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Game Continued -ゲームの続き-  作者: 茶川左子(旧:シリカゲル)
第五章「遊びをせんとや生れけむ」
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Chap.18 性別

『はつみさま!』

 りぃん!と、鈴のような音が頭に直接響き、ひとつの意識が、そのまま胸に流れ込んできた。

 荒々しいのではない。悲しみに打ちのめされたような、静かで激しい感情だ。

 身を切るように焦がれている。

 もはや身も世もなく、激しくはつみを求めるもの。

『私に語りかける、あなたは誰だ?』

『ささめにございます。わたくしでございます』

 すすり泣くような歓喜の感情が伝わってくる。自分がこれほど求められていることに、はづみは少したじろいだ。

『あなたは…水か?』

『はい。ささめにございます』

 意識は繰り返した。はらはらと涙をこぼす様子が見えるような、感極まった様子だった。懐かしい、懐かしい。やっと会えた、あなたがここにいる。

 隠すところなく打ち寄せる、感情の波。

『ささめ、あなたは私を知っているようだ』

『遠い昔より存じております』



「ふぅん‥お前、はづみが好きなんだな」

 埜流は薄く笑った。

「でも、解る。知ってるぜ。はづみはお前のことなんかなんとも思ってないんだろう?」

『……!』

 ささめの感情が、鞭をくれられたように激しくあえいだ。


-----------------------------


 やわらかいストレッチ素材のパンツに、薄いブラウス。中のタンクトップの黒が透けて見えている。足は薄手の室内履きだ。

 今まで見たこともないような軽装のレイに、ナターシャとアルは唖然とした。

 レイは決まり悪げに、ナターシャの顔を見る。

「ばれちゃって」

「牙に?」

 レイが頷く後ろには、牙が立っている。

 席に着こうとしたところへ手を出して椅子を引き、レイにひどく困惑した顔をさせた。嫌味なのか親切なのか、はかりかねているのだろうと推察したナターシャは、牙の紺碧の瞳が自分に向けられていることに気付いた。

「いつから知っていた」

「この船に残ることになった日に」

 その返答で、牙の両眼は剣呑に光った。時に解っていても呑まれそうになる恐ろしい青。危険なムードに気付いたレイが慌てて口を挟む。

「俺が脅したんだ。秘密を渡して、裏切りは許さないって」

「おい、ちょっと待てよ。何の話だ」

 三人だけで話が進められていて、壁にもたれていたアルが声を上げる。粥を炊いているところを呼ばれて、作業を中断させられた彼はやや不機嫌だったし、何よりレイが最初に彼と目があった途端に困ったように視線で逃げたのも、その気分に拍車をかけていた。

「‥アル」

「なんだよ、雨降り坊主(レイニー・ベイビー)

 自分にばかり少し言いにくそうにしている様子が気に食わない。

「あのさ」

「あ?」

「俺、女なんだ」

 いきなりの直球に思わずナターシャが笑った。

「女」

「男ってよりはたぶん女、ってぐらいなんだけど。もう隠しておくわけにもいかないし、一度、きちんと話しておこうと思って。良かったら、座ってくれないか」

 アルは下唇を親指の腹で触れてしばらく黙っていた。レイ以外の二人の顔を見た後で、レイの正面の椅子に座った。促された牙がこちらに来て、隣に座る。ナターシャは当然のような顔をしてレイの隣に座っていた。

「どこから、話そう」

 レイが呟いた。

「サ・カーンは保守的な土地で、男女差別っていうか、そういうのが、法律にも、ある。同性婚姻は成立しないし、居住者票には『性別』の欄がある」

 公的な文書に性別を書き込む地域は、全宇宙でも意外と限られている。書類上の区別が差別に繋がるとの考え方から、その必要性が低いとみなされた文書では排除される傾向があるからだ。

「いわゆる両性や無性は認められているけど、同時に男女のどちらに準じるものなのかを申告する義務があって、その申告の性で、公的待遇が決まることになる。俺の公式の性別は、両性の、準男性」

「どっちかっていったら男、ってことか」

「法律ではね」

 レイが肩をすくめる。「俺の場合、体は逆なんだ」

「逆」

「今日、俺、月経で」

 アルがむせた。

 牙の顔がわずかだが赤くなっている。

「月って言うには一年に二回あるかないかだから、もうしばらくないと思う。心配かけてごめん。で、つまり、俺のこのへんには」

 レイは自分の下腹を押さえる。

「女性生殖器が入ってて、最近は結構まともに動いてるらしい」

「あの、レイ‥それ、そこまで具体的に話す必要あんの?」

「必要があるかは解らないけど、俺はなるべく詳しく話しておきたいと考えてる。疑問が残ると後でそっちからは聞きにくいと思うし、なんか、ちゃんと知って欲しいから。でも、アルが嫌なら」

「や、その。嫌、ってんじゃないんだけど」

 しばらく唸っていた後、首を振り、続けてくれとアルは言った。

「ありがとう」

 レイは少し微笑んだ。「気持ち悪くなったら言って」という台詞に正直、逃げ出したいような気分がした。

「アルって、女の人の膣とか、見たことある?」

「レイ!」

 悲鳴になった。

「…ない?」

 きょとんとした顔で聞き返すから、殴ってやろうかと思った。

「男の人がどうなってるかは、解るよな」と呟くのを耳に、アルは冷たい水を子ギツネに頼んだ。やたらと顔が火照っている気がして喉が渇いた。

「露骨な言い方をするけど、俺は、棒があって玉がない」

 ダン!と、受け取ったばかりのコップを、アルはテーブルに叩きつけるように置く。

 欲しがったのが馬鹿だった。飲めない。とても水など飲めない。

「レーニャ…」

 さすがに哀れをもよおして、ナターシャが横から、レイの手首を握った。ちらりと目をやれば正面の若い二人は完膚無きまでに打ちのめされている。

「解ってもらうには、一番いい表現じゃないかと思ったんだけど。通じるっていうか」

 それはそうかも知れないが。

「じゃあ、なんて言おう。膣の開口部が閉じていて、長い尿道がついている。これでいいかな。精巣がないから男としての役割は果たさない。男性器と女性器のうち、生殖機能が残ってるのが女性器の方だから、体は女寄りだって判断できる。だけど胸は真っ平らで、不完全でも、つくものはついてるから外見上は男に近い」

 もはや、どういう表現を選ぶという問題ではなかった。

 撃沈されて言葉もない二人を本当に困った様子で見比べて、その()()()()()()美しい顔を傾けて、レイは「やっぱり脱がないと駄目かな」と、のたまった。

「脱ぐな!」

 アルと牙の怒号が響く。

 どうしていつもと違う格好をしているのかに気付いて、二人とも青ざめていた。

「そうだよな。確かに、見て気持ちのいいものじゃないし」

 レイは一人で納得している。

「俺は奇形児なんだ」

 すんなりと伸びた手足に、絶世と呼んでも足りない美貌の、神の愛を一身に受けたような美しい子供は言った。

「ジェシカ‥母は、俺を身ごもった自覚もなかった時期から、毒を盛られたっていうか、ホルモン剤の投与を受けた。その五年前に離婚してた母の夫は医者で、まあ、磁気画像で胎児に異常が見つかるまで気付かなかった母が抜けてたんだけど」

「お袋さんの、ダンナ、って」

「堕胎させる気はなかったって本人は言ってた。彼には母との間に息子がいて、だから、新しく子供が生まれるなら男にしたかったと」

「……は?」

「サ・カーンの法律が男女の別にこだわるのは話しただろ。父親の財産は息子に、母親の財産は娘に、優先的に相続されるんだ」

 何それ、とアルは呆気にとられた。

 複雑な苦笑でレイは応える。彼にとっては最初に触れた常識だから、さほどの違和感は感じていなかったが、同時にそれが世界では多数派でないことも知っていた。

「一度は、ホルモンだけじゃなくて劇薬も使ったらしい。どの投与でかは判らないけど、それにしても派手に効いた。俺は最初、女になるはずの胎児だったのに、状態のひどさに摘出された時には、未熟児っていうよりも、一キロ弱の異様な肉の塊になってたらしい。脊髄と鼓膜、眼球に、脳。人の手ではつくれない部品が、よくこれだけ無事だったと思う。なんとか人の形にまとめることができた。ただ生殖器だけは、取り除くには完成度が高くて、精神面でもデリケートな問題だった。それでそのままにされて、俺は両性になった。

 申請の段階で男の方が選ばれたのは、その方が安全だろうという判断だ。ミュラー管が生き残ったのは確認されてたし、肉体が女に近いことは、母も医者団も知ってたと思う。でも、外見は男だし。準男性ですぐに受理されたって聞いてる」

 そこまで話して、しばらく『他に言うことはあったかな』という顔をしていたが、思い当たらなかったらしく、レイは視線をアルに向けた。

「隠してて、ごめんなさい」

 アルから返事はない。

 向かい合ったまま無言になり、テーブルの上に肘を突いた手で、自分の前髪を押さえている。

「あの、アル」

 長い沈黙に耐えきれなくなって、レイが言う。

 目は合わせなかった。

「タッシュは、それ知ってたと」

「ええ」

「ターリャは、本当は自分で気付いたんだ。見破ったって言うのかな。最初に、俺の顔を見ただけで女の子だと思ったんだろう?」

 隣から見つめられて、ナターシャは頷いた。

 だから、セルゴヴィチだと言われてぎょっとしたのだ。女ならばセルゴヴナかセルゲーエヴィナになる名前だったから。

「牙は?」

 頬杖を突く。「さっき、知られた」とレイ。

 どうやってと聞こうとしたアルより先に、牙が口を開いて尋ねた。

「あの男は?」

 レイはアルを気にするように視線をさまよわせた後で、牙の顔を見つめて答えた。

「イワン・イワノヴィッチ・イワノフ」

「冗談みたいな名前」

「聞いたことがある」

 同時に呟いたのはアルとナターシャだ。まずレイはナターシャに頷く。

「たぶんその人だ」

「誰?」

「俺の持ち株を管理している人。名前は本当に冗談だよ。ジェシカが面白がってつけた。彼の名前がイワンだったから」

 暫時目を伏せて考えていたナターシャが、レイを見るように首を引き、目をアルと牙の方へ向けた。

「中央でも指折りの財界人。十年ぐらい前いきなり現れて、経済界のトップに食い込んだ若い男性。確かあだ名は」

 言いさして、彼女はその口をつぐんだ。

 レイが笑って後を引き継ぐ。

「JFR、最後の愛人」

 ジェシカ・フェオ・ライネイの頭文字を取った呼び方だ。

「事実だよ。独身同士なんだから、恋人って書けばいいのに、って思ってた。二人はとても仲が良かった。母は、家と教育と教養と、名前と、会社をふたつ彼にあげた。恋人って以上に息子だったんだ。イワンを育てるのがジェシカの趣味で、俺やリチャード…死んだ兄よりもずっと息子らしい息子だった。ライニーの子だったっていうのかな。もう少しで本当の息子になるところだったんだけど、その前にジェシカが死んでしまって」

 ライニーはレイの手に渡された。

「なぜ、お前が女だとあの男は強調した?」

 牙が言う。

 口を開きかけたレイが、ためらってその唇へ自分の拳をあてた。逡巡が底抜けに黒い双眸を揺らしている。

「お前たちは何を交渉していた。お前は奴に何を望んでいた」

「最初に話したとおりだ。株券を受け取らせたかった」

「あちらはそれを拒んでいる?」

「基本的な合意はできてる。ただ、手続きはサ・カーンでするようにと」

「なぜだ」

 レイは現地まで出向かなくとも書類作成は可能だと主張していた。船の中で話が済むのならば、わざわざこんなところまで旅をしなくても良かった。

 再び答えなくなったレイに、牙は問いかけを重ねる。

「奴は、何をお前に承諾させたがっていた?」

 押し黙ったレイの顔が、アルの心にも引っかかりを生じた。

「レイ?」

「なんていうか」

 祈るように指を組み合わせて、レイはやがて、重い口を開いた。

「求婚、されてるんだ」



 サ・カーンは、一般に思われているほど大きな銀河系ではない。宇宙一というその繁栄が、実際の広さ以上にその地域を大きく見せているのだろう。

 しかしそれにしても。

 田舎じゃないんだからと誰もが思った。

「…まずった」

 レイは頭を押さえていた。

 先ほどまでスクリーンに映っていた画像は、彼の希望によりすべて切られている。

「正々堂々、本名で銀河入りしたのが失敗だったな」

『どうしますか、レイノルド』

「マスコミ対策に適当に文書を流してくれ。市民への丁重な感謝と、殊勝なメッセージ、それから断固たる取材拒否だ。サ・カーン連合市市長は今もサリー・アブドラだな?」

『はい。去年再選されましたので、任期はあと二年です』

「それじゃあ、プライベートメッセージだ」

『どうぞ』

「サリー、レイノルドだ。私は今、解ってもらえると思うが、大変困惑している。三年ぶりに故郷に帰ってきて『おかえりなさい』という横断幕がかかっているのは、とても心の温まる景色だ。しかもそれが人工衛星八十四台を使った長大なネオンサインで、高性能の望遠鏡なら何万光年か先からでも読み取れるようなものであれば、なおさらだ。

 私を歓迎してくれる市民の皆様のお気持ちには、胸が熱くなる。だが、私は、なるべく静かに中央に入りたいと思っていた。今回の帰郷は今は亡き母の墓参りをするためのものであって、長期滞在も予定していない。プレスに対応している暇もなければ、スピーチをしてまわる余裕もない。

 私とあなたの仲だ、ひとつ忠告をさせてくれ。このやり方は賢くない。他の住民が、自分も墓参りの時これをやられたらと考えたらどうなる? サ・カーンの高額納税者が競って余所の地へ逃げ出すぞ。今、私は本籍地の移転を真剣に考えている。心苦しいが、その時にはライニー本部もこの思い出深いサ・カーンから撤退することになるかもしれない。

 サリー、聡明なあなたが、この馬鹿騒ぎを一刻も早く収めてくれるものと信じている。‥レイノルド・R・アバルキン。電子署名。チェック」

『署名中。チェックは二箇所です』

 子ギツネが適当でないと判断した二カ所を再読させて、訂正し、レイはそのメッセージを送信した。

「もう一通だ。送信先はイワン・イワノヴィッチ・イワノフ」

『はい』

 一度目を伏せ、レイは息を吸った。

「この代償は高くつくよ、ヴァニューシカ。署名なし、チェックなし。送信」

『送信しました』

 深いため息。

 セントラルまでは、通常ならば、あと一週間の道のりである。



「求婚、て、お前に?」

 アルが尋ねた。

「うん」

「いくつだよ、相手」

「今、二十九だったかな。まだ若い」

「お前、実質十五だろ?」

「待って。それより、レーニャは法律上男性なんでしょう。サ・カーンで、同性婚はできないはず」

「準女性への修正申告はできる。結婚のために亜種性…両性や無性の人間が、便宜性をひっくり返すのはそこまで珍しいことじゃないんだ。俺がやったら叩かれるとは思うけど、手続きには問題がないはずだ。さっき話したとおり生物学的に女に近いってことの証明は楽だし。特に」

 何かを言いかけた様子があったが、レイは口をつぐんで首を振り、代わりに繰り返した。

「法律で問題はない」

「叩かれるって?」

「目的がはっきりしすぎてる。ヴァーニャのライニー乗っ取りが」

 社会の風当たりは強いことだろう。

「ああ…、そっか。結婚て、そういうこと」

「他にどういうことがあるんだ? 結婚で課税は一切ないし、自動的に共有財産の扱いをできるようになる。これ以上ロスの少ない方法は、確かに、ない」

「プロポーズ、受ける気はねえの?」

 同時に、強烈に複雑な沈黙が場を支配した。気安く尋ねたアルは、全員に見つめられて瞬きをする。

「だって、速攻離婚しちまえば」

「駄目なんだ」

 アルの言わんとするところを理解して、レイがほっとしたように笑った。

「結婚した後に入った資産は離婚後に任意の割合で分配できるけど、婚前の財産は、一度無条件で元の持ち主に帰属してしまう。つまり、別れたら元のもくあみ。俺のものだった株は、俺の手に戻ってくる」

 この理由で、ジェシカの前夫は、離婚の際に慰謝料以上のものを手に入れられなかった。息子の相続権が大きな意味を持ったゆえんである。

「転がせればいいんだけど、ものがライニー株だから、一度売ったら回収できるか微妙で踏み切りにくい。重役たちが嗅ぎつけて間に入られたら結構もっていかれそうだ。それに売って買い戻すんじゃ資産は目減りする。やりたがる結婚相手は少ないと思うよ。

 結婚でライニーを手に入れたら、彼は俺と別れられない。理屈で考えて、彼にとって一番いいのは、結婚後に俺が死んだケースだ。最小限の損失でライニーが丸ごと手に入る。この状況で、アルなら嫁いでいける?」

 アルは「なるほど」と、苦笑いして肩をすくめた。

 無償で財産をくれてやろうというのに、命まで持っていかれるのでは割に合わない。

「俺が欲しいのは、自由と安全だ。具体的に言えばライニーの筆頭株主って立場から逃げたい。イワンのやり方じゃ『私』が『私たち』になるだけだ。荷物半分持ってもらえても、根本的な解決にはならない」

「自由と、安全」

 そこまでの沈黙があまりにも長かった。

 だから慣れている彼らでさえ、瞬間、その声が牙のものだと理解できなかったのだ。身じろぎも視線の動きもなく、長く闇そのもののように唯そこにあった牙に、一拍してレイが目を向けた。

「なら、なぜ、奴にこだわる」

「奴?」

「お前の命を狙う相手に、片っ端から株をばらまいて無一文になれば、お前の望むものは手に入るはずだ。なぜ奴にすべての株を渡すことに固執する」

「正論だ」

 レイがかすかに笑った。

 テーブルの上でちょっと手を組み、考える時間を置いて、話し出す。

「たぶん‥なんだかんだ言っても、俺もライニーってことなんだと思う。祖父と母の作り上げた財閥を、俺の代で潰したくない。俺が株を小分けにして売りに出せば、何万という系列会社がばらばらに独立できる。ライニーは小さくなって、消えるかもしれない。その方がいいんじゃないかって頭では思うよ。今ライニーは大きすぎる。だけど、やっぱり壊したくない。壊れていくのを見たくない。

 イワンは、もう一代ライニーを延命させる力量のある人だと思う。彼が今の地位を得ているのは、母とのゲームに勝ったからだ。ジェシカは元手だけ与えて、『私のところまでのし上がってこい』って言ったんだよ。最終的に七パーセントぐらい、ライニーはイワンに持っていかれた。企業買収が巧くて、ジェシカも舌を巻いていたよ」

 その時の様子を思い浮かべているのが解る。

 レイは、本当に楽しそうに目を細めて唇をほころばせていた。

「イワンはたぶん、今まで一度も俺の命を狙ったことがないんだ。というか、俺がいなくなって得をする立場になったことがない。今も俺が死んだら彼は損しかしない。ライニー株の譲渡が止まって、俺が委託していた分にも手が出せなくなる。きっと、生かしたいと思っているはずだ。誰かに渡すものなら、俺を殺そうとしてきた奴らより、彼がいい」

 生まれるよりも前から。

 常に何か、命の危険にさらされてきたレイ。

「俺はイワンが嫌いじゃない。結婚の話でこじれてしまったけど、昔は仲も良かったんだ。もう少しで俺の兄になるはずだった人だ。できるなら、彼にライニーを任せたい。俺の、個人的な感情だ」

 わがままかな、と、微苦笑。

 しばらくの沈黙の後、やがて、無言で牙が椅子を立った。レイが怪訝な顔をする。

「牙?」

 呼ばれ、目だけで牙はレイを見下ろした。

「聞くべきことは聞いた。まだ、何か話があるのか」

「あ‥、いや」

 レイが戸惑っていた。

 いつも無表情ではあっても、牙は無感動ではない。よく笑ったし、怒った。それが今はただひんやりと、冷たい霞に包まれたように遠い。感情が見えなかった。

 牙が立ち去って、彼の体積以上の空間がぽっかりと空いたような感覚があった。

 レイとナターシャがそちらに気を取られている間に、アルが立ち上がる。

「アル」

 はっと気付いたレイが慌てて声をかけた。

 アルは、目を合わせなかった。



 サ・カーン主要三惑星を、『中央』という。

 夢のように美しい、人工の惑星群だ。緑に溢れ、太陽と、それぞれに月を持ち、大気と海がある。人の生まれた星、母なる星に限りなく近い環境条件が整えられているのだ。

 広い平地。

 ステーションも何もない場所の上空で、レイは船を停止させた。

「ここは?」

 尋ねたのは、実際の空中アイドリングの作業を請け負ったナターシャだ。

「まだ俺の土地だ。北に五十キロ行ったところからイワンの地所で、一件、別荘がある。そこに来るように言われてるんだ」

「…レイ?」

 全身スーツのカフスを留め、バイザーを取り出すレイにアルが眉をひそめた。

 明らかにシェイドに乗る時の出で立ちなのだ。

「ターリャ。子ギツネが地下ガレージの場所を知っている。そこで待ってて」

「一人で行く気?」

「うん。最後まで迷ったけど、フォックスは離れていてもらった方が、やっぱり安全だと思う。何かあったら連絡して」

 音もなく牙が立つ。

 レイが気付いてそちらに首を振った。

「牙は船でいてくれ」

 その言葉に、相手は目をすがめてレイを眺める。それ以上の説得を待たずにゴーグルを取った彼に、レイが一歩近寄った。

「牙には二人を頼みたいんだ」

「私は、船の中では役に立たん」

「停泊中の船なら乗っていないのと同じだ」

「お前を守る契約だ」

「俺たちをだ」

「私を遠ざけるな」

「そんなんじゃない!」

 叫んでから、はっと口を押さえる。

 視線をさまよわせて、考えるように時間を置いて、それからまた牙を見上げた。

「フォックスを質に取られたら、俺にはどうしようもない。正念場なんだ。後顧の憂いなく交渉に臨みたい。ターリャと牙が一緒なら、怖いものなしだろう」

 ややぎこちなさが残るものの、にっこりと。

 レイの微笑みは卑怯なまでに優しく、いつも強引に会話の主導権を奪った。やがて牙が屈して、顔を背ける。

「じゃあ‥よろしく」

 安堵で肩から力を抜き、レイはバイザーをかけた。

 目が隠され、電気を消したような静かな不安がふっとアルの胸を包んだ。

「レイ」

 意味もなく呼ぶ。相手がこちらを見た。

「帰ってきたら、俺は自由だ。アルのカクテルでお祝いしてよ」

「俺の? レッド・アイか」

 聞き返したら、バイザーより少し下、形の良い唇がふわりとほころんだ。

「あれ、苦いからな。白雪の方がいい」

「お子様向けに弱くしてな」

「うるさいよ」

 笑う。

「じゃあ」

「ああ」

 黒い手袋を穿いた手を振り、ナターシャの声に送られてレイの後ろ姿が消える。数分後、格納庫のカタパルトがシェイドを放ったと子ギツネが告げた。

 ガン! と牙が壁を叩いた。

「くそ…」

 その後、誰も口を開かなかった。


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