2:空を飛べるはず
「え? ああ、えっと」
今朝? 今日、朝……時間。
はっ。
と、した。
血の気が転がり落ちて、絶望の沼にべちゃりと沈んだ。
「やば、このままじゃ遅刻だ! おいフェルミ、急いで、いいか? いい? 大丈夫?」
「うん! 遅刻はダメだもんね」
フェルミはやけに元気がいい返事をする。昨日着替えるのをサボってよかった。パンパンと埃を打ち払って立ち上がる。
学園は遅刻に対し注意をしない。やる気のない学生は、慈悲も容赦もなく切り捨てる。学園は、生徒に教えてくれるお優しい場所ではない。指導員に請うて教えをもらう場所だ。
「とにかく、フェルミ、今日は実体を消しててくれ」
「うん、分かった」
応じてフェルミは目を閉じて、首をかしげた。
「あれ?」
「どうした、急いでくれ時間が……ちょっと。本気でどうした?」
情けないマッスルポーズを構えて、いっしょうけんめい力んでいる。
息をついて力を抜いたフェルミは、どうしよう、と顔でつぶやいて俺を見た。
「実体が解けない……」
絶望の沼は当然のごとく底なし沼で、ずぶずぶと生気が沈んでいく。
「も、もういい! 人間体になった理由も分からないんだし、色々おかしくなっても不思議じゃない! せめてまともな格好に着替えてこう」
「うん、分かった」
フェルミは嬉しそうにうなずいて、ぴょいと立ち上がる。それを尻目に箪笥に飛びつく。なんかこう、まともな服。いや、制服の予備でいいか。カッターシャツと夏用の薄いローブを引っ張り出す。
俺の背後でフェルミがご機嫌に歌っていた。
「服を、脱ぐのもっ、初めって~。よいしょ……あれ? んー?」
「なにをやってんどわぁ!?」
「ね、主さま。これどうやって脱ぐの?」
服の真横を掴んで真っ直ぐうえにあげようとして、肘がそれ以上あがらなくて止まっている。ヘソどころかお腹もくびれも全開で、某双丘の最下部が弛んだ裾から覗いていた。
「そのやり方は人体の構造限界を超えなければ脱げない! いい、脱がなくていい! 下ろして、そのままこれを着て!」
裾を下ろすフェルミに押し付けて着させる。シャツは袖を通すだけで、ボタンが留められないと泣きそうな顔をしたので、その頭からローブをおっ被せて丸ごと隠した。
「あ、ねぇ主さまっ、上は脱げないけど下は自分で脱げるよ!」
「脱がんでいい! 靴は後な!」
腰に手を掛けるフェルミを止めて、学業用の肩から提げる小さな鞄とは別に、履かせてあげる時間のない靴下と靴を入れた袋を抱える。
玄関に飛び込み、走翔板を抱えて表に飛び出す。ぴょんぴょんと楽しそうについて来るフェルミを受け止めて、扉を閉めて鍵を閉めて、はたと気付いた。
「飛翔板は稼動できるのか?」
「ん、たぶん」
フェルミはうなずいて、走翔板を見る。と思った途端、突然腕が跳ね上がった。一気に上昇した走翔板の端が、フェルミのローブを引っ掛けて、がばちょと捲り上げる。
「いででで!?」
「ひゃあっ?」
スウェットパンツどころか、前が全開になっているシャツのお腹までしっかりさらして、驚いたフェルミが力を抜く。急に落ちた走翔板を指で支え、負荷が掛かってめっちゃ痛い。
フェルミは不思議そうに自分の手を見ていた。
「な、なんかいつもより、すごい魔力が強い」
「扱えるか? 無理はしないほうが」
「んん、だいじょうぶ。今ので分かった」
ふわ、と走翔板が軽くなる。いつもと同じ軽さだ。
いつも通り飛翔板を投げて、柔らかく床に浮いた。もう調子はいいらしい。片足を乗せて、毛足の長い絨毯を踏むような感触が板を介して伝わる。
それを確かめて、振り返って、困った。
「じゃあ、えっと」
「急ごう!」
どん、と突き飛ばされて、つんのめるように残した足が板に乗る。ふよ、と浮かび上がり、狭い集合住宅の廊下を滑り出す。
腹に圧迫感、背中に服が重なる感触。
「ふぇ、フェルミ?」
「跳ぶよ、しゃがんで!」
「お、おう?」
しゃがむ足に合わせて板が吹き上がる。
ひらりと、落下防止の高い塀を乗り越えて空に躍り出た。
さっと眼下がいけないくらい広がって、辺りが眩しくなる。傍らの集合住宅を高速で行き過ぎ、あっという間に遮るもののない島の上空に飛び込む。
風が全身を包んで、風に煽られるローブが肌に張り付く。いや、背中は風が吹き込まない。そこにはフェルミが鼻歌混じりにくっついて、走翔板は踏み直せないくらいに狭い。足の感触だけが、いつもと変わらない走翔板の踏み心地だ。
「う、うおい、うおあっ!?」
「あははっ!」
フェルミは快活に笑う。
吹き付ける風は強く、普段よりもずっと速度が出ていた。斜面よりも降下が遅く、見掛けの高度が上がっていく。
目の前を窓が過ぎていく。手を伸ばせば届いてしまいそうな錯覚にとらわれた。あっという間に行き過ぎて、次の建家が目の前に流れる。
眼下の鋪装された坂道がだんだん離れていく。
並木の形を初めて知った。朝日に照らされて輝く縁石と並木が、また路面に落とす影が、異様に目に残る。新鮮な感動が胸に吹き込んできた。
空から見下ろす団地の景色は、不思議な感じがする。見たことのない位置から、見覚えのある景色を眺めるのだ。見える景色を知っているのが不思議で、知っているのに初めて見るというのが不思議。
風に揉まれながら空を行く。
いくつもの屋上を飛び越えて、空を撫で切るように滑り落ちていく。
集合住宅群を飛びぬけて、大きい公園の空まで差し掛かった。
「ああ、フェルミ? そろそろ下りないと、索道に乗れないぞ」
「んー……。急いでるんだよね?」
俺の肩にフェルミが顎を乗せる。顎先の感触が肩を押し、鼻先だけが視界の端っこをかすめた。初めての感覚に戸惑う。
笑い声が耳元で囁いた。
「一度、やってみたかったんだ」
なにを――、と聞き返す前に、走翔板が強く浮き上がる。バランスを取っている間に、足下を索道乗り場が通り過ぎた。
「あ、おい行き過ぎ、これ以上はちょっとまじやばいってぇええぇえっ!?」
「しょーっ、と、かぁあああーっと!」
空気がスパッと冷たくなった。
島の縁を飛び越え、路面の反射光が消えて一気に暗くなる。そのぶん空の青が、襲い掛からんばかりに降ってくる。
眼下のごみごみとした街並みは、まるで大きな湖のように広がっていた。朝の空気に動き出し、世界が回り始めた感覚が、目に見えるかのようだ。
「毎朝、思ってたんだ! 索道なんて使わなくても、うんと早く飛べるって!」
「危ない上に魔力を無駄遣いするだけで、なぁーんにもなんないだろっ!?」
「あははっ! やっぱり、私を気遣ってくれてたんだぁ!」
腹に巻きつけられる腕に、力が入って抱きすくめられる。背中が熱い。
不思議と、戸惑う気持ちがなくなってきた。
寒いときに暖めてくれるように、フェルミはいつも俺に気を使ってくれる。だからたぶん、言葉にしないだけで、こういう性格だったのかもしれない。
足元を下りていった索道のゴンドラが、背後に消える。
風に巻かれて、落ちてるのか飛んでるのか進んでるのか、分からなくなってきていた。
辺りには何もなく、下界の町は遠すぎて、現在地を比較するものがなにもない。風が吹き付ける中に停止しているだけかもしれない。
「このまま学園まで行っちゃおうね。そうすればきっと、間に合うよ」
「そりゃあいい、もうこの際遅刻しなければなんでもいいよ」
わりと自棄になっていた。ここまでくれば、もうなにがどうなっても似たようなもんだ。
「じゃあ、急ごう! 今日はすごく、力が溢れてるんだ!」
「え、ちょっと、おわあああああっ!?」
ばうん、と空中を跳ねるように走翔板は加速して、郊外に見える学園へと向かう。
肝を冷やしながらも、ただ風が吹き付けるばかりの時間に、考えが巡った。
フェルミは石で突然変化した。
内面は変わっていないようだが、魔力量といい実体といい、精霊としての格が高位精霊としてのものになったようだ。しかし、それが不自然な状態であると証明するかのように、フェルミは実体化を解くことができない。魔力量を扱い切れないのだ。
おそらく全てはあの石に為されている。
精霊の持つ魔力量の、急激な増加。
それは、精霊の暴走を招く。
ゾクリ、と背筋に怖気が走った。今そこに暖かいフェルミがいてくれてよかったと思う。
暴走とは、換言すれば精霊の死だ。保持していた魔力を維持することができず、ゆっくりと爆発するように、破壊を撒き散らしながら消滅していく。
いくら突然女の子と分かって戸惑うと言っても、ずっと随伴してきた相棒だ。フェルミを失ったら、俺は、どうすればいいのか分からない。
あんな不気味な石など、どうにかして、フェルミから取り除かなければならない。