05
「あの、本当に行かないとダメなんですか?」
「奥様のお言いつけですので…」
「そう、ですよね…」
「智紀様もいらっしゃるそうですから、不安に思われずとも大丈夫ですよ」
先ほどから何度繰り返したかわからない、このやり取り。
運転手の伴(ばん)は本来は瑞枝付きだが、今までに何度も面識があるため、木綿子も気軽に会話を交わせる。
けれど、智紀がいることも不安要素なのだ、とは決して言えないことくらいはわかっている。
木綿子は今、瑞枝が遣した伴の運転する車のゆったりとした後部座席に納まっているが、気分は決して寛いでいない。
それどころか、これから連れて行かれる場所を思うと気は滅入る一方だ。
木綿子は身に着けている慣れないドレスとピンヒールに目をやり、引き攣った表情のまま溜息を吐きだした。
昨日、突然瑞枝から入ったメール。
『明日ちょっとお付き合いしてほしいところがあるんだけど、時間空いてるかしら?』
気軽な感じだったので、大して気にも留めずに了解の返信を送った。
『じゃあ、4時半頃に迎えを遣るわね』
いつもなら迎えに行くと言う瑞枝が、迎えを遣ると言ったことに若干の引っかかりを感じたが、流してしまった。
どこに行くのか、なぜ瑞枝が一緒に来ないのか、もっとよく確認するべきだった。
と、今なら確実に思うのに、昨日の木綿子はそれをしなかった。
“後悔先に立たず”とはよく言ったものだ。
迎えに来た車に乗り、まず連れて行かれた店で着せ替え人形よろしくドレスや靴やアクセサリを宛がわれた。
その後また車に乗せられ連れて行かれたのはヘアサロンで、またもやメイクとヘアメイクをばっちりと施された。
木綿子自身何が何だかわからないまま、あれよあれよと言う間にすっかりパーティ仕様になってしまった。
そこで、いくらなんでもと伴に尋ねてみれば、この後の行先は東京オリエンタルホテルだった。
格式高いこのホテルは、醍醐の管理物件の一つであり、実質的なオーナーは光昭だと言って過言ではない。
おまけに今日は、懇意にしているイギリスのメガバンクRBEの重鎮たちが来日しており、歓迎と親睦の意を込めたパーティがあるという。
つまり、瑞枝がちょっと付き合ってほしいと言ったのは、このパーティなのだ。
恐ろしいことになった。
木綿子は自分が社交界向きで無いことを嫌というほど知っている。
自分の婚約や結婚のときのパーティですら、極度の緊張のために思い出したくないほどの惨状に陥った。
会社の関係者、しかも外国人が相手となれば、さらにひどいことになるのは目に見えている。
そういうわけで、冒頭の会話へと続くことになったのだが、逃げ出すことは無理だということも、悟っていた。
到着して伴が運転席から降り、木綿子の側のドアを開けたが、木綿子の体は緊張のためか強張りうまく動けない。
今からこんなでは後々どうなるか、しかも今は早く降りなければ邪魔になるのはわかっており、気ばかりが焦った。
「木綿子様、大丈夫ですか…」
「す、すみません」
心配そうな伴に、木綿子は泣きそうな声で謝る。
どうにかして降りなくては、と思った時、伴が驚いたようにあっと声を漏らすと急に木綿子の視界から消えた。
と同時に、木綿子の腕と腰を誰かに抱かれて、あっという間も無く車から降ろされる。
地面に足が着いた感覚と、勢いで抱え込まれる格好になった事実に狼狽えながら視線を上げると、智紀だった。
「伴、すまなかったな」
「いいえ。お帰りはいかがなさいますか?」
「車で来てるから、適当に抜けるさ」
「承知いたしました。では、お気をつけて」
頭上で交わされる苦笑交じりの会話など耳に入らず、木綿子はただただ触れ合っている面に神経が集中していた。
むき出しの腕を掴む掌の強さと、薄い布地のドレス越しに感じる掌の温度と、未だ抱きしめられている体勢のために感じる腕の中の温度。
今までに感じたことが無いほどの近さに、免疫のない木綿子の心臓は壊れそうなほど高鳴り、体中の血液が沸騰しそうだった。
「…大丈夫か」
自分に向けられている言葉だと気づくのに、しばらく時間がかかった。
間を開けてぼんやりと見上げると、覗き込むようにしていたらしい智紀の眉間に小さな皺ができる。
迷惑がられた、と咄嗟に思い、木綿子は一瞬で冷水をかけられたような気分になった。
「今からこんなで、中に入って本当に大丈夫なのか?」
けれど智紀の声は想像していたよりも冷たいものではなく、表情も純粋に心配しているように見えた。
「すみません。こういうのは苦手で、しかも今日は急だったので緊張してしまって…」
「だろうね。まったく、あの人も無茶させる」
苦笑しながら相槌をうち、ため息交じりに母親についてぼやく智紀を、木綿子は珍しそうに見上げる。
場所が違うせいか、智紀の雰囲気はいつもと違って見える。
たまに部屋で会うときの、息苦しいまでの他人行儀な様子や突き放すような態度が見えない。
他人の目があるからかもしれない。
過剰に期待しないよう木綿子は自分に言い聞かせる必要があったが、それでも少しだけ安堵する。
気が緩んだのか、舞う風に寒いという感覚を思い出して木綿子の体は小さく震え、智紀はそれに気づいたようだった。
「すまない、ここにいても寒いだけだな。とりあえず入ろう。歩けるか?」
「あ、はい」
体を離されて木綿子は途端に心細くなったが、代わりに腕を差し出されそっと手を寄せる。
智紀は相変わらず木綿子自身には興味が無いようで、ドレスにも靴にも髪型にもメイクにも特に感想は無い。
それでも普段なら触れることはおろか近づくこともできない智紀に、触れてもよいきちんとした理由があることだけでも今は嬉しい。
木綿子の歩調に合わせて半歩前をゆっくりと歩く智紀に付いていきながら、木綿子は緊張とは別の種類の鼓動を感じていた。
受付を済ませ会場へ入ると、大勢の人とその優雅な雰囲気に木綿子は圧倒された。
しかも、滅多にパーティに出ない智紀と木綿子は否が応でも人目を惹き、気づいた人々がちらちらと視線を寄越す。
そこかしこからの視線と密やかに交わされる言葉たちが、木綿子には全て恐ろしいものに見えてしまう。
自分がものすごく場違いな気がして、ひいていた緊張がわっと押し寄せた。
知らぬうちに腰が引け、智紀の腕に副えていた手に、まるでしがみつくように力が入ってしまう。
こんな不格好な相手が同伴では智紀の評価に影響する、というのは容易に想像がつき、さらに緊張が増すという悪循環。
ひとりぐるぐると考えていると、智紀が急に止まった。
何事だろう、と智紀を見上げると、苦笑を浮かべた智紀が思いの外優しげな視線を寄こしている。
「今日は時間縛られてないパーティだから、適当に挨拶したらすぐに帰れる。
俺が一緒にいるから、誰かに話しかけられても俺が話せばいいし、君は余計なこと考えないでとにかくいてくれるだけでいいから。
まあ、視線を向けられたらちょっと笑ってくれれば万々歳ってところだが。…できそうか?」
「は、はいっ」
思い切り力んだ返事に、智紀は笑った。
その顔に、木綿子の心臓はまた飛び跳ねる。
智紀は小さく頷くと、木綿子の緊張を宥めるように、智紀の腕に副えてある木綿子の手をぽんぽんっと左手で軽く叩いた。
その仕草に驚きつつも、ここで頼れるのは智紀だけだと今更ながら実感した木綿子は、覚悟を決めて姿勢を正した。
満面の笑みを湛えた瑞枝と光昭に迎えられ、そのまま傍にいたRBEのCEOだとかCOOだとかいう偉い人に紹介される。
英語のできない木綿子は、彼らと対等に会話している智紀の隣で、言われた通り微笑を浮かべることで精いっぱいだった。
時間にすれば恐らくほんの5分ほどだったはずだが、緊張しすぎていたせいで、話し終わった今は目の前にいたはずの彼らの顔も覚えていない。
「…もう大丈夫だよ。頑張ったな」
少し離れた場所に連れて行かれ智紀にそう言われても、貼りつけた笑みのまま顔が固まっていて、ぎこちない表情しか返せない。
場を光昭に任せた瑞枝が傍に来て、さすがに心配そうに木綿子を見つめてくるのがわかる。
「木綿子ちゃん、大丈夫?」
「なわけ無いでしょう。しかも何も知らずに来させられて」
大丈夫、と答えようと口を開きかけたが、木綿子が声に出す前に不機嫌そうに智紀が答える。
だが、ある意味それが本音ではあったので、木綿子は智紀がそう言ってくれたことは素直にありがたかった。
「それは悪かったと思ってるわ。ごめんね木綿子ちゃん。次からは、ちゃんと事前にお知らせするから」
「つ、次…?」
助けを求めるように智紀を見上げたが、智紀は苦虫を噛み潰したような顔をしているものの何も言わない。
もう一度瑞枝に顔を向け直すと、うふふっという笑い声が聞こえたと同時に耳元に小声で囁かれた。
「パーティの間は、智紀もずっと一緒よ」
意味を理解した途端、木綿子は内心軽くショックを受けた。
この間瑞枝と一緒にランチをしたときのやり取りを思い出し、今の状況はそのせいだと思い至る。
智紀は、仕事を言い訳にさせず木綿子と時間を過ごさせる、という瑞枝の謀に嵌められたのだ。
そして直前の智紀の反応からすると、おそらく智紀も瑞枝の意図を知っている。
車を降りる時から今までの智紀の優しさは、単に自分に向けられるためだけのものではやはり無かった。
べつに、期待なんてしていなかった、というのは強がりだとわかっていても、そう思わなければやっていられない。
玄関まで智紀に送り届けられたが、智紀は一緒に中へは入らなかった。
普段なら何も言わずに送り出すところだが、今日はどうしてかそうしたくなかった。
たとえ答えが分かりきっていても、それでも聞かずにはいられない。
「智紀さんは…?」
常にない木綿子の態度のせいか、智紀が答えを口に出すまでに少しだけ間が開いたが、答えは相変わらずだった。
「…仕事、放り出してきたから。今日は多分泊りになる」
「そう、ですよね。…行ってらっしゃいませ」
「…行ってくる」
ドアが閉まると、木綿子は小さく笑った。
初めて直接智紀に言えた送り出すための挨拶がこんな形とは、切ないやらおかしいやら。
少しでも智紀と接することができたため、瑞枝の気遣いは嬉しかったが、その反面、余計に哀しくもある。
これからもこんなことが何度もあると思うと、心臓が痛みでおかしくなりそうだった。
パーティ初回でした。
緊張しまくりの木綿子を、智紀はきちんとエスコートしてくれました。
が、終わったらやっぱり行ってしまう智紀。
いつになく優しくされたら、やっぱり少しくらい期待してしまうのが女ですよね…。
なので、木綿子は嬉しさと哀しさとでいっぱいいっぱいです。
智紀には困ったもんですね。