に、フォックスに持って帰った」
「ああ」
花のように笑顔が咲きこぼれる。「よかった」
「あれだけは心配だったんだ。他のものじゃ、代わりにならないから。二人が持っていてくれたんだね」
「レイ…お前」
「俺ね、前に子ギツネと約束したことがあるんだ。アルはきっと怒ると思うけど、仕方がなかったんだよ。リトルは普通のアシスタントじゃないからさ。ああでも言わないとアルがどんな目に遭うか判らなかった」
肩をすくめる。
「俺が船で暮らしてるって言ったら、当たり前みたいに『じゃあ荷造りだな』って言ってくれたよね。俺がお店に行った途端に仕事やめちゃって。ごめんね。そんな風に考えちゃ駄目だと思うのに、俺、嬉しかった。当然って顔で一緒に来てくれたのが、本当に、どうしても、嬉しかった」
「おい」
「なのに、ごめんね。―――守れなくて」
「何言って」
「あなたのせいだよ、牙」
レイが笑う。
顔が、目が、体の姿勢が、牙の方を向く。
「俺はあなたが大嫌いだ」
牙の『方』。
「あなたは俺より背が高い。力が強くて、そんな服を着てるくせに、時々、俺より速い。格闘じゃ敵わないし、動体視力も上だ。腹が立つ。真面目で、優しくて、すごく馬鹿で、強くて。困るよ。俺の邪魔をされると」
牙そのものをレイの目は見ない。牙の手前、あるいはもっと奥を見ている。
狂人には、
別の世界が見えている。
「あなたのことを考えている暇なんかないんだ。俺はアルを守らなきゃいけないんだから。人のこと無視して、怒らせて、挙げ句、愛してる? 勝手に俺の心を占領しないでくれ。おかげでヘマをした。人生最大の」
笑顔が、異常だ。
「こんな簡単な文句も言えなかったね。あなたと、もっと話がしたかった。好きだって、ちゃんと言っておけば良かった。こんな、二人とも失う前に」
「レイノルド」
「ごめんなさい。巻き込んでおいて、殺した。ごめん、二人とも」
「おい、レイ!」
「愛してる」
「この馬鹿、目ぇ覚ませッ!」
牙のニードルが、レイが己のこめかみに突き立てようとしていたフォークを撃ち抜き、アルが床を蹴って駆け出した。
「何考えてるよ、お前!?」
「……アル?」
「他に誰がいるんだ。ほら、こっちは。誰だ」
「きば」
「何考えて‥何考えてんだよ? 解んねえよ。全然わかんねぇよ、お前!」
背後のソファに押し倒すようにして、アルはレイを掻き抱いてぼろぼろと涙をこぼしていた。激しいふるえが伝わってレイまで揺れている。
牙はひとつ息を吐いて、歩き出した。
「ほんもの?」
「しまいには、殴るぞ、ボケ!」
牙がのぞき込むと、レイはぼうっと気が抜けたような顔をしていた。右の手袋を取る。
「レイノルド」
「なんで、生きてるの? アルも‥牙も?」
「私はお前を守ると誓った。死んでいては自殺を止められん」
「だって、いないのに」
頬を包み込むように素手で触れると、首を振ろうとしたような仕草が伝わってきた。
「あなたは、アルといて、アルは」
「馬鹿な真似を」
「アルが‥どこにも‥‥いつだって‥いつも、ずっと、宇宙のどこにいたって、俺には、判ったのに、アルが」
そこまで喋ったところで、あまりにきつく抱かれてレイは呻いた。
「違ぇよ。お前、それは違う」
アルが叫ぶ。
何が起こっていたかをようやく理解した。
あと少し遅くなっていたらと思うと、体中の血が凍るような寒気が襲ってくる。けれど同時に愛おしさが濁流のように押し寄せてそれさえも飲み込んでいく。
「逆にしただけなんだ。お前の居場所が判らなかっただろ。だから俺がお前を捜すことにしたんだ。今は俺がお前が生きてることを感じてる。俺がその能力取っちまったんだよ。だからお前は俺がどこにいるか判らなくなった。それだけだ。俺は死んでない。俺も牙も生きてる。解るな」
「死んで、ないの?」
「誰が‥お前残して死ねるか」
アルが死ねば自分も死ぬと言ったレイ。子ギツネとの約束。
「頼むぜ」
声が震える。
「お前と俺とで、ロミオとジュリエットは笑えねぇ」
「…うん」
頬に牙の手を感じながら、レイは目を伏せ呟いた。「俺、ロミオって柄じゃないよね」
変な意地を張った風でもなくストレートにロミオの役を取ったレイに、アルの頬が引きつり、牙が低く笑う。腕を引いて手袋を穿きなおした。
「ジュリエットが不細工すぎる」
「あんたはどうしてそう、いらないところで口が回るかな」
「話は後だ。退け、エリエゼル」
レイが瞠目して顔を上げる。アルは舌打ちをしたが、名残惜しげに額へ軽くキスすると、体を引いた。入れ替わりに牙が屈んでレイを抱き上げる。
「牙、俺、自分で歩け‥‥ていうか、今、アルのこと」
「船でナターシャが待っている」
穏やかに牙は言った。頭部は防具に包まれていたが、声で表情は解っただろう。こんな声を牙が出す時の表情は、いつも決まって、アルさえ黙るぐらいの優しい笑顔。
それに、今回は。
「牙」
「船に残らせるのに苦労した。帰ったらお前がなだめろ」
レイの手が伸びて、金具を四つはずし、口元の布をずらして、面頬を取る。
すこしの、時。
「この装備って、泣くのには向かないね」
「ああ」
私もはじめて知ったと牙は答えた。
レイは左手で涙を拭う。最初は利き手である右を上げようとしたが、血みどろだということに気付いて、慌てて逆の手に変えていた。
「ターリャは船なんだね」
「そうだ」
「じゃあ、早く戻らない、と‥」
突然、すうっと波が引くようにレイの顔色が変わった。
「レイノルド?」
「ヴァーニャ…っ」
牙の腕の中、もがくように首を大きくめぐらせ、必死でその姿を探す。そして彼が倒れているのを見つけると、文字通り顔面蒼白になった。
「心配ない。出血は止まっている」
「おれ‥俺、彼が二人を殺すよう指示したんだと思って、勘違いだったのに。どうしよう。手首を傷付けてるんだ。降ろしてくれ、牙。ヴァーニャ!」
正直なところ、牙とアルは面白くない。
少しの間、反応せずに牙は黙っていたのだが、あまりレイがヴァーニャと繰り返すので、折れて床に降ろしてやった。弓弦を放たれたかのように飛び出して、レイは、気を失ったイワンの傍らにかがみ込む。
脈を取り、口元に手をかざして呼吸を確認し、牙の言うとおり血は止まっていることを知ってほっと息を吐く。
「ヴァーニャ。ヴァーニャ、起きろ」
「寝かしとけよ、レイ」
「馬鹿言うな」
どうしても不機嫌になって、ぞんざいに言ったアルをレイは一蹴する。
「彼が寝てたら、俺はいつまで経ってもライニーのままなんだぞ。ヴァーニャには明日、役所が開き次第書類を全部提出してもらわないと困る。受理されたら嫌でもプレス発表とライニーの重役会議だ。それまでには、はずしちゃった機器をつけとかないと駄目だろ。就任の日に包帯なんかしてたら、何言われるか解ったもんじゃない。ああ、二人が無事だって解ってたら、絶対あんな馬鹿しなかったのに。起きろってば、ヴァンカ。起きないと神経繋ぐぞ。手は末端神経集まってて痛いんだ。いいのか? 本気で繋いじゃうぞ。もう、さっさと起きてくれ」
血だまりで失神している男を揺さぶるレイの言い草に、アルと牙は顔を見合わせ、それから思わず笑い出す。
長い夜がようやく明ける。
そんな、気がした。




