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徒花の恋  作者: ミナ
9/18

09

智紀が玄関の中へ入りきるまでの数秒間、息ができなかった。

今日は、あのひとに会いに行くためにこのまま外へ行ってしまうのではないか、と思っていたから余計に怖かった。

けれど今は、帰ってきはしたもののかなり苛立った様子を見せた智紀のほうがもっと怖いと思ってしまう。

本当は会いに行きたいと思っているのではないか。

名ばかりの妻がいるがために、窮屈な思いをしていると感じているのではないか。

しかし、それを確認する勇気も隙も無い。

廊下に響いた、智紀がドアを勢いよく閉めた音が、木綿子の心にもきつく響き渡った。


いつもはリビングで寛いでいる智紀だが、今日は部屋に閉じこもったままで出てくる気配が無い。

広い部屋の大きいソファで、独り座っているのは切ない気分を増大させるだけだ。

ひとりでに溜息が漏れ、心配してくれているらしいモモが足もとに纏わりついてくる。

いつもはモモを抱きしめたり撫でたりしていると落ち着くはずの気持ちだが、今日はそうもいかない。

「…寂しいよ」

ついぽろりと零れ出てしまった言葉が、思ったよりも大きく響く。

以前は、智紀が家にいることのほうが珍しかった。

今は、頻繁にあるパーティのおかげで、智紀が家に帰ってくることも増えている。

いないことが普通だったのに、少しでも一緒に過ごす時間があると、どんどん欲張りになっていくのだ。

言ってしまったのは本音だが、以前に比べると随分贅沢なものであるとわかっている。

けれどそれも言わなければよかった、とすぐに後悔するくらい、寂しさがひどく身に沁みて両膝を抱え込んだ。


感情が不安定だったせいか、床に就いてもなかなか眠りは訪れなかった。

ベッドの中に入って仰向けになった姿勢のまま、木綿子はぼんやりと宙を眺めている。

時折枕元に置いてある携帯を手に取り時刻をチェックするが、その度に時間は5分ほどずつしか進まない。

そんなことを何度も繰り返しているうちに、一通のメールが入った。

『今日は久しぶりに会えて良かった。また何かあったら何でも言っておいで』

パーティ会場で智紀とあのひとの姿を目撃してしまった後、偶然会った秀也(しゅうや)からだ。

秀也は木綿子よりも4つ年上だが、子どもの頃から度々会っていたこともあり、いわゆる幼馴染みのようなものだ。

秀也の家は茶道の世界ではかなり有名な家で、昼に懐石料理を出す正午の茶事のためによく淡粋を利用していた。

木綿子が大学に通いだした頃からあまり会う機会も無く、智紀と結婚した後は全く会うことが無かったが、今日久々に会って話が弾んだ。

幼馴染みのようだという気安さから、うまくいっていない結婚生活についてもついうっかり少しだけ零してしまい、かなり心配されてしまった。

実家に伝わりでもしたら大変だと慌てて取り繕ったが、秀也は何とも言えないような顔をして、いつでも相談には乗ると言ってくれた。

秀也は相変わらず優しい近所のお兄さんのような存在で、直前に見てしまった智紀たちの姿も、秀也と話している間は影が薄れた。

それから、秀也は自分の近況についていろいろと話してくれ、最後に携帯のアドレスを交換してくれた。

そういうわけで秀也は、木綿子の携帯のアドレス帳に初めて入った、家族以外の人だ。

なんとなくこそばゆい感じがして、木綿子はしばらくそのメールを見つめていたが、そのうちようやく眠気がやってきて、素直にそれに従った。


そんなことがあっても、日常生活は変わらずに続いた。

智紀は仕事が忙しい日には相変わらず、帰って来ないか、帰っても夜中で朝早くにまた出て行ってしまい、顔を合わせる機会はあまり無い。

それでもその後何度か入ったパーティの日には、今まで通り家に帰ってきて、リビングで映画などを楽しみながら酒を飲んでいる。

智紀と一緒に歩いていたあのひとを、その後のパーティで目にしたことは無いし、智紀もあの日の苛立ちが嘘のように、木綿子のエスコートも完ぺきだ。

あの日から三週間余り、このままこの日常が続くならば、見てしまったことを忘れてしまってもいいような気さえした。

いや、忘れてしまいたい、と願っているというのが本当のところなのだが。


結局のところ、智紀の考えていることがわからない、というのが一番の問題なのだ。

ほとんど一緒に過ごしたことが無いとはいえ、一応結婚した仲だと言うのに。

ベッドの上に座りながらぼんやりとそんなことを考えているところに、携帯の着信音が鳴り響いて現実に引き戻される。

『準備進んでるかしら? 明日は楽しみね^^』

瑞枝からだった。

メールの内容に、思わず携帯の画面から目の焦点をベッドカバーの上に移す。

小さめのキャリーバッグと、なかなか選べずにほとんど全ての洋服やインナー類が所狭しと重なり合うように並べてある。

智紀のことを考えながらの準備は、思うように進まないでいる。

なるべく素敵なものを選びたい気持ちと、どうせ見てもらえないという諦めの気持ちと、そしてあのひとのこと。

結婚一周年という旅行の意義が、どうにも現実味を帯びない。

それでも、智紀は本当に旅行に行ってくれるようだし、準備も木綿子に任せると言ってきた。

せっかくなので楽しみたいのは当然の気持ちであり、何はともあれ一緒に行けることで満足したいというのもある。

木綿子は大きく息を吸いこむと、思いきり吐き出し、気持ちを切り替えて今度こそ準備を進めた。


いつもの定期便メールで早めに帰ると送ってきた智紀だが、20時を過ぎた頃に珍しく予定変更の連絡が入った。

どんな理由かまではわからないが、とにかく予定よりもだいぶ遅くなるから先に休んでいて良いというものだった。

あのひとの影を感じたような気がして、木綿子は一瞬どきりとしたが、明日からのことを考えて無理矢理気を逸らせることに成功した。

リビングには、準備を終えたキャリーバッグが二つ、並んでいる。

義務とか職務でなく、ふたりで一緒にどこかへ出かけられるということが、何より嬉しい。

しばらくその並んだバッグを眺めてから、木綿子は幸せそうにほほ笑んでリビングを後にした。


チャイムが鳴ったのは、0時半過ぎだ。

いつもの智紀なら、日付が変わってからの時間帯に自分の帰りを木綿子に知らせることは無い。

それに来客にしては非常識な時間だ、と木綿子はチャイムを無視して眠り直そうと目を瞑るが、瞑ったその瞬間にもう一度鳴った。

仕方ない、と溜息をつきながら体を起こしていると、今度は家の電話が鳴り出す。

ガウンを引っかけて急いでモニタを覗くと、携帯を耳に当てて立っている西條と、西條の肩にぐったりと凭れかかっている智紀がいた。

慌ててどうぞと声をかけてロックを外したところで、ようやく電話が鳴りやんだ。

廊下を走って行きドアを開けると、モニタで見たのとほぼ同じ恰好でふたりが立っている。

「夜分に申し訳ない」

「いえ、あの…どういう」

聞きかけて、木綿子は漂ってきたきつい酒の匂いに顔を顰め、困惑したように口を噤む。

西條は極めて普通の様子であるのに対して、智紀は一目でひどいとわかる有様である。

髪は乱れ、顔は赤く、瞼も重そうで、自分で立つことさえ儘ならず、おまけにシャツのボタンは上から三つも外されている。

ネクタイとベルトは西條の手にあり、智紀がネクタイを頭に巻いていないだけマシか、というほどの泥酔状態だ。

智紀は酒に強い方だし、普段無茶な飲み方はしないため、こんな状況に陥った智紀は見たことが無い。

「随分ひどい呑み方をしたようで、店の方から連絡が来ましたので迎えに行ったのですが。

 エントランスはいいとして、奥さまのいらっしゃる家には勝手には入れないと思いましたので、失礼かと思いましたが出ていただきました」

「そんな、とんでもないです。迷惑をかけてしまって、申し訳ないです」

淡々と説明する西條に、木綿子は謝ったが、内心は混乱していた。

変更された帰宅時間とこの酩酊ぶりは関りがありそうだと思うが、西條の口振りからは何かを推察することはできなかった。

何はともあれ、木綿子ひとりでは智紀を運ぶことなどとてもできないため、迷惑ついでに西條に部屋まで運んでもらうことにする。

途中、開け放たれたままの木綿子の部屋のドアに西條の視線が向けられた時には、焦りや気まずさを感じたが、西條は事務的にただ通り過ぎただけだった。

西條は秘書である前に智紀の学生時代からの友人と聞いているし、恐らく夫婦生活の事情も知っているだろうが、指摘してこないところがありがたい。

智紀を寝かせてもらい、時間が時間だからとすぐに辞す西條を玄関まで送り出すと、木綿子は智紀の部屋まで舞い戻った。


夜の時間帯に、しかもベッドに智紀がいるときに、この部屋に入るのは初めてだ。

何も無いことはわかりきっているのに、妙な緊張感で、水の入ったペットボトルを持つ手が震えている。

そっとベッドに近づくと、智紀は体の右側を下にして、つまり背中を向けて横になっている。

ベッドの真ん中付近にいる智紀に近づくために、木綿子はベッドに膝をついて乗ってから正座になった。

心臓の音がうるさい。

それを振り払うように深呼吸をひとつしてから、震える指を叱咤しつつ、名前を呼びながら智紀の肩に触れてみる。

「んん…」

呻くような声と、眉間に寄る皺、そして吐き出される苦しげな息遣い。

智紀が応えるのを待てず、木綿子は少し力を入れて智紀をこちら側に向けさせた。

「お水、持ってきましたから。飲んだほうがいいです」

「水…」

ようやくまともな反応が返ったことに安堵し、智紀の頭を支えながら、ボトルを口につけて水を飲ませる。

ごくり、ごくり、と何口も飲むと満足したのか、智紀はボトルを離すように顔を少し背けた。

智紀の頭を枕に就け、ボトルの蓋を閉めてから智紀に目を遣ると、ぼんやりとした表情だが木綿子をじっと見つめる目とぶつかる。

こんな風に見つめあったことなど、今までにない。

まともな状態でもないのに、木綿子は胸が騒ぎだすのを感じてベッドから降りようとしたが、それは叶わなかった。


手が、触れて、腕を、掴まれた。

どきりとしたのは、そのせいだけではない。

「智紀さん?」

困惑した木綿子が思わず呼んだ名前に、智紀はこれまでに見たことが無いほどの、嬉しそうな顔をした。

益々意味がわからず、どうして良いかわからなくなった木綿子は、不意に腕を引っ張られて呆気なく体勢を崩す。

そうして、押しつけられたのは、唇。

視界がぐるりと回り、背中にはベッドの感触、目の前にはぼやけるほどに近い智紀。

狼狽に埋め尽くされた木綿子を押し止めたのは、智紀の声だった。

「ゆう…」

名前を呼ばれたのだと思った。

元々抵抗したいわけではなかったため、それで、一気に力が抜けた。

初めてのキスは、咽かえるような酒の匂いと多くの困惑と少しの愛しさに塗れていた。


前半傷心、後半困惑。

旅行前夜に初めてのキス、ですが喜べない展開です。

次回は、智紀のヤケ酒(笑)&突然のキスの理由。

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