03
閉じたドアに靠れかかり、木綿子はネグリジェの裾をぎゅっと握りしめた。
無表情な智紀の顔を思い出し、惨めさにまたしても泣きそうだった。
木綿子はいつもなら、ネグリジェなど着ない。
そもそも、このネグリジェだって自分で揃えた物ではなく、瑞枝からもらったものだ。
瑞枝は、ランジェリーからウェディングドレスまで幅広くデザイナとして活躍しており、これも瑞枝のデザインである。
最近ではサンプルを木綿子のサイズに合わせて作ってプレゼントしてくれたりする、その中の一点だった。
素敵なものばかりで心が躍るとはいえ、見てくれる相手がいなければ空しいだけだ。
だから木綿子は、智紀が早めに帰ってくる日だけ、何かを期待するように着ていたのだ。
だがこれまで、智紀がその姿を見たことは無かった。
今日はどういうタイミングか、たまたま廊下で会ったために智紀の目に入ることになったが、あの表情だ。
ほんの少しの変化も動揺も感じられなかった声と表情に、木綿子の心は傷ついた。
全く関心を持っていないのだと、こんな風に思い知らされるなら、やはり止めておけばよかった。
木綿子はのろのろと歩を進め、クロゼットを開けると、パジャマを取り出してネグリジェを脱ぎ捨てる。
いつもの格好に落ち着くと、今まで着ていたネグリジェをじっと見つめてから、そっと畳んで置いた。
もう何も考えないようにしよう、と言い聞かせてからベッドにもぐりこむ。
どうせ、明日からは智紀のいないいつもの日常に戻るのだ。
ただそれだけのことだ、と木綿子は無理矢理自分を説得した。
木綿子の起床時間は、毎朝6時だ。
子どものいない専業主婦としては、それほど遅くないと思ってはいるが、智紀はもっと早い。
そろりと部屋のドアを開けても、人のいる気配はしない。
智紀は今日も、もう出てしまった後のようだ。
智紀の起床や出発に合わせようと以前は時間を聞いていたが、大抵いつも言うより早く、それが何度も続くうちにすっかり諦めてしまった。
リビングに行くと、モモが駆け寄ってきた。
「おはよう、モモ」
わんっ、と元気な返事。
多分今日もそうだろう、と思いつつテーブルの上を見ると、やはり智紀のメモが載っている。
小さな紙に、一言だけ。
“モモは散歩済み”。
そっと紙をつまみあげてもう一度部屋に戻ると、ミニデスクの引き出しから缶を取り出してその中に大切に仕舞った。
洋食のレシピとは対照的に、こちらの缶の中にはたくさんの紙が入っている。
そのすべてがモモの散歩に関する内容であるということが、哀しい笑みを生じさせる。
おはようとか、行ってくるとか、今日はどう過ごすのかとか、そんなことは書かれたことが無い。
それでも、こんなメモですら置いてあることにほっとしてしまうくらい、木綿子は温もりに飢えていた。
簡単な朝食を作り、ダイニングテーブルでひとり食事をする。
もう慣れたはずのことだが、智紀がたまに早く帰った夜の翌朝は、いつも以上に寂しく感じる。
この広い空間に、自分ひとりきりなのだと思い知らされるのだ。
箸が自然と進まなくなり、ぼんやりと空を眺めていると、食事を終えたらしいモモが寄ってきて鼻先を足に乗せた。
きゅぅん、という小さな声が、まるで慰めてくれているように感じて、木綿子はほほ笑む。
食事を摂ることを完全に放棄した木綿子は、椅子から下りてラグの上に座り込んだ。
「モモ、昨日はあの後智紀さんと遊んだの?」
わふっ。
モモは嬉しそうにしっぽを振りながら答える。
「今朝も、お散歩楽しかった?」
そっと頭や体を撫でてあげながら続けて聞くと、モモはますますしっぽを振って答えてくれる。
かわいくて、あったかくて、木綿子はモモに触れながら気持ちをだんだんと落ちつけていく。
「モモがうらやましいわ…智紀さんと一緒にいられて」
それは、紛れもない本心だった。
もういっそのこと、犬か猫にでもなってペットになってしまいたい、とすら思ってしまう自分を苦く笑う。
木綿子は、首を傾げて自分を見つめるモモを優しく抱きしめた。
モモがいてよかった、といつも思う。
もしもモモがいなくて、本当に自分独りだったら、きっとこんな生活は耐えられなかった。
「モモ、ありがとうね」
おとなしく木綿子に抱かれたままのモモに、静かにお礼を言う。
しばらくそうしていると、何となく元気が出てきた気がして、木綿子はモモを放してあげる。
立ち上がって気合いを入れると、木綿子は家事をするために動き出した。
ひと通り家事を終えソファでくつろいでいると、着信音が鳴った。
デフォルト設定で、機器の中に元々入っているパターン音のため、相手は見なければわからない。
携帯を手に取って見ると、瑞枝からのメールだった。
『木綿子ちゃんおはよう。突然だけど、今日はお昼空いてるかしら? もしよかったら、ランチを一緒にどう?』
瑞枝の明るくて優しい話し方がそのまま反映されたような文面に、木綿子は思わずほほ笑んだ。
智紀との仲はまったく冷えきっているが、この結婚でただひとつ救いとなっているのは、義父母がかわいがってくれることだ。
光昭も瑞枝も、忙しいのによくランチやショッピングに誘ってくれ、まるで本当の娘のように接してくれる。
彼らが智紀と木綿子の仲はうまくいっていると思っている分、時折心苦しくなる時もあるが、それでも優しさは嬉しい。
お昼までにはまだ時間もたっぷりとあり、十分支度ができる時間だ。
それに、ひとりで長い一日を過ごすより、優しい人と一緒に過ごすほうが良いに決まっている。
いそいそとOKの返信をするとお迎えに来てくれることになり、朝から続いていた沈んだ気分から、木綿子はようやく浮上した。
瑞枝が連れて来てくれたのは、最近瑞枝が気に入っているというフレンチレストランだった。
奥まった個室に瑞枝とともに案内され、先導してくれていた支配人が出ていくと木綿子はほっと息をつく。
醍醐のネームブランドを感じることは、まだ慣れていないしそもそも苦手だ。
淡谷家は名家と言われ、淡粋に足を運ぶ政財界の著名人とも懇意にしてはいたが、生活は普通の家と変わらなかった。
職人気質な實の方針で、度々誘われた社交界にも一切出ていなかったし、外でこういう特別扱いされることにも免疫が無い。
これが普通、と堂々としている瑞枝を見ながら、木綿子は多少の気後れを感じたが、瑞枝と喋り始めるとそれも気にならなくなる。
日本有数の会社の会長夫人、且つトップデザイナであるにも拘らず、瑞枝は気取らない性格で木綿子を安心させてくれる。
やがて運ばれてきた料理も、食べるのがもったいないと思うほどの美しいものだった。
もちろん、味も最高に良い。
ランチは軽めのコースだったが、木綿子と瑞枝は満足の溜息をつい漏らす。
最後にデザートとコーヒーが運ばれてくると、店のスタッフの出入りは無くなり、ふたりはますますお喋りに興じた。
ふいに、カノンのメロディが流れ出し、木綿子ははっとした。
携帯を、マナーモードにするのを忘れていた。
それにしても、もう3時半か。
瑞枝と一緒にいると、つい時間を忘れてしまう。
急いで携帯を取り出したものの、メールを開こうとする手が緊張のために震えた。
昨日早めに帰ってきたから、多分、いや絶対に、今日は帰って来ないだろう。
そんな連絡のメールを瑞枝の前で開かなければならないことに、異常に緊張する。
「智紀からね」
「えっ?」
木綿子が何も言わないのに、瑞枝は相手を特定した。
どうしてわかってしまったのだろう、と木綿子は瑞枝をじっと見つめてしまい、瑞枝は笑う。
「カノンだったからそうかしら、って。披露宴のときに流してたでしょう?」
「あ、…覚えてました?」
「当たり前よぉ。木綿子ちゃんがうちのお嫁に来てくれた日だもの。あの日のことは全部覚えてるわ」
自信ありげに言う瑞枝に、木綿子はほほ笑みながら内心では切ない気持ちでいっぱいだった。
パッヘルベルのカノン。
誰もが聞いたことのある、厳かに同じ旋律を追唱していく、名曲。
それは、披露宴で流したい曲があるか、と尋ねられて唯一木綿子が希望した曲だった。
美しいメロディが、何度も繰り返され、追いかけられていく、その様が智紀との生活に反映することを願っていた。
だが、現実はそうではなかった。
結婚した初日から今まで、もう何度も思い知らされている。
それでも、自分でも呆れてしまうが今でもその願いは捨てられない。
だから、最低限の機能しか使えない慣れない携帯を操作して、智紀の着信音だけ別の物に設定したのだ。
『今日は帰らない』
智紀のメールは予想通りの内容で木綿子を落ち込ませたが、瑞枝が目の前にいる手前そんな素振りはできない。
できるだけ素早く了解の返信をすると、マナーモードに設定してからバッグへ放り込んだ。
と言っても、木綿子の携帯を知っている人はかなり限定されているため、この時間を過ぎればおそらくもう鳴らないだろうが。
「何て?」
「今日は、帰れないそうです」
「なんですって?」
「え…」
にこにこと聞いてきた瑞枝だが、木綿子の答えに表情と口調が一変する。
あまりの変化に、木綿子は驚いてしまった。
智紀との仲を誤解させるままにしている後ろめたさから、木綿子は他のことでは正直でいたかった。
だが今の質問に正直に答えたのは間違いだったようだ、とすぐに思ったが訂正するには遅すぎる。
「木綿子ちゃん、こういうこと、よくあるの?」
「あ、えっと…」
瑞枝に真っ直ぐに見つめられ、木綿子は答えあぐねる。
それが既に肯定の返事だと木綿子自身は気づかないまま、曖昧な笑みを浮かべて首を振った。
「と、時々です」
「…そう?」
「はい、それに、昨日は帰ってきてましたし」
「昨日“は”、ね…」
これは本当のことだ、と木綿子は力を込めて話した。
納得してくれたのかはわからなかったが、瑞枝はそれ以上は聞いてこなかったので、木綿子は安堵のため息をこっそりと漏らした。
瑞枝と別れると、木綿子はモモだけが待つ部屋に帰る。
玄関まで迎えに来てくれたモモとリビングへ行ったが、がらんとした部屋に、今日はなぜか朝以上の特別の切なさを感じた。
いつもならここまで気にせずともいられるのに、先ほどの瑞枝との会話のせいだろうか。
瑞枝は木綿子には何も言わなかったが、自分が智紀に疎まれているということに、気づかれてしまったに違いない。
知られたくなかった。
昨日から泣いてばかりいる自分に嫌気がさしながらも、じわじわと目に水が盛り上がるのを止められない。
どうしても埋められない何かを必死に埋めようと、木綿子はモモを抱きしめた。
寂しい日常です。
箱入りだったため、卒業後も付き合えるような友達もいないのですね。
携帯も智紀と結婚することになってから使い始めたので、まだ慣れないし。
そんな環境なので、木綿子はモモ依存症です。
でも瑞枝は木綿子の強力な味方。
今後瑞枝の行動がきっかけで、10か月の膠着状態が少しずつ動いていきます。




