3:悪友ども
とはいえ。
酔った。
「主さまだいじょうぶ?」
「平気へいき、はは。くらくらするだけだ」
フェルミに肩を借りて、胸の内がぐるぐるするような吐き気と、足元の浮つくような感覚と戦う。ときおりグワッと地面が傾くような感じがして、足を踏み直して当然平らなままだと分かると吐き気がグワアッと押し寄せる。ぐえぇ。
走翔板で空を下ってくるのは確かに速い。実際、あっという間に学園近くの通りに降り立つことができた。
しかし、風に煽られ続けて平衡感覚は完全に失調し、空酔いなのか陸酔いなのか、こみ上げるような吐き気に襲われる。辺りに生える並木や芝生などで空気が綺麗なのが救いだ。だが、レンガ敷きの感触だけで、なんかもう胃っていうか肩甲骨に来る。
「朝っぱらからなにをやっとるんだ、お前は」
「ん……?」
前屈みのまま腰を曲げて振り返れば、そこにはウェーブがかった金髪をローブの肩にかける、ノルンの呆れ顔があった。その隣にユジンがにこやかに手を振っている。
「二人とも。一緒に登校なんて珍しゅっぷ」
「うわ汚いな、やめろ、寄るな」
ばっちいものを見るような顔をしてノルンは腕で顔を覆う。えずいただけで、まだなにも出しちゃいない。振り返った腰のひねり具合が胃に来たらしく、断続的に襲う食道の痙攣をうずくまって必死に堪える。フェルミは心配そうな顔をして背中をさすってくれるが、余計出そうになるから勘弁して欲しい。
ユジンは変わらず面白そうに微笑んでいる。
「いやね、空から降ってくる君を見つけたから、近くにいたノルンを呼んだんだけど」
当然のように空から降ってくるとか説明できるユジンの度量は、ときどき分からない。
ハッとしたようにノルンが顔を上げる。
「おおそうだ。お前、その娘は何だ? あんなに仲良くしていたフェルミはどうした?」
「え、なぁに?」
「……ん? あ、いや、お前のことじゃなくてな、こいつの相棒だった火精霊のな?」
「私、主さまのパートナーだよ」
「いや、なんだ、そういうことじゃなくてだな。……セイジ、なんとか言え!」
怒鳴られた。
理不尽なものを感じながら、やっとのことで体の魔力を整えて不快感を快方に向ける。
「ぐ、ふう。そう、あのなノルン、お前に言わなきゃいけないことがたんまりあるんだ!」
「なんだいきなり」
「お前に渡された石のせいで、フェルミがこんなことになったんだぞ! お前アレどういうことだ、あの石は何なんだよ!」
のんきに首をかしげているフェルミを指差す。
ノルンはわけが分からない、という顔をして俺を見つめ、なにを馬鹿なことを言ってるんだ、という顔をして、やれやれ馬鹿には付き合ってられないな、という顔でゆっくりと首を左右に振った。
「せめて何か言えよ!?」
「あまり寄るな、馬鹿が感染る」
「そうじゃねーだろ!」
「ねえ石って何の話だい?」
「ん、ユジンは知らないんだったな。フェルミ、ちょっと」
フェルミを手招いて並木の陰にそそくさと向かう。
ユジンは不思議そうに、ノルンは胡乱を顔中に表してついてくる。
半眼のままノルンは俺にうたぐるような目を向けた。
「……なぜ木陰に?」
「いいから。フェルミ、胸のを」
「うん」
フェルミはおもむろに夏用ローブの襟に手をかけて引き下げる。
白い胸元が木漏れ日の下で露になり、柔らかそうな谷間を見せ付ける。もちろん見せるべきは肌ではなく、相変わらず胸の中心で鈍く輝いている例の石が、そこにある。
さすがの二人も面食らって、それぞれあんぐりと口を開けたり、困惑に眉を寄せたりして驚きを表している。促した俺の心臓にも悪い。
困惑顔を険しく引き締めて、ユジンは慎重にうなずく。
「これは大変だね」
「だろ?」
「ああ。Dのノーブラでその形状を保つとは、控えめに言っても凶器だ」
「違うだろそれ違いますよね? 今見るべきはそれじゃなくて、っていうか今の一瞬で目測したのかお前?」
三分の一も見えたか怪しいのに、尋常な空間把握能力ではない。
ノルンがなぜか自分の胸を押さえながら、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「何の話をしているんだ変態ども!」
「なんのはなしー?」
フェルミも不思議そうに首をかしげて、その澄み切った瞳が良心に突き刺さる。
そう、とにかく今は説明だ。
「そうじゃなくて、石がフェルミと同化してるんだよ」
「まったく、セイジなにしたんだお前」
「いや俺がやったわけじゃないからな?」
とにかく、と話を切って、今朝にあったことをつぶさに説明する。
「なるほどね、そういう流れか」
経緯に納得するように、ユジンはうなずいた。よく納得できるなと思う。俺ですらまだ信じられない。
特にノルンはわなわなと手足を震わせて動揺している。
俺を指差して、犯罪者を告発するような気迫で叫んだ。
「こんなぽやぽやな美少女にするなんて、お前、どんな趣味してるんだ! この変態!」
「おい俺の話聞いてましたかコラ? 俺がさせたわけじゃないっつの! だいたいお前がだな、こんなもの、どこで拾ってきたんだよ!」
「河原だ、第二区の!」
「遠いな!? 一山越えるじゃないか!」
「仕方ないだろう、事実なんだから!」
「ねぇ二人とも。盛り上がってるところ悪いんだけど、そろそろ行かないと遅刻するよ」
『それはマズイ!』
声が揃って、思わず走り出してしまう。ノルンとは変なところで馬が合う。
学園校舎は並木の向こうに見えている。
そして、じりじりと焦がれるように待ちわびた放課後を、やっとの思いで迎えた。
フェルミは授業待機の間じゅう、絡みつくように俺にしなだれかかってきて、終始授業どころではなかった。実体化を解いていたころは毎日こうだったから一番落ち着く、と主張されてしまっては抗弁できない。
状態によって態度を変えるというのは、服装によって態度を翻すに近いらしく、純朴清廉なフェルミの嫌うことのひとつだった。鎧の図体が大きいという理由のものでさえ、機嫌を損ねたのだ。今はなおさら、自身の急変で不安定なフェルミの心を追い込むことは、避けてやりたい。
そういう事情で、針の筵のような級友のプレッシャーと、蔑むような教師の視線と、ノルンの刺し殺すような鬼気迫る形相に耐えなければならなくなった。
ここまで放課後を待ちわびたのは、久しぶりだ。
未だに、肩にフェルミが引っ付いている。
「人の体になると、主さまの体が暖かくていいねえ」
極楽トンボといった顔をしているフェルミの鼻先をつまむ。こいつホントは自分の体が変わったことをなんとも思ってないんじゃないか。
にゅあー、とかなんとか呻いて首をそらす、その顎からのラインが異様に美肌で焦った。
もはや一刻の猶予もない。個人的に。
「の、ノルン、ユジン!」
呼びながら振り返る。
教室は四人掛けの長机が並べられていて、ノルンは斜め後ろの座席に着いている。彼女は金髪のかかる細面にのっぺらと白けた顔を貼り付けていた。下卑た冗談を大声で話す中年を見るような目で、俺を睥睨する。
「なんだ、変態」
「違、ああもう、なんでもいいからさっさと行くぞ!」
文句を言うより行動を優先した。ノルンの腕を引っ立てて、廊下まで促す。
「あたた。こら引っ張るな。行くってどこに」
「第二区の河原なんだろ? なにか手がかりがあるかもしれない」
「第二区なら単軌鉄道で行くのかな?」
荷物をまとめてついてくるユジンは、他人事のように楽しそうだ。
教室の視線は最後までねっとりと背中に絡みついた。鼻歌混じりにスキップするフェルミに注がれていたのだと思う。
完全に廊下に出てから、ノルンはようやく納得した、という顔でしぶしぶ歩き始める。
「はいはい、手がかり、手がかりね。ったく仕方ない」
「おい、誰のせいでこんな目にあってると」
「満喫しておいて、こんな、とはよく言うよ」
「おいノルン」
さすがに、我慢ならなかった。
ローブの襟を掴んで振り向かせる。その驚いたように開かれる瞳の中心に向かって、低く、重い石を投げ落とすように告げる。
「あんな石のせいで、フェルミはいきなり高位精霊級の魔力を持たされた。今だって、実体化を解けずにいる。なあ、一歩間違えれば、フェルミは暴走してたんだよ。ちょっと考えれば分かるだろ?」
「……ああ」
ノルンは、少し息を呑むように呼吸を止めて、顎を小さく引いた。
「すまない、言い過ぎた」
「あー、いやまぁ、客観的に変態に見えるのは仕方ないとは思う。あれじゃ言い訳できん。でも、こんなことは、ごめんだ。……俺も言い過ぎたよ」
引っ掴んだ襟を放して、はたいて伸ばしてやる。ノルンはこう見えて内面は馬鹿に素直で、すぐに傷ついた表情が出てくる。
そういうところは、ある意味、今のフェルミに似ているかもしれない。
下ろした左手を、フェルミがきゅっと握った。じんわりと暖かい、細くて硬い指先の感触が手のひらをなぞる。動揺を抑えて振り返ると、フェルミは神妙にうつむいている。
「どうした?」
「主さまは、私を、もとに戻したいの?」
「え、あ、ああ。そりゃ、わけの分からない石のせいで不安定な状態のままじゃ、フェルミだって嫌だろ? 実体化だって解けないじゃないか」
「んー」
ぱっと手を離して、フェルミはつまらなそうに手を組む。
含みのある態度に眉根が寄る。
「フェルミ?」
なんでもない、というふうに、フェルミは何も言わないまま首を振った。
「デュアル夫婦喧嘩なんて、セイジも隅に置けないなあ」
声に振り返れば、ユジンが爽やかに微笑してダンスしている。
「ユジンお前、なんて軽やかなステップなんだ」
「ハハ、あまりにも空気になっていたから、思わず踊ってしまったよ」
ノルンはもうドン引きしている。
「いやちょっと意味が分からない。もうどこから突っ込んでいいのか分からない。とりあえず誰が夫婦喧嘩だ」
「ああもう、なんでもいいから、さっさと行くぞ!」
いろいろ込み入って、廊下の真ん中で立ち止まってしまっていた。ぱしぱしと二人の背中を叩いて、出発を急かす。
今は少しでも早く、なにか情報が欲しかった。