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徒花の恋  作者: ミナ
4/18

04

散歩を終えて部屋に戻ってしばらくしてもまだ興奮気味のモモを抑え、智紀はテーブルの上に小さなメモを残す。

素っ気ない単なる連絡事項だけしか書いていないが、普段からろくに会話も無いため、あえて他に書くことも思いつかない。

せめて挨拶くらいは書くべきだろうか、と思いつついつも結局ペンが進まずに終わるのだ。

智紀が諦めてペンを置いた途端、またしてもモモが飛びかかってきた。

わふっ!というもう少しで吠え声になりそうな声がしんとしたリビングに響き、思わずモモの口を押さえる。

「こらモモ、静かに! 木綿子が起きるだろう」

ひそめた声でモモを叱ると、モモは一瞬委縮したが声は出さない代わりに今度は顔をべろべろと舐めてくる。

智紀はそれを苦笑しながら受け止め、自分が今口に出した名前を考えて、さらに苦笑を深めた。

本人には、名前で呼びかけたことが無い。

どこか虚しい気がするのは間違いないが、それは智紀なりの線引きでもある。

またしばらくは会わない、そんな日常に戻るのだから、そこまで気にすることも無いはずのことだ。


ひとしきりモモの相手をしてから時計を見ると、午前5時50分、もう少しで木綿子が起き出す時間だ。

確かめたことは無いが、以前瑞枝との会話で起床は6時だと話しているのを聞いたことがあった。

木綿子と朝顔を合わせるのは避けたい。

智紀は急いでモモを離すと、いったんパウダールームへ行き顔を洗ってから、身支度を整えて足早に玄関へ向かう。

お座りをして智紀を見送るモモに、しゃがみ込んで語りかけた。

「モモ、…彼女のこと、頼むぞ。言うこともちゃんと聞いてな」

関わりを持ちたくないと思いながら、自分が家に帰らない間の木綿子が心配でもある。

どうしても収束しない自分の思いに、智紀は諦めのため息をついた。

ぶんぶんと振られるしっぽは多分イエスの意味だろう、と勝手に解釈し、智紀はそっと玄関を出る。

ドアを閉め時計をもう一度見ると、5時56分。

危ないところだった。

智紀はほっと息をつくと、すぐにエレベータへ乗り込んだ。


昨日早く帰ったせいか、デスクの上にはうんざりするほどの稟議書や決裁書が積まれていた。

午後からは複数の会議が入っており、それまでに全部目を通せるかどうか、微妙なラインだ。

おまけに、今日は木綿子と会った翌日だ。

認めたくないことだが、木綿子と会うと智紀は決まって情緒不安定になる。

どこか苛々してしまい、仕事がいつも通り捗らなくなるのだ。

長めにモモの散歩をして少しは発散したと思っていたが、あまり意味は無かったらしい。

コーヒーでも飲もうと秘書室へ続くドアを開けると、諸悪の根源である西條がいた。

ちらりと室内へ目を走らせたが、他の秘書の姿は無い。

定時よりも1時間以上早い時間だから当然と言えば当然であり、むしろこの時間にいる西條のほうがおかしいという話だ。

しかも、既にコーヒーの香りが漂っている。

「早いな」

「お前が早いだろうと思ったからな」

然も当然のように言いながら、コーヒーの入ったカップを渡される。

これが西條の凄いところだ、といつも思う。

定時より早くしかも気分次第で変わる智紀の出社時間に、西條はぴたりと合わせたように出社している。

しかし、そこまで智紀の気分が推し量れるなら、最初から無理矢理家に帰そうとしないでほしい、というのが本音だ。

「で? どうだったんだ?」

「何がだ」

「46日ぶりのご対面」

言われてみて初めて、前回会ったときから46日も経っていたのか、と気づいた。

世の一般の新婚夫婦ならえらいことだ。

幸運なことに―と言って良いかは不明だが、智紀と木綿子は一般的な夫婦ではないし、西條に聞かれたところで話すようなことも無い。

「べつに、いつも通り」

「飯食ってさっさと風呂入らせてサヨナラ?」

つまらなそうに、そして呆れたように言う西條には、無言で肯定を示した。

その後にあったアクシデントが不意に脳裏によみがえりかけたが、コーヒーを流し込むことで押し止める。

「それより」

「なんだ?」

「毎回お前は、どうして俺を帰らせようとするんだ」

西條は一瞬口元を引き締めて、智紀を見返す。

何か言いにくいことがあるといつもこういう反応をするのだが、あいにくその内容までは推測できなかった。

「…あえて言うなら、翌日のお前を見るのが楽しいから、だな」

間を置いておいて何を言うかと思えば、西條は薄く笑ってそう宣った。

恐らく、本当の理由は別にあるのだ。

聞くんじゃなかった、と苛つき度を増加させた智紀は、追加のコーヒーを入れさせ、さっさと部屋に引き揚げた。


最後にあった役員会議は思ったよりも長引いた。

役員のほぼ8割は、智紀よりも年上で頭の固い人間だ。

理想とプライドだけは高い厄介な相手に、智紀の疲労と苛々は頂点に達していた。

部屋に戻ると、手にしていた資料をデスクの上に叩きつけ、どさりと椅子に体を投げ出す。

と同時に、秘書室から続くドアが開き、西條がコーヒーを持ってくる。

「お疲れさまでした」

「まったくだ」

不機嫌そうに返す智紀の顔を見ると、西條は気の毒そうに笑った。

それから少々姿勢を正してから、会議中に入った電話などについての報告を始める。

「全て、折り返すと伝えましたが、また掛け直していただけるようです」

「わかった」

「それから最後に、…会長の奥様から」

「…誰だって?」

誰だかはわかっているのだが、あまり聞きたくなかった肩書きである。

聞き返す智紀に、西條も苦笑を混じらせてもう一度言い直す。

「会長の奥様の、醍醐 瑞枝様です。副社長のお母様とも言いますが」

「そこまで言わなくていい」

「何が何でも会議が終わったらすぐ掛け直せ、とのことでした」

「相変わらず無茶苦茶言う人だな」

「どうやら、かなりお怒りのご様子でしたので」

慇懃な言葉遣いとは裏腹に、西條の表情はかなり面白がっているように見え、智紀は憮然とする。

それにしても、最近はお互い忙しくほとんど会ってもいない瑞枝が何だってそんなに怒るのか。

接触が無いのだから怒らせるようなこともしていないはずだが、なんとなく厄介なことが待っているような気がして智紀は溜息を漏らした。


ワンコールも鳴り終わらないうちに、瑞枝の尖った声が聞こえた。

「遅いわよ」

かなりの不機嫌さが伝わってきて、智紀は思わず受話機を耳元から離してしまう。

だが理由もわからずに不機嫌さを丸出しにされるというのは、気分が良いものではない。

「なんですか、一体」

自然と、智紀も声が尖ってしまった。

しかしそれに負ける瑞枝ではない、というよりそもそもの仕込みは瑞枝なので、智紀が勝てるはずもないのだが。

「智紀、あなた、一体どういう生活しているのかしら」

「…はい?」

「まさか、この期に及んでまだ独身気分でいるわけじゃないでしょうね?」

話の行き着くところが、どうも不穏な感じがして、智紀は言葉に詰まった。

智紀との生活は別として、木綿子が瑞枝とかなり親しくしているのは智紀も知っている。

結婚生活については木綿子がうまくごまかしているのだと思っていたが、瑞枝の口振りからすると、どうやら何か勘付かれたらしい。

「智紀、聞いてるの?」

「…聞いてますよ」

「昨日“は”、帰ったみたいですけど、その前はいつ帰ったのかしら」

あからさまに“は”を強調されて、智紀は顔を顰める。

そして咄嗟に朝の西條との会話を思い出したが、正直にその数字を言う気にはもちろんなれなかった。

だが答えに詰まった時点で、言えないくらい前のことだと既に伝わってしまっていることは確実だ。

予想を上回る厄介な内容に、智紀は内心で大きく舌打ちをした。

「何が言いたいんですか」

「何ですか、その態度は。木綿子ちゃんは下手な嘘ついて必死にあなたのこと庇ってた、っていうのに」

確かに、木綿子は嘘が苦手だろう。

なんせ言わなくてもよかったはずの結婚の本当の理由まで、無意識のうちだろうが智紀に正直に言ってしまうほどだ。

そう思いながら、智紀は自嘲気に口を歪めた。

「とにかく。あの部屋に木綿子ちゃんをひとりにしておくわけにはいかないわ」

「だからって、どうするつもりなんですか」

「今後は、パーティに連れていきます」

瑞枝はきっぱりと言い切ったが、智紀はあまりのことに絶句した。

木綿子は、はっきり言って社交界慣れしていない。

実際、智紀との婚約披露や結婚披露のパーティですら、ガチガチに緊張していて後で気分を悪くするほどだった。

そのため、それ以降パーティに招かれることがあっても、いつも欠席してきたのだ。

それを知っている瑞枝が、木綿子をパーティに連れ出そうとするなど正気の沙汰とは思えない。

「…無理でしょう」

「誰がひとりで連れ出すと言ったの。あなたも行くんですから、無理なことはないわ」

「は?」

「用件はそれだけよ。日時は追って連絡します。いいですね」

いい、とも、悪い、とも言わせてもらえず、瑞枝の言葉が終わると同時に電話は切れた。

顰め面の智紀は、一体何なんだ、と溜息をつきながら、受話機を元の位置に戻す。

瑞枝の意図は即ち、智紀と木綿子がとにかく一緒の時間を過ごすように仕向けたい、ということだ。

そのためには、確かにパーティが一番手っ取り早いことは智紀も否定はしないが、問題は智紀も木綿子もそれを望んでいないことにある。

だが瑞枝は言い出したら必ずやる人間だし、木綿子が瑞枝に反対するとも思えない。

それに、結婚生活の実態が暴かれそうな今、瑞枝に逆らうことは避けておきたい。

つまり今の智紀に選択の余地はないということである。

木綿子をエスコートしなければならない自分を想像すると、智紀は頭痛を感じて目をきつく瞑った。


瑞枝さん怒りのパワーで発動です。

智紀が家に帰ろうとしないので、強制的に一緒にいさせる作戦です(笑)。

智紀は基本押しに弱いタイプ。

突っかかりつつも結局瑞枝さんや西條にいつも押し切られています。

その点木綿子は引きタイプなので、智紀との関係改善には時間がかかりそう…。

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