Chap.17 イワンのばか
不思議そうに、レイはナターシャの顔を眺めた。
「ターリャ」
「入ってもいい?」
奇妙といえば奇妙な発言だった。すでにナターシャはレイの部屋に入っている。レイは新しい服をきちんと着て、シャワー室の内側から扉を開けたところだった。
「船は?」
問われて、額の銀環を触れる。両手首にも同じ材質のバングルがあった。脳波を電脳に伝えるはたらきの操縦用装置である。普段はナターシャもレイも、画像表示が可能なバイザー型のものを使っているが、子ギツネに希望して目を隠さないものを頼んだのだ。
「横になって」
「別に、俺」
言いかけたがナターシャの視線に負けて、レイは苦笑し、ベッドに座る。体の脇に軽く手をついたら、そのままずるずると布団の上に伏せってしまった。表面は平素でも、相当辛いのだろう。
「靴を」
「いいんだ。靴も新しいのに変えたから」
室内履きというような、大人しい靴ではない。足首をしっかりと包む堅い素材に、鋲が打たれているのはデザインのためというより強度を上げるためだろう。見るからに丈夫な様子のブーツである。「脱ぐと、落ち着かなくて寝られない」と言われて、ナターシャの瞳はかげった。
「少し…寝ていい?」
ナターシャは頷いた。
黒い手のひらで、そっと額を触れる。
手と大して変わらない温度で、子ギツネが言っていたような熱は感じられなかった。アルが牙にだっこまでして気付かなかったのかと言っていたが、ナターシャはキスまでしても気が付かなかった。
「二人が、心配してるよ」
「子ギツネの奴」
喋ったなとレイは唇をとがらせた。
ナターシャはその首近くまで布団を打ち掛け、肩口を手のひらで優しく打ってやる。
「あなたがしたくないことは、できないんでしょう?」
「甘えたい気持ちがあるのも本当だけど、甘える自分が嫌なのも本当なんだ。子ギツネは俺を甘やかす方に動くから、自己嫌悪になる。もうすぐサ・カーンに入るっていうのに、操縦席を離れるなんて、それだけでも充分へこんでるんだ。皆にまで余計な心配」
「レーニャ」
少し厳しい声を出した。叩かれた亀のようにレイは首を縮める。
「普通の体じゃないからって言うつもりはないけど、あなたはもう少し、自愛しなさい」
「病気とは、違うんだけどな‥」
レイが眠そうな目を細めて嬉しそうにしていた。
怯えた小さな子供が、叱られてほっとした時のような表情だった。
ナターシャは脳裏に子ギツネの対応を思い出す。確かにレイが体調を崩した割には異常事態という様子ではなかった。
「よくあるの?」
「五ヶ月ぶり、ぐらい」
言われてナターシャは目を瞠った。五ヶ月前ならすでに乗船している。三人そろって、綺麗に騙されていたらしい。あの時には戦闘なんかなかったからとレイは笑った。今回は動いたから少し無理が出たと。
「ターリャ」
呼ばれて、彼女は耳をレイの口に近づけた。
ささやかれた言葉に唖然とする。「それって」と言うと、レイはくすくす笑った。
「普通の体だよ。だから困るんだ。あの部屋に、該当するファイルもある。気になるなら見てくれてもいいよ。抜いてしまえば、半日も寝てれば平気になるんだ」
だからそんなに心配そうな顔をしないで。
言いながら、まぶたは半分落ちかかっていた。それでも話をしたいのか、口はまだ動く。体調が悪くて心細いのか、この日のレイは嫌に饒舌だった。
「今回、降りたかったんだ。あのお酒、少し、もらったら良かったかな。効きそうだよね。よく寝られそう。アル‥喜んでたよね‥‥間に合って、よかった…」
そんな風にしばらく返事を求めない様子でつらつらと喋っていたが、やがて言葉がなくなり、ふと気付くと、レイの両眼はぴったりと閉ざされていた。
静かにナターシャは立ち上がる。
二重の扉をくぐって、あまりに予想通りの光景にため息が出た。
「行って」
ごく簡単に彼女は命じた。
「ナタリー」
「あなたたちがそんなじゃ、レーニャが眠れないでしょう」
「レイノルドは」
「心配ありません」
これでは説明に足りないと理解していたが、それ以上を言う気もなかった。子ギツネと同じ意見だ。彼らに納得をしてもらう必要はない。
「二人はレーニャが出てくるまで待機。この区域には立ち入り禁止。解ってると思うけど子ギツネは私の味方」
横暴、と二人の顔が言う。
その軽口を普段ならすぐにでも口にしそうな性格のアルが、何も言わないのは、おそらく本当にそう考えているからだ。どちらの方が子供だろうと考えたナターシャの目の前で、その口を開いたのは牙だ。
「なぜ、お前だけが」
笑っては失礼というものだろう。
「理由は聞きましたが…言わない方がいいかと」
「どういう意味よ?」
アルの茶色い目に――最近は日替わりで目の色を変えている――視線を合わせ、複雑な微笑で答える。
「二人は、男だから嫌、だそうで」
絶句があった。
あけすけな男女差別。もっと論理的な理由ならば理屈で食いつくこともできるが、ここまで感情的にきっぱり拒絶されてはとりつく島もない。
「あの、くそガキ!」
アルがわめいている。
「牙」
「なんだ」
「昼食を抜いているはずだから、ちゃんと食べて欲しいと」
虚を突かれて牙の表情が止まる。
「推測ですけど」と、少し時間を置いてナターシャは言った。「自分が弱っているところを見られたくないみたいです」
その言葉に顔を上げたアルへ目を向ける。
「あれ、間に合って良かったって」
「え?」
「大切に呑んであげて。誕生日プレゼントのつもりらしいから」
アルの誕生日は二日後。
飴と鞭のつもりはないが、妥協させるには、与えることもしなくてはならない。彼らに甘い飴となることを重々承知で、後に取っておいた話題をひとつずつ。眠る前に色々話してくれたから、余計な嘘をつかずに済み、気が楽だ。
「じゃあ」
と、強制退去を笑顔で勧告する。
不気味なくらい素直に二人が立ち去ろうとした時、ふと思い出して、牙に声をかけた。
「解ってないかも知れないと思うので言っておきますが、牙は二、三日、船内では気配を殺さないでください。レーニャが無駄に緊張します」
牙の表情が止まった。
アルもちょっと驚いたように足を止めた。
何ヶ月一緒にいるのだとナターシャはあきれて嘆息をした。この二人は面白いもので、牙の方は自分が現れると必ず振り向くレイに距離感を感じてアルに嫉妬し、アルはアルで、自分が現れても視線ひとつ動かさないものが牙が部屋にいると必ずレイが目で追うことを不服としていた。
くつろがせたければこちらが普通にすれば良く、気を引きたいなら足音を殺してみれば良いだけなのだが。
「それじゃ、また後で」
改めて手を振って、ナターシャは扉を閉ざした。
戦闘をした後のならいで、牙は装備品をはずすと、傷や不具合がないか細かくチェックしていった。
最近は敵との遭遇が頻繁になってきているとはいえ、現在、船にはその装備のすべてを手がけた技師が同乗している。手入れは行き届いていて、どれだけ丹念に部品をばらしたところで、大した時間はつぶせなかった。
自分のゴーグルを二度ほど眺めなおした後、牙は立ち上がり、船倉部の訓練室に降りていった。
「あいつ、飯は食えねえの?」
『胃腸に問題はありませんが、吐き気があるようです。朝食は大部分を吐き戻しました』
「あの野郎」
昼食前を狙って出かけたわけだ。軽く食べていけと言ったのに、断った理由もそれなら頷ける。牙が巻き添えで昼を食べ損ねた。
『夜は食べると言っていました。かなり空腹だと』
「調理室、使うぜ」
『それは構いませんが、なぜですか』
「暇なんだよ」
時折、必要になればフォックスの操縦に意識を集中しつつも、ナターシャはファイルのページを慎重にめくっていった。やがてすべてを読み終え――元々薄い資料で、それほど時間もいらなかった――、安堵の息をつき、後はただ静かに時を待った。
「ターリャ」
きっちり食事の時間の三十分前のことだ。レイは目を開け、ナターシャの顔を見た。
自分はもう少し寝るが、あなたは食事に行ってくれ、と言われて、体内に水晶時計でも仕込まれているのではないかとナターシャは疑ったものである。
「大丈夫ね?」
「うん。もう一度‥シャワーを浴びるよ」
枕元の机にファイルが置かれているのを見て、一人で小さく頷き、彼は言った。
席を外して欲しいのだと気付いて、ナターシャは額にキスをして部屋を出た。
ドアが、開閉する音が二回。
レイは息を吐き出し、おっくうそうな様子で体を起こした。
「嫌なことは、重なるな」
『音声だけお繋ぎしますか?』
耳の小さなピアスから子ギツネの声がしている。牙が室内にいたら、きっと内容を聞かれてしまっていただろう。
「いや。顔を見せずに難癖を付けられるのもな。もう少し待たせておけ。通信室を使う」
『了解しました』
足を降ろし、ベッドの縁を両手で押す。ブーツに体重がかかる。立ち上がったものの、貧血で目眩がした。ため息が出る。
「…きもちわる‥‥」
たぶん、それは。
レイが体調を崩していたからで、牙が気配を殺すのをやめた日だったからで、子ギツネにいつもより多めの負荷がかかっていたからで、しかし本当は、理由など何もない、ただの不注意だった。
「やあ」
「こんにちは」
会話の始まりは、そんな、ごく平凡なやりとりだった。
ゆったりと本革のソファに身を沈めたレイの真正面、同じように座る一人の男が映っている。紅茶のように赤みを帯びた茶色い肌に、くっきり彫りの深い、印象的な目鼻立ち。顎の側だけに短いひげを生やして、片方の耳にはリング型のピアスが金色に輝いている。おそらく本物のラーグ鉄だろう。ファッションの小道具には金を惜しまない男だ。仕立ての良いフォーマルな上着を着崩した様子は、二枚目半を野性味溢れる色男に見せていた。
「久しぶり」
声は低い。心地の良いバスで「どのぐらいになるっけ?」と問う口調は砕けている。
「九ヶ月」
「髪を切ったね」
「あなたはひげが生えた」
「綺麗になった」
「子供っぽくなった。年寄りじゃないんだから、若作りしない方がいい」
「口が悪いんだから」
精悍な顔が苦笑いをする。
「その後どう? 彼とは仲良くやっている?」
「うん‥。そこそこ、かな」
凍った能面のように動かなかったレイの表情が、目元だけ、かすかにゆるんだ。刹那、それを見咎めた男の両眼が冷たい色を帯びる。ほんの一瞬まぶたを伏せたレイはその表情を見ていない。
「破局の知らせは夢のまた夢ってとこか」
「イワン」
「まだ気は変わらない?」
「それ、こっちの台詞だよ。まだ考えを変えてくれないの」
「変えない」
ため息。
レイは片手で操作卓を触れて、横のモニターに情報を出す。
「魅力的な女性との写真が雑誌に載ってたね。トフィトート銀河系の大地主。あそこなら私も行ったことがあるよ。化石燃料の宝庫。生物のいる星が多くて、いい所だった」
「ジェラシーは大歓迎だけど、誤解は困るな。俺にとってレイほど魅力的な人はいない」
「ライニーの株券ほど、だろう」
「同じことだろ。レイが彼女をトフィトートとして見るならさ」
一瞬、レイは黙った。
相手は微笑を浮かべてこちらを見ている。白旗の代わりに両手を上げた。
「謝罪して取り消す。彼女に失礼なことを言った」
「じゃあ、俺も発言を取り消さないとね。同じじゃない。ライニーは関係なく、レイは、とても魅力的な女性だ」
「イワン・イワノヴィッチ」
鉛のように沈んだ体を起こす気力もなく、レイは首を振る。
「何度言ったら解る? 私はサ・カーンの法律で男として認められてるんだよ。男であることにも、女でないことにも、今のところ大きな不満はない」
「レイ」
低い、体の深いところを貫かれるような声だった。
黒々とした縮れ髪に、銀のメッシュ。黒い双眸がまっすぐにこちらを見据えている。
「それでも、君は、女なんだよ」
噛んで含めるように。
レイはため息をついて前髪を掻き上げる。自分の腕さえ重く感じられた。
「解ってる」
嫌というほど。「おかげで山ほど不便なことがある」
ぼんやりと横のモニターを見ながら、気を抜くと閉じそうになる自分のまぶたにレイは苦労していた。いつもの精彩が彼にはない。
「何より、あなたが折れてくれない」
「諦める気はない」
「私の株を損なわずに受け取れるぐらいの稼ぎはあるだろう。どうしたら納得するんだ。トフィトートの開発計画でもつければいい?」
「私の天使」
「その呼び方はやめろと言った」
鞭のように声がひらめく。
眠たげに伏せられがちだったレイの黒い両眼が、カッとばかりに見開かれ、刃物のように相手に突きつけられていた。気圧されて、倍ほども年上の男の声が喉に絡む。
「‥‥悪い」
言われて、レイはわざとらしくため息をついた。
「イワン。あなたがひとつ頷けば、すべて片付く話なんだよ。書類作成には別に私がサ・カーンに入る必要はない。ライニーは正式にあなたのものになり、私は晴れて自由の身。これ以上あちこちから命を狙われなくなる」
「レイの都合ばかりだ」
「そう。私は私の都合しか考えない。いけないかな? 他の時なら知らないけど、私が言ってるのは、生き残りたいっていうそれだけだよ」
ゆっくりと足を組む。
合成素材の黒いズボンに、ずしりと重たいブーツ。動きは自然と緩慢になって、いっそ官能的な仕草でさえあった。
「私を、傲慢だと言う?」
傾けた頭の、額に指で触れる。
「人殺しの分際で、普通の人間になって生き延びたいなんて、傲慢だって?」
触れれば切れるような、冷たい何かがレイを取り巻いていた。あるいは焦がしたゴムのような、べったりと黒く粘るこごった熱を持つ何か。
敵意でも害意でもない、それは純粋な威嚇。
近寄ればお前の身が危険だと教えるのは、相手への親切だろう。
「俺が守るよ」
「は?」
「俺が、レイを守る。だから頷いて」
レイはかすかに眉をひそめ、まじまじと相手の顔を眺めた。赤い肌の男は、ごく真剣な目をしている。左頬に銀色の頬当てをしていた。
「笑えない冗談は嫌いだよ、ヴァンカ。私はもう一度だけ譲歩する。これ以上はない。今、あなたが承諾するなら、私は贈与税のうち八割を負担しよう。二次的な損失の補填も一定額までは保証する」
「できないよ。レイにその余裕はないだろ」
「作った」
絶句があった。
「なんで、その才能を、ライニーに使わないんだ」
「どうして自殺しないんだって言われて、イワンならどう答える? 私の答えも、それと一緒だよ。『嫌だから』。それか『死にたくないから』」
「レイ、俺は」
「早く答えて。さっきの条件を呑むかどうか、イエス・ノーで」
「ノーだ」
「了解した。あなたの要望通り、手続きは中央でする。生きてたどりつけたら連絡する。さようなら、イワン」
「レイ、待――!」
片手を挙げたレイの動作に応えて、子ギツネが通信をぶち切った。目を伏せ、ぐったりとソファにすべての体重を預ける。
「子ギツネ。このチャンネルはもういらない。全部閉じろ。二度と、あいつからの通信は待たない。どこかで嗅ぎつけて連絡を入れてきても、奴ならすべて遮断だ」
『了解しました。大丈夫ですか、レイノルド』
「最低だ。溜まってきてる。とっとと血抜きしないと。シャワー室あったよな」
『はい。道具はお持ちしてあります』
「動きたくない。お前、この椅子ごと私を運べないか」
『可能です。そのままお待ち』
ぐらん、と大きく世界が揺れて、くださいという電子音声が切り落とされた。
呆然と、レイは上を見る。
美しい剥き出しの宝石眼が青い炎のように燃えていた。抱き上げられた腕には、微細な震えも感じられない。
「…牙」
たぶん、それは。
完全にただの不注意だったのだ。