9:男
フェルミに袖を引かれた。
「主さま?」
はっとする。
ノルンの影はとっくの昔に見えなくなっていた。
苦笑して走翔板を落とす。ふわりとフェルミは浮かせてくれた。
「すまん。後姿を見るってのは、寂しいもんだな」
「私がいるもん」
「ん。そりゃそうだ、ありがとう。帰りに図書館に寄って、本を借りような」
「やったあ!」
喜びに飛び跳ねるように走翔板に飛び乗って、俺を急かす。
腕を引っ張られながら走翔板に片足を乗せて、ふと、通りの奥から俺を見ている人影に気付いた。草色のマントを羽織り、フードを目深にかぶった小柄な男だ。
目が合ったことに気付くと、彼はニコリと愛想よく笑って会釈をする。
何を思ったのか、彼はスタスタと機敏な足取りで歩み寄ってきた。
「やあ、どうも初めまして」
間近で見る彼は思ったよりも若く、少年といっても差し支えない。栗色の髪はフードの中で跳ね、その優しげに緩ませた目許に収まる瞳は、灰色に染まっている。
彼は俺とフェルミを見比べるように見ると、ニコリと微笑んで口を開いた。
「あなた方が、セイジ・アスハルトとその火精霊フェルミ、で間違いありませんか?」
「……あなたは?」
「これは失礼を。私は、あなた方のご学友ユジン・オフェルの知り合いでございます」
胸に手を当てて深々と一礼する。
フェルミが俺の腕を抱いたまま、不思議そうに男を眺める。
走翔板に乗ったままのフェルミを背後にかばい、その案山子のような礼を見下ろした。
男は顔を上げるや否や、俺の顔色を見て驚いたような顔を作る。
「あ、いやいや失礼、名前のほうでしたか。といっても、私はいわゆる通称と言うものを持っていないので、そうですね。……プロポーサ、とでもお呼びいただければと」
ニコリ、と人の好さしか含まない笑顔を浮かべた。
胡散臭さしかなかった。
「それで、ユジンの知り合いがなんで俺に?」
「ああ、そうなのです。少々、込み入ったお話がございまして。お時間がよろしければ、お茶でも呑みながら、どうでしょう? 一杯おごりますよ」
彼が手で示した先には喫茶店の看板が下がっている。町外れに近い、学園傍のあの店だ。
正直言って、あまりこの男についていきたくなかった。
裏の、言ってみればドレイクテイルに近く、しかしそれどころではない、いわば「本物」の雰囲気だ。そう感じる。
俺の気乗りしない様子を悟ったのか、彼は細めた目をちらりと開けて、その灰色の瞳を覗かせた。
「お嬢さんの魔石について――と言えば、私の用事が分かっていただけますでしょうか」
息を呑む。
この男が、なぜそれを知っているのか。
もしも、本当にユジンの知り合いで、さらに彼が信頼するほどの人間なら、確かに知っていてもおかしくはない。だが待て。
ユジンが信用する? この男を?
魔石が危険な代物だと分かっているのに?
報せる理由には弱すぎる。はっきり言って、信じられない。
「さあ、行きましょう。なに、日暮れ前には終わりますよ」
彼は穏やかに笑い、喫茶店に足を向ける。
フェルミが心配そうに俺を窺った。その頭を撫でて、走翔板を受け取る。使い古して剥げかけた板の縁が、手に吸い付く。
あの男……プロポーサに、ついて行くしかない。
喫茶店は寂れて、しみったれていた。
薄暗くて、汚れていて、奥の照明はすでに魔導石がなくなっている。
コーヒーの匂いもどこか古びて、香ばしさはない。
出されたコーヒーも泥のようにまずい。まず香りが飛んでいて、しかも挽いた豆を濾していなかった。フェルミでさえ、頼んだオレンジジュースを一口飲んで「なんか水っぽい」と沈んだ顔でコップを押し出してしまうほどだ。
「この店、気に入っているんですよね」
プロポーサはニコニコと笑いながら言った。
正気を疑う目で見ていると、彼はいたずらっぽくウィンクして口角をさらに吊り上げる。
「ひと気がなくて、静かなんですよ」
そういう意味か。
手元を見れば、プロポーサは頼んだコーヒーに触れてすらいない。
始めから、呑む気など欠片もないようだった。
彼はクスクスと意味もなく笑う。
「場所代みたいなものですよ。さて、早速ですが、本題に入りましょうか」
「その前に」
口を挟む。相手のペースで会話を進めたくはない。
「あなたとユジンは、どういう関係で?」
「関係? ハハ、大したものではありませんよ。ビジネスです。私の仕事をユジンくんが手伝ってくれる。それだけです」
「仕事、ってどんな」
「しがない魔導石仲介業者ですよ」
魔導石のブローカーか。
街灯ひとつでさえ火精霊と契約して灯す街で、魔導石の流通は極めて一般的なものだ。その意味で魔導石に関わる商人というのは、珍しいものではない。
だが、魔導石に酷似した見た目の魔石に関わっている。そう思うと、この男が魔導石という単語を出すだけで、怪しく思えてしまう。
疑心暗鬼に陥っている。まずい、冷静に客観的にならなければ。偏見は目を曇らせる。
プロポーサは、自分の一人息子を自慢する父親のように笑う。
「ユジンくんはすごいですよ。頭が切れる。学業は芳しくないと聞いていますが、そうでしょう、あの頭脳は模範解答しか能のない学業とはかけ離れている。セイジくんも、知っているでしょう? 彼の魔術師という才能」
「それも、知っているんですか」
思わず額に手を当てた。
魔術師、というものは、名前の響きと裏腹にあまり一般的なものではない。というのも、厳密に魔術師であることに、価値がないからだ。
自前の魔力か、霊脈の魔力を用いて魔術を組み上げる。
これが厳密な意味での魔術であり、魔術師だ。しかし霊脈は場によってムラが大きく、一般的な人が生まれつき持つ魔力など微々たるものだ。
それよりは、精霊と契約を結び、彼らの魔力を借りて魔術を組むほうが、よほど安定するし効率がいい。そういう広義の精霊術のほうが定着していったのだ。
俺たちの所属する魔術科が、名前と裏腹に精霊術に偏重する理由もここにある。
そのなかでユジンは、生まれつき魔力を豊富に持っていた。
豊富といっても精霊に劣る程度でしかないが、明確な違いとして俺の百倍は保持している。それゆえの魔術師ユジンだ。
それを知るこの男はつまり、ユジンの極めて個人的な内実にさえ、よく精通している、ということを意味する。
自称する関係が本当か嘘かは、分からない。
ただ深く関係している、そのことについてだけは、疑いようがなかった。
大量に詰められた氷が解けてさらに透明度の増していくオレンジジュースを、フェルミは恨めしげに眺めている。カラン、と氷が崩れて澄んだ音を立てた。
さびれきった店は静寂に満ちている。
この男は、どんな形であれ、魔石に関する情報をなにか持っているのだろう。
顔を上げた。
「分かりました、本題に入りましょう」
「よろしいですか?」
彼は愛想のいい顔をニッコリと微笑ませて、うなずいた。
そして、ゆるく笑みを見せる口を、動かす。
「そのお嬢さんの魔石、取り除いて差し上げましょう」
いきなり核心にぶち込まれた。




