Chap.16 鬼のかくらん
『出港手続き完了しました。管制官よりメッセージがあります』
「再生」
『良い旅を』
「返信。ありがとう、二分後に出航します。後をよろしく」
『返信完了』
「船体の固定率」
『百十三。物理固定ゼロ。フックは回収済みです。重力錨、出力五パーセント』
「錨の出力をマイナス十パーセントに。主力四エンジン始動。固定率八十で発進」
『了解。発進します』
ナターシャの指示に従って、フォックスはふわりと浮き上がった。通常はそのまま上に向かうものを、ゆるゆると時速六十キロ程度で、地面と水平に移動していく。
「四十番ハッチ」
『開きます』
「レーニャ」
「聞こえた。船体が見えたよ」
声と同時にカメラの映像が左スクリーンに映写される。先を走っているのがレイ、その後を牙。ニードルがパペットの最後の四体を沈めた。
「少し高いよ。二十センチ下げて」
『了解』
レイが持っていた荷物を抱くようにして背を丸め、腰を落とした。牙は躊躇なく、彼の肩を足がかりに踏みつける。船の小さな開口部をつかみ、片腕に抱えていた大きな紙袋を上に投げる。
「アル」
呼んだわけではなく、唇にその名前を載せただけだ。ナターシャがブリッジから喋ったところで、あちらには聞こえない。
床が開いた小さな空間では、アルが荷物を受け止めて横に置いていた。
『船内に牙を感知しました』
「オール・グリーン。上昇準備に入るよ」
『了解、ナターシャ』
アルから投げられたザイルを取り、ぽんと投げ入れられた紫紺の銃をよけながら、牙は下へとその端を垂らした。先が輪になっている。驚くべき正確さで、レイは瞬時に片足の土踏まずで輪を踏み、腕にザイルを絡めた。
ブリッジのナターシャは船内通信をオンにする。
「新手のパペットが、南南東から五体。西から三体。急いで」
牙の耳には、通信機と部屋のスピーカーとから、二重にその声が響いて聞こえた。
一度膝をつき、下のレイが体をまっすぐに保っているのを確認して、彼はザイルを引き上げる。縄は一端を壁にくくりつけられ、天井の金具に通してあったから、レイは自力で登ってきても良かったのだが、牙はまるで淑女にするように丁重に手を貸した。
「取って」
まだザイルにつかまった状態で、レイは体をねじって抱えていた袋をアルへ差し出す。ゆらりと回り出す綱に、牙がレイの腰を強い腕で抱き取った。アルが荷物を受け取った時、ハッチが閉じてぐんと上昇する感覚があった。
「対流圏を出ます。割れ物に気を付けて」
ナターシャの声と同時に、船体が揺れた。アルはレイから渡された方の包みをしっかりと抱え、体の姿勢を崩さないよう、肩を壁に押しつけた。椅子に座っていればなんでもない揺れでも立った状態では意外とこたえる。
「牙、ありがとう」
揺れが続く中、レイが牙の肩に触れた。沈黙があり、揺れが止まる。それから牙はふと思い出したように「ああ」と言った。レイは現在素顔だが、牙は完全装備だ。顔を隠した牙の感情はどうも読みにくい。レイは困った表情になった。
「いつまでだっこしてんの」
「ああ」
返事になっていない。「降ろしてくれ」とレイに言われて、やっと牙は彼を解放した。レイはほっとした様子で足下から銃を拾う。
「以前より」
「え?」
「腰回りに肉が付いたか?」
自分の体格について言われているのだと気付いて、レイが硬直する。アルはものすごく嫌な顔をした。
「おっさん、セクハラ」
「何?」
むっとした、というよりも聞き返す声になったのは、元の発言が純粋な事実評価――それもむしろ褒め言葉に近いもの――だったからだろう。しかしレイは「俺、ブリッジに」とそそくさと逃げだし、アルは「むっつりスケベ」と白い目を向けて去っていった。
ザイルの始末をして、アルが持っていかなかった方の荷物を取った牙は、何か、非常に理不尽なことをされた気分だった。
「お帰りなさい」
優しい声に、レイの表情は氷が溶けるようにやわらかくなった。
「ただいま、ターリャ」
恒例の、頬への小さなキス。
後から入ってきた牙が、毎度ながら冷気を発している。姉と弟のようなこのやりとりに必ず嫉妬の炎を燃やせるのだから、牙の入れ込みようもすごいものだと思う。
ディケンズを発って、八ヶ月が経とうとしている。
誰が誰を信頼できないと言ったのかと問いつめてやりたくなるほど、レイはナターシャに心を許していた。ナターシャが乗船して、アルはレイが自分や牙には一本の線を引き、決して越えさせていないことに、否応なく気付かされた。ナターシャの側でだけ、レイは肩から力を抜く。心からくつろいだ笑顔を見せる。女というものの力なのか、それとも、彼女が『彼女』だからなのか、アルには判らない。
アルも牙も、戦闘の後のレイの強張りを、ナターシャのようには解いてやれない。
悔しさはあったが、アルは彼女の存在をありがたく思っていた。
彼女がいなくともレイは表面上は、いつも通りの顔で牙やアルに笑顔を見せた。だが、ナターシャに声をかけられた時のほっとした顔で、レイがどれだけ気を張っていたか知らされてしまう。
『彼女』。
あるいは未九。ナターシャもまたはづみや埜流と同じ時を生きたことのある魂だ。飄々とした、はづみの恋人。結婚はしなかったが、二人の間には子供もあった。誰よりもはづみに愛された女だ。
しかし彼女に、昔日の記憶はない。
レイだけが相手は昔、自分の恋人であったことを知っている。声を聞いただけでそれと判ったから、彼は自らナターシャに会いに行った。
「辛くねえ?」
一度、アルはレイに尋ねた。
彼女にも思い出してもらいたくないのかと。
「どうして?」
きょとんとした顔でレイは聞き返したものだ。
「ターリャに未九なんて必要ないだろ。俺はターリャが好きだし、彼女も俺がはづみだから付き合ってくれてるわけじゃないし」
過去なんかなくても好き合っているのだからそれでいいという、なんとも健康的な意見だった。
「そもそも、俺たちが例外なんじゃないのかな。普通、人は自分が生まれてくる前のことなんか何も知らないものだろう。俺とアルはともかく、牙が、ぼんやりとでもファルクの記憶を持ってるって、不思議だと思うし」
はづみは、転生を繰り返す魂だ。
埜流はそれを追いかける。だから『埜流』を受け継ぐ者は、それが可能なところまで精神が成熟すると、必ず自分が『埜流』であることを悟って『はづみ』を探すようになる。そうして、『埜流』に出会うことで、無垢な状態で生まれているその時代の『はづみ』は自分の過去を知る、という手順をいつも彼らは踏んでいた。
それが今回は狂っている。
異常だというほどではないが、常と異なることは確かだ。先に昔日の記憶を獲得したのははづみであるレイの方で、出会った時点でアルは埜流を知らなかった。それに今までは他の転生体、つまり『ファルク』や『未九』に出会うことはなかった…ような気がする。アルもレイも古い記憶は曖昧だから、判然とはしないのだが。
(大体…、なんか足んねえ気がするんだよな、今回)
頭を掻いてアルはその想いを振り払い、大切に抱えていた袋を持って、自分の定位置であるソファへ歩いた。長めのテーブルを壁から出して、中身を出す。クッション材を破くうち、みるみる彼は相好を崩した。
「カチャンっていったら、これだよなぁ!」
いきなりの大声に、ブリッジの面子がアルの方を振り向き、何をしていたか知る。
一本の瓶――古風なガラス製だ――を、彼は愛しげになでていた。
「手に入ったの」
「そう! 注文通り十二年もの。やばいって、まじ嬉しい。ありがとな、レイ。本当最高愛してるぜぇ」
画面では、すでにかなり小さくなっている青い星、惑星カチャン。
アルが抱いているのは、カチャン名産の蒸留酒だ。星に降りるというレイに彼が指定した銘柄は、極端に生産量が少なくて、十年を超える熟成を経たものは通常ほとんど市場に出なかった。
「タッシュ、もう平気?」
「もちろん」
船内きっての酒豪が、副操縦席で親指を立てて断言する。アルとナターシャの友情は、大部分、酒を酌み交わすことで培われた。
顔の装備を解いた牙が苦い顔をする前で、アルは子ギツネから栓抜きを受け取った。
幸せいっぱいのその様子に自分の方が嬉しそうな微笑を浮かべて操縦席に手をかけたレイが、不意に、奥歯を噛み、椅子の背を強く握った。
「お前も味見ぐらいするだろ」
アルに振り向かれて、レイは慌てて苦笑をつくる。
「俺は遠慮するよ」
「ええ!?」
「四十五度もあるんだろ。気圧安定したって無理だって。ちょっとシャワー浴びてくる。ターリャ、もう少し操縦よろしくね。たぶんもう子ギツネに任せて大丈夫だから」
言って、レイはもう一度ナターシャの額にキスをしてブリッジを出て行った。
暫時、沈黙が落ちる。
「子ギツネ」
ほぼ同時に三人は口を開きかけたが、アルと牙は互いが息を吸う気配に譲って、結果、ナターシャだけが言葉を発した。
『はい』
「口止めされてる?」
『何をですか、ナターシャ』
「レーニャはどうしたの」
『自室に向かっています』
「シャワーを浴びるために?」
『はい』
レイは、怪我をした時は専用の浴室を使う。やけに美しい大理石の湯船のある、贅沢な浴場だ。一方で、簡素なシャワールームなら全員の部屋に敷設されていて、軽く流すだけなら、レイもこちらを使う場合が多い。
「シャワーを浴びるために?」
同じ質問を彼女は繰り返した。
『運動の後に体を洗うのは、自然な行動かと思いますが』
「とぼけるな」
牙だ。
「サ・カーンに近付くにつれて、確実に宇宙戦の数が増えている。パペットと接触した今奴が席を外すはずがない」
パペットは、宇宙までは追いかけてこない。追っているのが牙だけであれば起こらないことでもないが、最優先のターゲットであるレイの同乗を確認している以上、原則として攻撃が仕掛けられなくなるのだ。
だから現在、さほどの緊迫感は三人にはない。
しかし、そんな状態で、決して緊張を解かないのがレイだった。たった一体のパペットとでも接触すれば、二日間は操縦席から動かなくなる。着替えや睡眠をほとんど取らなくなるので、アルなどはいつも説教するはめになった。
「パペットの通信網は独立系だし、一度指令が入ってしまうと任務完遂まで自発的な報告もしないけど、依頼主の方からはたらきかければ、データは見られるからね」
チェックのタイミングが合えば、討手が差し向けられる。実際、パペットを振り切った翌日に軍艦の出迎えに遭ったこともあった。
そのレイが、乗船直後に、シャワー。
つくならもう少しましな嘘をつけという感じである。
『只今レイノルドがシャワールームに入りました。ご希望でしたら使用水量を画面に表示しましょうか』
誰も信じない。
子ギツネは嘘をつく機械だ。レイだけが絶対であるところを三人は幾度も目にしている。彼が誤魔化せと命じれば、人間では真似が出来ないほど徹底的に話を合わせてしらを切るだろう。もっともらしい数値の捏造などお手のものだ。
「子ギツネ。俺、今からレイの部屋に押し込みしていい?」
『いいえ、アル。それは通常、男女の別にかかわらず、痴漢行為とみなされます。認められません』
「裸を見にいきゃ、そりゃ痴漢だろうけど、俺はあいつがシャワーを浴びてるとは信じてないからな。見るまで納得できない」
『納得していただく必然性はありません。もちろん、その方が望ましいとは思いますが』
「子ギツネ」
アルは頭を抱えた。
『ナターシャ』
「何?」
『レイノルドは、シャワーの後、少し睡眠を取ると予想されます』
「…は?」
三人の声が重なった。
『彼の意志を尊重すればあなたに操縦をお任せしたいのですが、私は、あなたは彼の側にいてくださった方がよろしいのではないかと思います。ご考慮願えませんか』
「ちょっと、待って」
「レイノルドが…眠る?」
『はい。私の予測の範囲を超えませんが。レイノルドは現在、微熱を発し、高い乳酸値を示しています。全身に強い倦怠感があるはずですので、その条件で、あなたの付き添いは彼の精神衛生上、有用ではないかと私は考えます』
「それは」
「ひょっとして」
「普通、風邪とか言わねえ…?」
アルの呟きに、子ギツネは答えた。
『それは特定の病気を示す病名ではありません。レイノルドの場合体調不良と言った方が適当であると思います』